弟の涙

勲は突然立ち上がり、すべてを無視して、千代の仏壇の前に正座した。「千代、ありがとう。美波が、おれば、男にしてくれた」言い終えると、両手を顔の前に合わせ、しばらく拝んでいた。厳かに立ち上がると、緊張した勲は美波に向かった。美波はいったいこれから何が起きるのだろうかと、びくついた。勲は、美波の右横までやってくると、笑顔を作って美波の両肩に手を置いた。「美波、よくやってくれた。お父さん、一生で、最高の喜びたい。美波、ありがとう」勲は涙を流していた。

 

美波は、いったい、父親に何が起きたのだろうかと戸惑ってしまった。とにかく、怒られずに、喜んでくれたことで、ほっとした。「父ちゃん、そんなに、喜ばんで、まだ、二次試験があると。二次試験で落ちるかもしれんと。まだ、合格したっちゃなかと。早合点、せんどって」美波は、父親が勘違いしたと思った。勲は、大きく頷き、大きな声で話した。「今日は、前祝たい。千代にも報告した。ぱ~と、やるばい」勲は、一次であれ、合格祝いをしたかった。千代が三年前に他界して、一つも家族には明るい話が無かった。とにかく、家族みんなで、わいわい、騒ぎたかった。

 

小学5年の将史がキッチンにやってきた。「うるさか~、父ちゃん、どうしたと。パチンコで勝ったとね」将史はご馳走に預けると思い、跳んでやってきた。「今日は、ぱ~と、やるばい。お前たちの食いたいもの、何でも食ってよか。直道も呼んでこい」それを聞いた将史は、跳んで直道を呼びに行った。勲はどしっと、いつもの席に腰掛けると、美波に指図した。「ビールとチーズもってこい。お前たちも、好きなもの、何でも取ってよか。気にせず、どんどん食え」勲の能天気はいつものことであったが、今日の能天気にはあきれた。

将史が駆け足でキッチンに駆け込んでくると、後に、金魚の糞のように小学2年の直道が駆けて入ってきた。「俺、すし、くいて~」将史が叫ぶと、「ぼく、ピザ、コーラ、チキンナゲット、ポテト」直道が叫んだ。美波は、金助に盛り合わせ5人前を注文し、ピザクックにピザ、チキンナゲット、から揚げ、コーラ、ポテト、お好み焼き、を注文した。将史と直道はテーブルを叩いて、はよくいて~、はよくいて~、とわめき始めた。

 

美波にいつものかんしゃくが起きた。「うるさ~い!お前ら、静かにせんか」美波は、目を吊り上げていた。勲が大きな声で笑った。「美波、鬼のように怒るな。お前の合格祝いじゃないか。そうだ、靴がほしいと言ってたな。買っていいぞ」酒に弱い勲は、すでに酔っていた。「ね~ちゃん、どこに、合格したとね。隠さんでもよかろうもん」将史は、美波の顔を覗き込んだ。間髪はさまず、勲が答えた。「ね~ちゃんは、士官学校に合格したばい。すごいこっちゃ。美波は、えらかばい」勲は、笑顔で話し終えると、ゴクゴクと喉を鳴らしてビールを流し込んだ。

 

将史が、美波に向かって言った。「士官学校って、国立の学校やろ。すごか~、見直したばい」将史は、右手を持ち上げ、敬礼した。直道もまねをして、敬礼した。美波は照れくさくなった。「そんなまね、やめんね、まだ、合格したっちゃなかと、父ちゃんの、早合点たい」美波の顔は真っ赤になっていた。玄関のチャイムの音が聞こえると、美波は玄関に跳んでかけて行った。

 弟の涙

 

 峰岸の心は毎日葛藤を続けていた。お金と名誉が手に入る二度とないチャンスを活かし、二次試験を受けるべきか、それとも、二次試験を断り、三島との剣道の道を選ぶべきか、毎日悩み続けていた。合格を知った父、勲の喜びは、美波をよりいっそう苦しめていた。もし、勲が士官学校入学に反対していてくれたならば、どんなに気が楽だったろうとつくづく思っていた。決して、軍人になりたいとは思っていなかった。心の底では、二次試験に合格しないように祈っていた。

 

 8月5日、6日には二次試験がおこなわれる。このことを考えると、夜も眠れなくなっていた。合格すれば、家族は喜ぶ、でも、きっと、三島との剣道の稽古は永遠にできなくなる。毎日のように心の底で、“合格しませんように”と祈り続けていたものの、一向に気分は晴れなかった。夏休みに入り、刻一刻と受験が近づくにつれて、胸が苦しくなるほど気分が落ち込み始めていた。いたたまれなくなった峰岸は、柏木に相談することにした。

 

 7月29日、二人は例のマックで待ち合わせた。柏木は、電話で相談の内容を聞いて気が重くなったが、峰岸のただならぬ心情を察し、相談に乗ることにした。柏木が、約束の10時にマックにやってくると、少しやつれた顔の峰岸は、いつもの窓際のテーブルで、ぼんやりと車の流れを眺めていた。柏木が、テーブルにカルピスを置き、ぽんと肩をたたいたが、返事もせず、魂が抜けたような峰岸は、ぼんやりと振り向き、気がふれたような表情をしただけだった。

 柏木は、峰岸の異変にびっくりした。「峰岸、大丈夫?困っているみたいだけど、考えすぎは身体に悪いよ」柏木は、このまま悩み続けると、病気になるのではないかと心配した。峰岸は、億劫そうに口を開いた。「人生、最大のピンチよ。頭がおかしくなってきた。どうにかしてよ」峰岸は神にお願いするように、両手を合わせた。電話である程度話を聞いていた柏木は、考えていたことを話し始めた。

 

 「要は、規則だらけの仕官学校に行くか、自由な学生生活ができる普通の学校に行くべきか、だったよね。あくまでも、私の意見だから、気を悪くしないでよ。私は軍隊のことはよくわからないのよ。だから、難しいんだけど、私としては、自由に学生生活をエンジョイしたいな~、縛られるのはいやだし。きっと、士官学校は、恋愛禁止だと思う。恋愛できない青春なんて、地獄じゃない。やっぱ、普通の高校に行って、恋愛したいよ。これが、私の意見です。どうかしら」柏木は、率直な意見を述べた。

 

 峰岸は、じっと柏木の話に聞き入っていた。「そうか~、恋愛よね。確かに、恋愛禁止だよね。士官学校といっても軍隊だもの。規則も多いだろうし、外出もできないだろうな~、模範軍人になるために、毎日鍛えられるってことか。考えるだけで、頭が痛くなってきた。やっぱ、軍人になるの、やめようかな~、でもね~、一次試験に合格しちゃたもんな、いまさら、後には引けないし。どうして、合格したんだろう」峰岸は一次試験に合格したことが、恨めしかった。

 

春日信彦
作家:春日信彦
弟の涙
0
  • 0円
  • ダウンロード

13 / 25

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント