大人のピアノ

大人のピアノ そのななじゅうに 夏の日に遠くから吹いてきた清潔な風

「うちの組の子らにはみんな、自分が気がついたら一人ぼっちやったっていう思いがどっかにあると思う」

 夏の昼前の校舎の屋上はだんだんと太陽が高く昇り、二人の影を床に映し出していた。いっくんの声は、そんな夏の日に遠くから吹いてきた清潔な風のようだった。

「みんなはぐれもの?」

 慶子はいっくんの声に自分の声を重ねた。

「ああ。でもヤクザもんやからはぐれてるというのとちょっと違うねんな」

「どう違うん?」

 いっくんは少し考える素ぶりだった。

「順番が逆やねん。人と比べて自分ははぐれとるなっていうなんや醒めたのとは違うて、ある日突然『あれ?自分だけ何や分からんけど人とちゃうんな』っていう迷子になったような感覚かな。そっちが先にある。どうしようもない寂しさみたいなもんかな」

「うーん。どんなんやろ。なんとなくわかる気もするけど」



 とっても大事なこと言おうとしてるよね…慶子は言葉を探して少しうつむいているいっくんの姿を切ない思いでさりげなく見つめた。




「あのな、もし世界中に耳を持った生き物がまったくいなかったら、世界に音というのはないってことになる。あるけど聞こえないんじゃなくて」

 いっくんが探し出した言葉は不思議な言葉だった。

「耳がない…聴こえない」

「ああ。ちょっとたとえ話が吹っ飛んでしもたかな」

「…ううん。なんとなく分かるよ。それでも音が聴こえたらどうするのかな。たとえば音楽のメロディみたいなのとか。かすかに『あれ?』今なんだか信じられないくらい心が落ち着く、震える何かが聴こえたって、そんなことがあったら…?」

「うちの組の子らはそういう音が聴こえるんや。たぶん。人には言われへんけど多分そういうふっとした音楽みたいなのが確かに聴こえてるんやと思う」





 慶子の耳には風に舞ういっくんの声が、その誰にも聴こえない音楽のように鳴った。

「聴こえたらどうすんやろ」今のあたしみたいにという言葉は言わなかった。

「きっと誰かに話すと思う」

「でも誰も聞こえない」

「だからそのうち誰にも話さなくなるさ」

「そしてどうなるの?」

「自分の錯覚だったって思うようになるんだ。多分」




 いっくんの顔が夏の日の風に吹かれてぱっと明るく輝いた。哀しい話なのにいっくんは朗らかな笑い方をした。慶子はその笑い顔の奥に二人で同じ曲を弾いたモーツァルトのピアノソナタの旋律が聴こえたと思った。

「錯覚じゃないよ」

「何が?」

「何がって、あたしにはいっくんの言葉の音楽が聴こえる」

「音楽か…オレの言ったことは」

「うん。世界中の誰にも聴こえない。みんなその音を聴くための耳はないから。でもあたしには聴こえたよ」

「そっか…それは…嬉しいな」

 いっくんは溶けるような優しい目で慶子の瞳を覗きこんだ。いっくんが自分の一番大切な心の場所に触れた感じがした。




「じゃあ、オレたちは仲間や」

「仲間?」

「そや。堅い何かで結びついた仲間やな。そういう仲間意識がうちの組の子らにもある」

「…そうなんだ」

 慶子は自分といっくんだけの世界に、急にいっくんの組の若者たちも入ってきたような気がした。

「今、少し寂しそうな顔したな」

「え?」

「だから、それが『あれ?自分だけ何や分からんけど人とちゃうんな』っていう寂しさが先やってこと」

「あ、なんとなく…分かるような…」





「慶ちゃんもきっと、自分だけがこの音聴こえてるんとちゃうやろか、他の人には聴こえへんのちゃうかっていう不安な気持ちもったこあるんと違うか」

 さっき外からやってきてそっと自分のこころを撫でた伊佐夫の声は、今度は慶子のこころ全体をさっと大きく包み込んだ。

「そうかも。でも他にも聴こえる人がいた」

「うん。それ忘れたらあかんねん。その奇跡が起きたみたいな感覚。なんやみんな聴こえるやないか、俺一人ちゃうやんか。なんやこの音を聴こえんやつ方がおかしいんちゃうか、少数派ちゃうんか、俺たちの方が正しいんちゃうか、こう思ってしもたら最初に聞こえた音楽の奇跡は木っ端微塵に消し飛んでまうわ。ここにもおるでえ、慶ちゃん。って同じ音が聴こえる人間ってぞろぞろ勝手に連れてきてもろても、なんやちゃうやろがそんなん。そんなんいらんわ」

「…分かった。そういうことかさっきのあたしの寂しさは」

「そや、それ分かっててわざと言うてみた」

「いけずやなあ、いっくんは」

 二人は笑った。




「うちの組の子らはそういうの絶対に忘れてへんで。最初に自分だけしか聴こえんかもしれんと思いつめてた長い月日、あきらめかけた時に同じ音が聴こえるらしいという自分以外の人間を発見した時のこと」


「うん。あたしも今日のこと忘れたくないよ」

「オレもや」

 二人は照れ臭かったのでお互いの顔は見ずに、フェンスから校舎の外に遠く見える嵯峨野の先の保津峡のが隠れているなだらかな山の稜線を見た。

「Kを追い込んだ連中ももしかしたら最初は寂しい連中だったのかもしれんけどな。自分だけしか聴こえないかもしれない音に不安を抱えて過ごした日もあったかもしれん」

「いっくんは優しい…」

 伊佐夫が自分の方に視線を移すのが感じられたが、慶子はそれに気がつかないふりをしていた。

「優しいなんてことあらへんわ。ただ、自分は一人ぼっちやったっていうことは忘れたらあかんなと思うよ。いくら自分と同じ音を聴く人を見つけられてあの孤独が自分から遠ざかったとしても、忘れたことを忘れたら絶対あかん」

「忘れたことを忘れる…?」

「ああ、その時悪い意味での裸の王様の世界が完成してしまう。もともと自分の音はみんなが聴こえていたんだって開き直ってしまう」

「…その時音楽は鳴らないんだね」

「ああ。子どもの時に聴こえていた、いつかこれと同じ音が聴こえていたという人と出会えるかもしれないと思っていた気持ちは全部のうなってしまう。あの時の音楽ももう絶対に鳴らない」

「うん。そんな大人になりたくないね」

「そんなのは本当の大人じゃないさ」




 伊佐夫がそっと慶子の手を握った。

「忘れたことを忘れない…か」

「笹川の屋敷で聴いた慶ちゃんの弾くモーツァルトがそういう音やった」

「え?」

「慶ちゃんピアノは大人のピアノの音がしてた。オレだけにはその音が聴こえてた。ずっと前から。慶ちゃんに会うずっとずっと前から」



 慶子は伊佐夫の手を握り返した。

『あたしもだよ』

 声には出さなかった慶子のこころのつぶやきは旋律のように伊佐夫の耳に響いた。






つづく

大人のピアノ そのななじゅうさん その音を失わないために

「何だかすごい話を聞いてしまったわ」

 なつみは素直に言えば感動していた。しかし内心複雑な思いもあった。中学生の時代とはいえ母親のいっくんとのことは今もなお強烈な思い出となっている。
 果たして自分は自分の父親について母の口からこれほどのエピソードを聞いたことがあっただろうか。

「そうね。こんな話初めてね」

 母親の中には今でも未解決のままのいっくんがいる。なつみは話し終わったあとの母親のやや潤んだ瞳にそれを感じた。

「いっくんとはその後は?」

 なつみがその瞳につられるようにして問うと、慶子はかすかにその瞳の中に娘に対する感謝の念のようなものをにじませた。だからそれはやはり単なる昔のラブロマンスではない。ずっと封印されてきたその何かは、自分でない、独り言ではない形で言葉に出すことがどうしても必要なのだとなつみは思った。





「うん。その日の屋上が一番の思い出だわ。そのあとは何もない」

「え?どうして…」

 母親の告白めいた思い出話を受け入れるこころの準備をしていたなつみは、少し拍子抜けした。



「あたしたちが屋上にいる間に、教頭先生といっくんのお父様、あたしの父親との三人で話があったのよ。後から聞いたことなんだけど」

「どんな…」

「少しいやな話なんだけど、K君をいじめていた六人組の首謀者の男の子は地元の警察署の署長の長男だったの…」

「うん」

「実家の笹川の家でも政治家のお祖父様の方の付き合いがあったし、いっくんのお父様の方ではもっと実務的なというか…博徒の元締め、平たくいえばヤクザ組織のトップとしての持ちつ持たれつのお付き合いというものがあったみたい」

 母親は詳しくは語らなかったが、地元の名士である警察所長と衆議院議員、裏社会の顔役と地元警察のトップが隠微に関係があるというのはあるのかもしれないなというくらいの想像はなつみにもできた。

「そうなの…」

「ええ。教頭先生も教育委員会にも顔の効く、つまり自分の出世にも影響力のある名士とはうまくやっていきたかったってことだったのね」

「それでいったん解散した後三人だけで密談みたいなことを…」

「そう。いっくんの訴えは簡単にいうとなかったことになったわ。いっくんの妄想として片付けられた」

「そんな…」

「六人組の方でも話を面倒なことにしたというわけで、仕返しがあったわ」

「いっくんに?」

「ううん。いっくんには怖くて仕返しなんて出来ないからあたしによ」

「お母様に…?」

「ええ。今にして思えばくだらないことなんだけど、上履きが隠されたりお弁当に絵の具が塗ってあったり体操服がなくなったりね…」

 たんたんと話す母親の言葉になつみはすぐには言葉が見つからなかった。

「まさか、お母様にそんなことがあったなんて…」

 苦労知らずの典型的な旧家のお嬢さん。そんな漠然としたイメージがひっくり返るような話だった。なつみの驚いた顔に母親は穏やかな顔で軽く頷いた。




「それでいっくんは?」

 なつみがやっと言葉を継ぐと母親はふっと悲しそうな顔をした。

「もちろん黙っていなかったわ。でもいっくんの親から因果を含められていた。自分たちの稼業のために署長の息子とは仲良くやれって」

「辛い立場だね…」

「うん。その時は何も言わなかったけどね…」

「じゃあそのままずっとお母様はいじめを受けて…」

「ううん。いっくんがそんなこと許すわけはないわ」

「そうよね。じゃあ」

「そう。一週間後くらいに六人全員の左右の腕と指がまたドア全部折られたわ」

「じゃあ、いっくんはいっくんのお父様の言いつけに逆らって…」

「うん、そうよ。いっくんはその事件のあとあたしに言ってくれた。

『ヤクザ者が裏取引で警察所長に媚び売ったらおしまいや。組織維持して行く上でそういう取引もあるかもしれん。でもやっぱり最初に自分は一人ぼっちやったっていうことは忘れたらあかんなと思う。Kや慶ちゃんみたいな追い込み方、人を一人ぼっちに孤立させていたぶるようなやり方するやつら利用して自分たちの稼業維持するなんてことやったらあかんて。一人ぼっちだったんは自分やったはずやで。それを人を一人ぼっちに生贄にして自分の過去忘れようなんて許されへん。忘れたことは忘れたらあかんのや、絶対に』

って言ったの」

「さっき聞いたいっくんの信念だね」

「うん。

『そんなことしたら慶ちゃんのピアノの音が聴こえんようになってまうやんか』

そう言ってた」

 母親の悲しい顔の理由は痛いほど分かった。いっくんは一番大切なものを守ろうとしたのだった。





「でもそのままでは済まなかったんでしょ、いっくん」

「ええ。もちろんよ」

「どうなっちゃったの?」

「博徒組織の後継者の自分がその親分の言いつけを公然と破った。その責任をとって指を詰めたわ」





 なつみは母親の言葉の意味を理解するのに手間取った。ばらばらの単語が音声として通り過ぎた。母親の目を見てその瞳の奥に聞き慣れない単語の意味を求めた。

 その母親の瞳にすっと涙が浮かんで頬を伝った。

「いっくんは言ったわ

『これでもう慶ちゃんとピアノを競い合うことはできんようになってもうたわ。でも慶ちゃんのピアノの音はこれでずっと聴こえるで』



 慶子の涙は娘のなつみに伝染した。なつみはソファを立って母親の横に座り直して母親の手をそっと握った。

「いっくんは笑って最後にもう一度付け加えたわ。夏の日に遠くから吹いてきた清潔な風みたいに…

『これで大人になっても慶ちゃんのピアノの音がずっと聴こえる』




 泣き崩れた母の肩を抱きながら、なつみはいっくんがその後程なくしていっくんが京都を離れ、関東の親戚にあずけられたことを母の口から聞いた。



「それがいっくんとは最後よ。その後はあたしが学校で嫌な思いをしないようにって、いっくんのお父様が全て手を回したみたい。いじめも嘘のようになくなった。今後困ったことがあれば将来に渡ってなんでも言ってくれって。そんなこともうどうでもよかった」

 母親は泣き止んだあとなつみにもたれ掛かりながら静かにそう言った。





つづく






 

大人のピアノ そのななじゅうよん 朝子への陰謀

 なつみと母親の慶子が話をしていたその日、篠崎家はつかの間の平穏、嵐と嵐の間の小康状態といった空気が漂っていた。

 朝子が千葉の藤井組から解放され、疲れているだろうからと部屋で休んだのが昼過ぎだった。ドア何時間か死んだようにぐっすり寝たらしい。

 目が覚めたのは、執拗に鳴り続けるインターフォンの音だった。精神的なショックもありインターフォンが鳴っていることに気がついたあとも、朝子はすぐに体を起こすことができなかった。両親はいないのか。朝子はそのことを不思議に思ったがすぐに枕元のメモを見つけた。
 メモには「30分だけ駅前のスーパーにお父さんの車で食品の買い出しに行ってきます」という母親の冴子の文字があった。

 どうせすぐに止むだろう。そう思って布団をかぶり直したのだが、インターフォンはしばらくするとまたなり始める。五分ほどもそれが続いただろうか。朝子はやっと二階の自分の部屋を出てすぐの廊下にある内線電話でインターフォンに応答した。




「はい」

「武蔵小杉警察署刑事課の脇田と申します」若い男はそう名乗った。

「何のご用でしょうか」

「この度は大変なことに巻き込まれてしまいお疲れのことと存じます」

「はい…私に何か」朝子は相手の意図を確認しようとした。

「大変お疲れのところ恐縮ではありますが、これから少し事情聴取のようなものをさせて頂けませんでしょうか」

 刑事は慇懃に、しかし強い口調で言った。この若い刑事がもう少し穏やかな調子であったのなら朝子は普通に対応したかもしれない。しかし生硬な刑事の口調は朝子に警戒心を与えた。

 警察との関係は今回非常に微妙である。武志の逃亡の時点からすべてを警察に任せるという方法も取れたはずだった。しかしいろんな事情から警察には世話にならずに裏社会のことは裏社会の遣り方で解決するということに皆が納得し、その合意のもとに今まで話が動いている。

 ここで父親にも相談できぬまま、留守中に自分が警察と接点を持つことは、なにか取り返しのつかない事態を引き起こしそうな気がした。


「今ちょうど両親が不在でして、またあらためてお願いできますでしょうか」

 そう言って朝子がインターフォンを切ろうかという気配を伝えると、インターフォン越しに若い刑事が明らかに狼狽しているのがわかった。




「もしもし」いきなり別の年長者の声がした。

「はい。すみませんねえ、お疲れのところ恐縮です」

「はい…」

「脇田の上司の寺村といいます」年配の刑事の声は落ち着いた感じの雰囲気だった。

「はい…」

「単刀直入に言います。今ご両親がご不在なのは私共でも確認しております。実はご両親が車に乗って出かけられたのを確認し、お嬢さんが一人であることをチャンスと捉え、こうして内密にコンタクトいたしました」

「…」

 警察がある意図を持って自分に接触してきたことを知って朝子は動揺した。

「ご両親はどうやら警察とは別の組織を使って物事を進めようとされてるようですが、それは非常に問題のあるやり方です」

 寺村刑事は痛いところをやんわり突いてきた。

「詳しいことは私には分かりません」朝子はそう言って逃げようとした。

「お嬢さん、よく聞いて下さいね」

 寺村は心底朝子のことを考えていると言った説得口調で朝子に呼びかけた。



「このままの物事の進め方では、一緒に監禁されていた斉藤武志さんは無事に帰ってこれないかもしれませんよ」

 朝子は寺村の言葉に頭が真っ白になった。

「どういうことですか…」

「ですから、お嬢さんがご両親には内緒で警察に協力してくれれば、武志さんの身の安全は警察が保証します。南友会、通称南方組の石橋が仕切っているうちは警察は斉藤武志さんの生命を含む安全はいたし兼ねるということです」

 口調は穏やかだったがこれは脅迫的な有無を言わせぬ協力依頼だった。

「あたしは…どうすればいいんですか…」

「あ、今あなたのご両親の車がこちらに戻ってきますので、一旦インターフォンを切ります。ご両親にばれないように今からいう携帯電話にあなたがあとで電話をしてください。私の携帯です。お父さんは今回の件では南友会と繋がってしまっていますから必ず内密にお願いします。武志君のお姉さんなどにも決して相談しないようにして下さい。でないと彼の身の安全は保証できかねます」




 朝子は混乱する頭を何度か振り、震える手で寺村の携帯の番号をメモした。


「ではよろしく」

 寺村刑事が番号を告げるとインターフォンは性急に切られた。程なくして玄関に両親が帰宅した気配がした。



つづく

大人のピアノ そのななじゅうご 愛しの武志

  朝子は混乱した頭を整理するためにもう一度ベッドに横たわって布団を浅くかぶった。そして台湾屋台で武志とおしゃべりしていた時のことをぼんやりと思い出していた。

「あたしが最後は何とかする」ドア

 なぜ自分はあんな言葉を口にしたのだろうか。一週間後には自分の身の安全、命すら危ぶまれる武志に何か言ってあげたかった。武志があんな状況の中、自分ができる限り最大限周りの人間のことを慮り、なんとか最善の結果を作り出そうとしているのが痛いほど切ないほど分かった。今から思うと確かにあの場の雰囲気から口にしたこととはいえ、自分は武志に対して母性本能のようなものを感じていたような気がする。

 奇妙な言い方かもしれないが、優等生の子供がたんに学校で勉強ができるというだけではなくて、大人になるということにも優等生であるというのがあると思う。そういう意味で自分に期待される若者像を察知してそれをいち早く身につけることに関しても武志は優等生なのだと思った。それは年配者に対してだけではないとも思う。武志は高校時代までおそらく同年代の女の子に半端じゃなくもてたと思う。それは武志がおそらく同世代の女の子が期待する大人の男性像を察知して身につける能力が抜きん出ていたからのような気がする。

 ここ数日接していて思ったのは、武志はとにかくいわゆる「ツボ」を抑えるのがうまかった。的確に相手の考えていることを読み取って、そこに目立たない程度の自分らしさを加えて相手に切り返す。自分の両親にしても、おそらくあの石橋というヤクザや南方という親分さん、姉のなつみ先生、父親に対してもそうだった。

 でもそのクールな大人らしさは、本当の武志なのだろうか。朝子はかすかにそんな気持ちを抱いていた。


 ピアノを弾いている時の武志ドアは完全な大人のピアノを弾いていた。それは大人びた演奏ではなくて、どこか突き抜けて大人だった。子供だった自分を遠くから大人の視線で優しく包み込むような演奏だった。かつて子供だったことを忘れない、しかし子供であることを一度は完全に忘れた、忘れることが必要だった大人の諦観のようなものが漂っていた。


 武志はその人間としての「大人びた自分」と、ピアニストとしての「大人のピアノ」を弾く自分のアンバランスさに気がついていると思う。気がついてそのことに何か息苦しさを覚えている。

 それは大人のピアノを弾く自分から見れば、大人びた自分がおそらく背伸びをした偽物のように感じられるのではないか。

 背伸びをしようと思ったことは実際には武志には一度もないと朝子は思う。なぜなら武志の器用さは背伸びなどせずにも、あっさりと大人や男友達や女の子の期待する人間として振る舞うことができてしまうからだ。


『自分はこうやって「大人のピアノ」を弾く資格があるんだろうか。たまたままぐれでそういうことが出来ているだけじゃないのか』

 武志の苦悩、武志が南方に答えを見出そうとしてヤクザ組織の中に身を置いた理由はそこにあるという気がした。千葉の藤井組で会った南方という人には多分大人のピアノを弾く十分な資格があるのだろう。






 左右の小指をさりげなく見たけど、確かに武志が言っていたようにそこにはピアノを弾くにはあってしかるべき小指がなかった。それでも武志は南方の演奏が凄まじいと言っていた。

 それは南方が自分とは違ってごく幼少の頃から、「大人のピアノ」のなんたるかを知っていたためではないだろうか。どうすれば大人びた自分が弾く大人のピアノではなくて、南方のように自然に大人のピアノを弾くことができるのか、南方はいったいどんな生き方をしてきたのか、それを武志は何とかつかもうとして一年以上も南方のそばにいたのだ。



 眠れない夜、両親の目を盗んで武志と夜家の周りを散歩した時に武志が言っていた。

 南方さんの右手の小指は今から十年ほど前組織同士の抗争の折、止むに止まれぬ事情で落とすことになったらしい。しかし左手の小指は南方さんがまだ中学の時に自分から落としたものだという。南方さんはそれについては多くを語らなかったようだった。ヤクザがらみの事情ではなくて南方さんの大切な初恋の相手のため、ということらしかった。

 武志は南方さんが中学の時に小指を落とすことになったことと、小指のない南方の弾く究極の大人のピアノに関連があると確信しているようだった。「自分に決定的に欠けている世界がそこにある」と言っていた。「それに気がつくことができなければ、僕のピアノは必ず近いうちにダメになってしまう」武志は苦しそうな顔で何度もそう言っていた。




 朝子は布団をかぶり直して藤井組にまだなお軟禁状態の武志の顔を思い浮かべた。





つづく
ゆっきー
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