「何だかすごい話を聞いてしまったわ」
なつみは素直に言えば感動していた。しかし内心複雑な思いもあった。中学生の時代とはいえ母親のいっくんとのことは今もなお強烈な思い出となっている。
果たして自分は自分の父親について母の口からこれほどのエピソードを聞いたことがあっただろうか。
「そうね。こんな話初めてね」
母親の中には今でも未解決のままのいっくんがいる。なつみは話し終わったあとの母親のやや潤んだ瞳にそれを感じた。
「いっくんとはその後は?」
なつみがその瞳につられるようにして問うと、慶子はかすかにその瞳の中に娘に対する感謝の念のようなものをにじませた。だからそれはやはり単なる昔のラブロマンスではない。ずっと封印されてきたその何かは、自分でない、独り言ではない形で言葉に出すことがどうしても必要なのだとなつみは思った。
「うん。その日の屋上が一番の思い出だわ。そのあとは何もない」
「え?どうして…」
母親の告白めいた思い出話を受け入れるこころの準備をしていたなつみは、少し拍子抜けした。
「あたしたちが屋上にいる間に、教頭先生といっくんのお父様、あたしの父親との三人で話があったのよ。後から聞いたことなんだけど」
「どんな…」
「少しいやな話なんだけど、K君をいじめていた六人組の首謀者の男の子は地元の警察署の署長の長男だったの…」
「うん」
「実家の笹川の家でも政治家のお祖父様の方の付き合いがあったし、いっくんのお父様の方ではもっと実務的なというか…博徒の元締め、平たくいえばヤクザ組織のトップとしての持ちつ持たれつのお付き合いというものがあったみたい」
母親は詳しくは語らなかったが、地元の名士である警察所長と衆議院議員、裏社会の顔役と地元警察のトップが隠微に関係があるというのはあるのかもしれないなというくらいの想像はなつみにもできた。
「そうなの…」
「ええ。教頭先生も教育委員会にも顔の効く、つまり自分の出世にも影響力のある名士とはうまくやっていきたかったってことだったのね」
「それでいったん解散した後三人だけで密談みたいなことを…」
「そう。いっくんの訴えは簡単にいうとなかったことになったわ。いっくんの妄想として片付けられた」
「そんな…」
「六人組の方でも話を面倒なことにしたというわけで、仕返しがあったわ」
「いっくんに?」
「ううん。いっくんには怖くて仕返しなんて出来ないからあたしによ」
「お母様に…?」
「ええ。今にして思えばくだらないことなんだけど、上履きが隠されたりお弁当に絵の具が塗ってあったり体操服がなくなったりね…」
たんたんと話す母親の言葉になつみはすぐには言葉が見つからなかった。
「まさか、お母様にそんなことがあったなんて…」
苦労知らずの典型的な旧家のお嬢さん。そんな漠然としたイメージがひっくり返るような話だった。なつみの驚いた顔に母親は穏やかな顔で軽く頷いた。
「それでいっくんは?」
なつみがやっと言葉を継ぐと母親はふっと悲しそうな顔をした。
「もちろん黙っていなかったわ。でもいっくんの親から因果を含められていた。自分たちの稼業のために署長の息子とは仲良くやれって」
「辛い立場だね…」
「うん。その時は何も言わなかったけどね…」
「じゃあそのままずっとお母様はいじめを受けて…」
「ううん。いっくんがそんなこと許すわけはないわ」
「そうよね。じゃあ」
「そう。一週間後くらいに六人全員の左右の腕と指が
また全部折られたわ」
「じゃあ、いっくんはいっくんのお父様の言いつけに逆らって…」
「うん、そうよ。いっくんはその事件のあとあたしに言ってくれた。
『ヤクザ者が裏取引で警察所長に媚び売ったらおしまいや。組織維持して行く上でそういう取引もあるかもしれん。でもやっぱり最初に自分は一人ぼっちやったっていうことは忘れたらあかんなと思う。Kや慶ちゃんみたいな追い込み方、人を一人ぼっちに孤立させていたぶるようなやり方するやつら利用して自分たちの稼業維持するなんてことやったらあかんて。一人ぼっちだったんは自分やったはずやで。それを人を一人ぼっちに生贄にして自分の過去忘れようなんて許されへん。忘れたことは忘れたらあかんのや、絶対に』
って言ったの」
「さっき聞いたいっくんの信念だね」
「うん。
『そんなことしたら慶ちゃんのピアノの音が聴こえんようになってまうやんか』
そう言ってた」
母親の悲しい顔の理由は痛いほど分かった。いっくんは一番大切なものを守ろうとしたのだった。
「でもそのままでは済まなかったんでしょ、いっくん」
「ええ。もちろんよ」
「どうなっちゃったの?」
「博徒組織の後継者の自分がその親分の言いつけを公然と破った。その責任をとって指を詰めたわ」
なつみは母親の言葉の意味を理解するのに手間取った。ばらばらの単語が音声として通り過ぎた。母親の目を見てその瞳の奥に聞き慣れない単語の意味を求めた。
その母親の瞳にすっと涙が浮かんで頬を伝った。
「いっくんは言ったわ
『これでもう慶ちゃんとピアノを競い合うことはできんようになってもうたわ。でも慶ちゃんのピアノの音はこれでずっと聴こえるで』
」
慶子の涙は娘のなつみに伝染した。なつみはソファを立って母親の横に座り直して母親の手をそっと握った。
「いっくんは笑って最後にもう一度付け加えたわ。夏の日に遠くから吹いてきた清潔な風みたいに…
『これで大人になっても慶ちゃんのピアノの音がずっと聴こえる』
」
泣き崩れた母の肩を抱きながら、なつみはいっくんがその後程なくしていっくんが京都を離れ、関東の親戚にあずけられたことを母の口から聞いた。
「それがいっくんとは最後よ。その後はあたしが学校で嫌な思いをしないようにって、いっくんのお父様が全て手を回したみたい。いじめも嘘のようになくなった。今後困ったことがあれば将来に渡ってなんでも言ってくれって。そんなこともうどうでもよかった」
母親は泣き止んだあとなつみにもたれ掛かりながら静かにそう言った。
つづく