弟の涙

美波は、少しためらっていた。黙って受験したことを叱られるんじゃないかと不安に思っていた。美波はお茶をすすっては、チラッと勲を見つめていた。勲はそのたびに、目をそらしていた。「父ちゃん、怒らんで、聞いてよ。うちね、父ちゃんに内緒で受験したと」勲は、一瞬、ドキッとしたが、今頃受験する学校なんかあるのだろうかと怪訝に思った。勲は、日ごろ、美波にはつらい思いをさせていた。学校だけは、美波の好きなところに行かせたかった。勲は、笑顔を作って話を促した。

 

「どこば、受けたと?」勲はぶっきらぼうに訊ねた。美波は下を向いて小さな声で答えた。「士官学校、二丈にできた」美波もぶっきらぼうに答えた。勲は、思いもかけない学校名に目を大きくした。「今度できた国防省の士官学校か、超難関の学校たい。無鉄砲のお前らしかたい。チャレンジすることはいいことばい。落ちたからといって、嘆くことはなか。私立でも、公立でも、好きなとこを受けてよか。元気出せ」勲は、士官学校に落ちたと思って励ました。

 

美波は、ますます言いにくくなってしまった。勲を見ては、うつむいて、また、小さな声で話し始めた。「一次試験がこの前あってな、書類審査なんやけど、この試験に、合格したと」美波は顔を持ち上げ、勲を見つめた。勲は、聞き間違いじゃないかと、自分の耳を疑ったが、確かに合格と聞こえたことに震えが来た。「合格!本当に、士官学校に合格したとか」勲は、信じられない顔で、再確認した。美波は、ゆっくりと答えた。「本当に、合格したと」美波は小さな笑顔を作った。

 

勲は突然立ち上がり、すべてを無視して、千代の仏壇の前に正座した。「千代、ありがとう。美波が、おれば、男にしてくれた」言い終えると、両手を顔の前に合わせ、しばらく拝んでいた。厳かに立ち上がると、緊張した勲は美波に向かった。美波はいったいこれから何が起きるのだろうかと、びくついた。勲は、美波の右横までやってくると、笑顔を作って美波の両肩に手を置いた。「美波、よくやってくれた。お父さん、一生で、最高の喜びたい。美波、ありがとう」勲は涙を流していた。

 

美波は、いったい、父親に何が起きたのだろうかと戸惑ってしまった。とにかく、怒られずに、喜んでくれたことで、ほっとした。「父ちゃん、そんなに、喜ばんで、まだ、二次試験があると。二次試験で落ちるかもしれんと。まだ、合格したっちゃなかと。早合点、せんどって」美波は、父親が勘違いしたと思った。勲は、大きく頷き、大きな声で話した。「今日は、前祝たい。千代にも報告した。ぱ~と、やるばい」勲は、一次であれ、合格祝いをしたかった。千代が三年前に他界して、一つも家族には明るい話が無かった。とにかく、家族みんなで、わいわい、騒ぎたかった。

 

小学5年の将史がキッチンにやってきた。「うるさか~、父ちゃん、どうしたと。パチンコで勝ったとね」将史はご馳走に預けると思い、跳んでやってきた。「今日は、ぱ~と、やるばい。お前たちの食いたいもの、何でも食ってよか。直道も呼んでこい」それを聞いた将史は、跳んで直道を呼びに行った。勲はどしっと、いつもの席に腰掛けると、美波に指図した。「ビールとチーズもってこい。お前たちも、好きなもの、何でも取ってよか。気にせず、どんどん食え」勲の能天気はいつものことであったが、今日の能天気にはあきれた。

将史が駆け足でキッチンに駆け込んでくると、後に、金魚の糞のように小学2年の直道が駆けて入ってきた。「俺、すし、くいて~」将史が叫ぶと、「ぼく、ピザ、コーラ、チキンナゲット、ポテト」直道が叫んだ。美波は、金助に盛り合わせ5人前を注文し、ピザクックにピザ、チキンナゲット、から揚げ、コーラ、ポテト、お好み焼き、を注文した。将史と直道はテーブルを叩いて、はよくいて~、はよくいて~、とわめき始めた。

 

美波にいつものかんしゃくが起きた。「うるさ~い!お前ら、静かにせんか」美波は、目を吊り上げていた。勲が大きな声で笑った。「美波、鬼のように怒るな。お前の合格祝いじゃないか。そうだ、靴がほしいと言ってたな。買っていいぞ」酒に弱い勲は、すでに酔っていた。「ね~ちゃん、どこに、合格したとね。隠さんでもよかろうもん」将史は、美波の顔を覗き込んだ。間髪はさまず、勲が答えた。「ね~ちゃんは、士官学校に合格したばい。すごいこっちゃ。美波は、えらかばい」勲は、笑顔で話し終えると、ゴクゴクと喉を鳴らしてビールを流し込んだ。

 

将史が、美波に向かって言った。「士官学校って、国立の学校やろ。すごか~、見直したばい」将史は、右手を持ち上げ、敬礼した。直道もまねをして、敬礼した。美波は照れくさくなった。「そんなまね、やめんね、まだ、合格したっちゃなかと、父ちゃんの、早合点たい」美波の顔は真っ赤になっていた。玄関のチャイムの音が聞こえると、美波は玄関に跳んでかけて行った。

 弟の涙

 

 峰岸の心は毎日葛藤を続けていた。お金と名誉が手に入る二度とないチャンスを活かし、二次試験を受けるべきか、それとも、二次試験を断り、三島との剣道の道を選ぶべきか、毎日悩み続けていた。合格を知った父、勲の喜びは、美波をよりいっそう苦しめていた。もし、勲が士官学校入学に反対していてくれたならば、どんなに気が楽だったろうとつくづく思っていた。決して、軍人になりたいとは思っていなかった。心の底では、二次試験に合格しないように祈っていた。

 

 8月5日、6日には二次試験がおこなわれる。このことを考えると、夜も眠れなくなっていた。合格すれば、家族は喜ぶ、でも、きっと、三島との剣道の稽古は永遠にできなくなる。毎日のように心の底で、“合格しませんように”と祈り続けていたものの、一向に気分は晴れなかった。夏休みに入り、刻一刻と受験が近づくにつれて、胸が苦しくなるほど気分が落ち込み始めていた。いたたまれなくなった峰岸は、柏木に相談することにした。

 

 7月29日、二人は例のマックで待ち合わせた。柏木は、電話で相談の内容を聞いて気が重くなったが、峰岸のただならぬ心情を察し、相談に乗ることにした。柏木が、約束の10時にマックにやってくると、少しやつれた顔の峰岸は、いつもの窓際のテーブルで、ぼんやりと車の流れを眺めていた。柏木が、テーブルにカルピスを置き、ぽんと肩をたたいたが、返事もせず、魂が抜けたような峰岸は、ぼんやりと振り向き、気がふれたような表情をしただけだった。

春日信彦
作家:春日信彦
弟の涙
0
  • 0円
  • ダウンロード

12 / 25

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント