弟の涙

 弟の涙

 

 峰岸の心は毎日葛藤を続けていた。お金と名誉が手に入る二度とないチャンスを活かし、二次試験を受けるべきか、それとも、二次試験を断り、三島との剣道の道を選ぶべきか、毎日悩み続けていた。合格を知った父、勲の喜びは、美波をよりいっそう苦しめていた。もし、勲が士官学校入学に反対していてくれたならば、どんなに気が楽だったろうとつくづく思っていた。決して、軍人になりたいとは思っていなかった。心の底では、二次試験に合格しないように祈っていた。

 

 8月5日、6日には二次試験がおこなわれる。このことを考えると、夜も眠れなくなっていた。合格すれば、家族は喜ぶ、でも、きっと、三島との剣道の稽古は永遠にできなくなる。毎日のように心の底で、“合格しませんように”と祈り続けていたものの、一向に気分は晴れなかった。夏休みに入り、刻一刻と受験が近づくにつれて、胸が苦しくなるほど気分が落ち込み始めていた。いたたまれなくなった峰岸は、柏木に相談することにした。

 

 7月29日、二人は例のマックで待ち合わせた。柏木は、電話で相談の内容を聞いて気が重くなったが、峰岸のただならぬ心情を察し、相談に乗ることにした。柏木が、約束の10時にマックにやってくると、少しやつれた顔の峰岸は、いつもの窓際のテーブルで、ぼんやりと車の流れを眺めていた。柏木が、テーブルにカルピスを置き、ぽんと肩をたたいたが、返事もせず、魂が抜けたような峰岸は、ぼんやりと振り向き、気がふれたような表情をしただけだった。

 柏木は、峰岸の異変にびっくりした。「峰岸、大丈夫?困っているみたいだけど、考えすぎは身体に悪いよ」柏木は、このまま悩み続けると、病気になるのではないかと心配した。峰岸は、億劫そうに口を開いた。「人生、最大のピンチよ。頭がおかしくなってきた。どうにかしてよ」峰岸は神にお願いするように、両手を合わせた。電話である程度話を聞いていた柏木は、考えていたことを話し始めた。

 

 「要は、規則だらけの仕官学校に行くか、自由な学生生活ができる普通の学校に行くべきか、だったよね。あくまでも、私の意見だから、気を悪くしないでよ。私は軍隊のことはよくわからないのよ。だから、難しいんだけど、私としては、自由に学生生活をエンジョイしたいな~、縛られるのはいやだし。きっと、士官学校は、恋愛禁止だと思う。恋愛できない青春なんて、地獄じゃない。やっぱ、普通の高校に行って、恋愛したいよ。これが、私の意見です。どうかしら」柏木は、率直な意見を述べた。

 

 峰岸は、じっと柏木の話に聞き入っていた。「そうか~、恋愛よね。確かに、恋愛禁止だよね。士官学校といっても軍隊だもの。規則も多いだろうし、外出もできないだろうな~、模範軍人になるために、毎日鍛えられるってことか。考えるだけで、頭が痛くなってきた。やっぱ、軍人になるの、やめようかな~、でもね~、一次試験に合格しちゃたもんな、いまさら、後には引けないし。どうして、合格したんだろう」峰岸は一次試験に合格したことが、恨めしかった。

 

 柏木ははっきりした意見は言えなかったが、話を続けた。「合格したということは幸運なことじゃない。とにかく二次試験は受けるべきよ。合格すれば、軍隊生活はつらいと思うけど、未来が開けるじゃない。日本を守る仕事じゃない。頑張れば。ただし、恋愛は、我慢することになるわね」柏木は、励ましたが、峰岸は笑顔を見せなかった。峰岸は、ぼんやりと三島のことを考えていた。「そうね、恋愛は、無理か」峰岸は、がっかりしたように、沈んだ声でポツリとささやいた。

 

 柏木は、突然笑顔を作り話し始めた。「そう、渡辺が、夏休みで帰ってきているのよ。昨日、うちに遊びに来てね、寮でのいやなことを散々聞かされたよ。やっぱ、寮生活って、苦労が多いみたいね。でも、三島の今度の試合のことを話したら、急に、笑顔を作って嬉しそうだったよ。今でも、三島のこと好きみたいよ。日曜日の試合は応援に行くって言ってた。私もいくけど、峰岸、今度こそ、九州大会に行ってよ」柏木は、峰岸の最後の試合を応援した。

 

 ぼんやりしていた峰岸は、急に真剣な顔になって、話し始めた。「渡辺が三島のことをね~、やっぱ、好きだったのか」峰岸は、水っぽくなったコーラを一気に飲んだ。柏木は話を戻した。「峰岸の根性だったら、何でもやれるさ。軍隊生活だって、耐えられるよ。思うけど、二次試験は絶対合格すると思う。間違いないよ」柏木は、士官学校の受験は教頭の策謀と考えていた。

峰岸は、絶対という言葉が気にかかった。「絶対!どうしてそんなことがいえるのさ。一次試験合格は、まぐれというか、奇跡というか、なんと言うか、今でも信じられないけど、二次試験まで、奇跡が起きるとは思えないんだけど。絶対って、なにを根拠に言うのさ。わけのわからない励ましは、いやよ。どういうことか言ってよ」峰岸は、柏木に食って掛かった。柏木は、まったく動ぜず、笑顔を作って答えた。

 

「あくまでも、私の憶測なんだけど、気を悪くしないでよ。ほら、渡辺の転校のことなんだけど、あれは、教頭が知り合いを通じてやったことだと思う。それと、大島先輩の名門校合格も教頭が仕組んだことだと思うの。きっと、教頭は、いろんな人脈を持っていて、コネが効くのよ。峰岸の合格も、教頭の筋書きだと思うのよ。だから、必ず、二次試験も合格すると確信したのよ。これは、あくまでも、憶測だから、気にしないでよ」柏木は、平然と、峰岸を傷つけるようなことを言った。

 

峰岸は、一瞬地獄に突き落とされたような気がしたが、柏木が合格の謎を解いたように思った。「そうか、そうよね、誰が考えても、へんよね。柏木の言っていることが真実かも。となれば、必ず、合格するってことか。ようは、学校の名誉のために、利用されたってことだな。それはそれでいいかもね。親父は、喜んでいることだし」悩んでいた自分が、ばかばかしくなった。

春日信彦
作家:春日信彦
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