弟の涙

三島は、依然として本心を言わなかった。三島の暗く落ち込んだ絶望したような顔を見たのは始めてであった。「三島、ばっかじゃないの、奇跡は、二度と起きっこないよ。二次試験は、見事に落ちて見せるよ、ワハハハ・・」三島の思い込みに水をぶっ掛けた。深刻に思い込んだ三島を笑わせようとしたが、まったく表情を変えなかった。三島にとっては、一次合格が二人を遥かかなたまで引き裂いていた。三島は話をする元気さえも失っていた。

 

三島は、自分の正義をあざ笑っていた。独りよがりで、非現実的で、批判的で、妄想的な正義がいやになっていた。峰岸の現実的で犠牲的な決断を目の当たりにすると、自分がちっぽけで、偽善的な愚か者に思えていた。峰岸は軍人になんかになりたいはずが無い。ただ、家族のために軍人になろうとしているに過ぎない。峰岸は、正義とか倫理とかで生きていくことができない現実の真っ只中にいる。峰岸は教科書のような生き方が、できないんだ。

 

肩を落とし、うつむいていた三島はすっと顔を持ち上げ話した。「俺って、剣道馬鹿で、幼稚だな。お前は、大人だもんな」言い終えると、急ぎ足で歩き始めた。峰岸は、急いで追いかけたが、三島は立ち止まらなかった。三島が踏み切りをわたり終えると、峰岸の前に遮断機が下りた。ガタン、ガタンと電車が通り過ぎた後には、三島の姿は無かった。峰岸の前には、数人の女子学生が歩いていたが、大きな声で叫んだ。「三島のバカ~~・・」

いつものように、日記帳には、一日の出来事をこと細かく書き記したが、三島に関しては一言しかかけなかった。“三島のバカ、バカ、バカ”ノートをバシッと閉じるとベッドに飛び込んだ。しばらく天井を見つめていると、ドアをうるさく叩く音がした。「おい、美波、寝てるのか」だみ声の父、勲の声だった。「うるさいな~、起きてるわよ」美波は飛び起きてドアを開けた。

 

勲は腰と首を痛めてからは、大工を辞めガードマンをやっていた。明日の出発の時間を伝えるために、二階に駆け上がってきた。美波がドアを開けるや否や、勲は怒鳴るように言った。「明日は、4時に家を出る。飯はいらん」言い終えると背を向けた。即座に、美波は呼び止めた。「父ちゃん、話がある」勲は、初めて言われた言葉に目をむいて振り向いた。「なんや!小遣いは、もう無い、我慢せい」勲はお金のことを言われるのが、最もつらかった。

 

美波は、ほんの少し笑顔を作って、勲の背中を押しながら、階段を下りた。美波は勲をテーブルの席に着かせると、お茶を入れた。お茶を前にした勲は、美波の笑顔が気になっていた。「なんだ、話って」勲は進路についての話ではないかと直感した。近々、三者面談があるからだ。進路は美波の意志に任せることにしていた。美波は定時制に通うといっている。このことについて、勲は賛成していた。だが、気が変わって、友達と一緒の私立に行きたいと言えば、喜んで賛成することにしていた。

美波は、少しためらっていた。黙って受験したことを叱られるんじゃないかと不安に思っていた。美波はお茶をすすっては、チラッと勲を見つめていた。勲はそのたびに、目をそらしていた。「父ちゃん、怒らんで、聞いてよ。うちね、父ちゃんに内緒で受験したと」勲は、一瞬、ドキッとしたが、今頃受験する学校なんかあるのだろうかと怪訝に思った。勲は、日ごろ、美波にはつらい思いをさせていた。学校だけは、美波の好きなところに行かせたかった。勲は、笑顔を作って話を促した。

 

「どこば、受けたと?」勲はぶっきらぼうに訊ねた。美波は下を向いて小さな声で答えた。「士官学校、二丈にできた」美波もぶっきらぼうに答えた。勲は、思いもかけない学校名に目を大きくした。「今度できた国防省の士官学校か、超難関の学校たい。無鉄砲のお前らしかたい。チャレンジすることはいいことばい。落ちたからといって、嘆くことはなか。私立でも、公立でも、好きなとこを受けてよか。元気出せ」勲は、士官学校に落ちたと思って励ました。

 

美波は、ますます言いにくくなってしまった。勲を見ては、うつむいて、また、小さな声で話し始めた。「一次試験がこの前あってな、書類審査なんやけど、この試験に、合格したと」美波は顔を持ち上げ、勲を見つめた。勲は、聞き間違いじゃないかと、自分の耳を疑ったが、確かに合格と聞こえたことに震えが来た。「合格!本当に、士官学校に合格したとか」勲は、信じられない顔で、再確認した。美波は、ゆっくりと答えた。「本当に、合格したと」美波は小さな笑顔を作った。

 

勲は突然立ち上がり、すべてを無視して、千代の仏壇の前に正座した。「千代、ありがとう。美波が、おれば、男にしてくれた」言い終えると、両手を顔の前に合わせ、しばらく拝んでいた。厳かに立ち上がると、緊張した勲は美波に向かった。美波はいったいこれから何が起きるのだろうかと、びくついた。勲は、美波の右横までやってくると、笑顔を作って美波の両肩に手を置いた。「美波、よくやってくれた。お父さん、一生で、最高の喜びたい。美波、ありがとう」勲は涙を流していた。

 

美波は、いったい、父親に何が起きたのだろうかと戸惑ってしまった。とにかく、怒られずに、喜んでくれたことで、ほっとした。「父ちゃん、そんなに、喜ばんで、まだ、二次試験があると。二次試験で落ちるかもしれんと。まだ、合格したっちゃなかと。早合点、せんどって」美波は、父親が勘違いしたと思った。勲は、大きく頷き、大きな声で話した。「今日は、前祝たい。千代にも報告した。ぱ~と、やるばい」勲は、一次であれ、合格祝いをしたかった。千代が三年前に他界して、一つも家族には明るい話が無かった。とにかく、家族みんなで、わいわい、騒ぎたかった。

 

小学5年の将史がキッチンにやってきた。「うるさか~、父ちゃん、どうしたと。パチンコで勝ったとね」将史はご馳走に預けると思い、跳んでやってきた。「今日は、ぱ~と、やるばい。お前たちの食いたいもの、何でも食ってよか。直道も呼んでこい」それを聞いた将史は、跳んで直道を呼びに行った。勲はどしっと、いつもの席に腰掛けると、美波に指図した。「ビールとチーズもってこい。お前たちも、好きなもの、何でも取ってよか。気にせず、どんどん食え」勲の能天気はいつものことであったが、今日の能天気にはあきれた。

春日信彦
作家:春日信彦
弟の涙
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