弟の涙

いつものように、日記帳には、一日の出来事をこと細かく書き記したが、三島に関しては一言しかかけなかった。“三島のバカ、バカ、バカ”ノートをバシッと閉じるとベッドに飛び込んだ。しばらく天井を見つめていると、ドアをうるさく叩く音がした。「おい、美波、寝てるのか」だみ声の父、勲の声だった。「うるさいな~、起きてるわよ」美波は飛び起きてドアを開けた。

 

勲は腰と首を痛めてからは、大工を辞めガードマンをやっていた。明日の出発の時間を伝えるために、二階に駆け上がってきた。美波がドアを開けるや否や、勲は怒鳴るように言った。「明日は、4時に家を出る。飯はいらん」言い終えると背を向けた。即座に、美波は呼び止めた。「父ちゃん、話がある」勲は、初めて言われた言葉に目をむいて振り向いた。「なんや!小遣いは、もう無い、我慢せい」勲はお金のことを言われるのが、最もつらかった。

 

美波は、ほんの少し笑顔を作って、勲の背中を押しながら、階段を下りた。美波は勲をテーブルの席に着かせると、お茶を入れた。お茶を前にした勲は、美波の笑顔が気になっていた。「なんだ、話って」勲は進路についての話ではないかと直感した。近々、三者面談があるからだ。進路は美波の意志に任せることにしていた。美波は定時制に通うといっている。このことについて、勲は賛成していた。だが、気が変わって、友達と一緒の私立に行きたいと言えば、喜んで賛成することにしていた。

美波は、少しためらっていた。黙って受験したことを叱られるんじゃないかと不安に思っていた。美波はお茶をすすっては、チラッと勲を見つめていた。勲はそのたびに、目をそらしていた。「父ちゃん、怒らんで、聞いてよ。うちね、父ちゃんに内緒で受験したと」勲は、一瞬、ドキッとしたが、今頃受験する学校なんかあるのだろうかと怪訝に思った。勲は、日ごろ、美波にはつらい思いをさせていた。学校だけは、美波の好きなところに行かせたかった。勲は、笑顔を作って話を促した。

 

「どこば、受けたと?」勲はぶっきらぼうに訊ねた。美波は下を向いて小さな声で答えた。「士官学校、二丈にできた」美波もぶっきらぼうに答えた。勲は、思いもかけない学校名に目を大きくした。「今度できた国防省の士官学校か、超難関の学校たい。無鉄砲のお前らしかたい。チャレンジすることはいいことばい。落ちたからといって、嘆くことはなか。私立でも、公立でも、好きなとこを受けてよか。元気出せ」勲は、士官学校に落ちたと思って励ました。

 

美波は、ますます言いにくくなってしまった。勲を見ては、うつむいて、また、小さな声で話し始めた。「一次試験がこの前あってな、書類審査なんやけど、この試験に、合格したと」美波は顔を持ち上げ、勲を見つめた。勲は、聞き間違いじゃないかと、自分の耳を疑ったが、確かに合格と聞こえたことに震えが来た。「合格!本当に、士官学校に合格したとか」勲は、信じられない顔で、再確認した。美波は、ゆっくりと答えた。「本当に、合格したと」美波は小さな笑顔を作った。

 

勲は突然立ち上がり、すべてを無視して、千代の仏壇の前に正座した。「千代、ありがとう。美波が、おれば、男にしてくれた」言い終えると、両手を顔の前に合わせ、しばらく拝んでいた。厳かに立ち上がると、緊張した勲は美波に向かった。美波はいったいこれから何が起きるのだろうかと、びくついた。勲は、美波の右横までやってくると、笑顔を作って美波の両肩に手を置いた。「美波、よくやってくれた。お父さん、一生で、最高の喜びたい。美波、ありがとう」勲は涙を流していた。

 

美波は、いったい、父親に何が起きたのだろうかと戸惑ってしまった。とにかく、怒られずに、喜んでくれたことで、ほっとした。「父ちゃん、そんなに、喜ばんで、まだ、二次試験があると。二次試験で落ちるかもしれんと。まだ、合格したっちゃなかと。早合点、せんどって」美波は、父親が勘違いしたと思った。勲は、大きく頷き、大きな声で話した。「今日は、前祝たい。千代にも報告した。ぱ~と、やるばい」勲は、一次であれ、合格祝いをしたかった。千代が三年前に他界して、一つも家族には明るい話が無かった。とにかく、家族みんなで、わいわい、騒ぎたかった。

 

小学5年の将史がキッチンにやってきた。「うるさか~、父ちゃん、どうしたと。パチンコで勝ったとね」将史はご馳走に預けると思い、跳んでやってきた。「今日は、ぱ~と、やるばい。お前たちの食いたいもの、何でも食ってよか。直道も呼んでこい」それを聞いた将史は、跳んで直道を呼びに行った。勲はどしっと、いつもの席に腰掛けると、美波に指図した。「ビールとチーズもってこい。お前たちも、好きなもの、何でも取ってよか。気にせず、どんどん食え」勲の能天気はいつものことであったが、今日の能天気にはあきれた。

将史が駆け足でキッチンに駆け込んでくると、後に、金魚の糞のように小学2年の直道が駆けて入ってきた。「俺、すし、くいて~」将史が叫ぶと、「ぼく、ピザ、コーラ、チキンナゲット、ポテト」直道が叫んだ。美波は、金助に盛り合わせ5人前を注文し、ピザクックにピザ、チキンナゲット、から揚げ、コーラ、ポテト、お好み焼き、を注文した。将史と直道はテーブルを叩いて、はよくいて~、はよくいて~、とわめき始めた。

 

美波にいつものかんしゃくが起きた。「うるさ~い!お前ら、静かにせんか」美波は、目を吊り上げていた。勲が大きな声で笑った。「美波、鬼のように怒るな。お前の合格祝いじゃないか。そうだ、靴がほしいと言ってたな。買っていいぞ」酒に弱い勲は、すでに酔っていた。「ね~ちゃん、どこに、合格したとね。隠さんでもよかろうもん」将史は、美波の顔を覗き込んだ。間髪はさまず、勲が答えた。「ね~ちゃんは、士官学校に合格したばい。すごいこっちゃ。美波は、えらかばい」勲は、笑顔で話し終えると、ゴクゴクと喉を鳴らしてビールを流し込んだ。

 

将史が、美波に向かって言った。「士官学校って、国立の学校やろ。すごか~、見直したばい」将史は、右手を持ち上げ、敬礼した。直道もまねをして、敬礼した。美波は照れくさくなった。「そんなまね、やめんね、まだ、合格したっちゃなかと、父ちゃんの、早合点たい」美波の顔は真っ赤になっていた。玄関のチャイムの音が聞こえると、美波は玄関に跳んでかけて行った。

春日信彦
作家:春日信彦
弟の涙
0
  • 0円
  • ダウンロード

11 / 25

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント