「英子ちゃん、実はね、アーサーも、あ、アーサーって名前を彼はもらっているのよ。アーサー、実はやはりショック状態なのね。シルバーバックほどではないけど参ってる。でもママが来たら絶対大丈夫。子供は弱いけど強い、でもあとに響くこともよくあるから、今のうちなら英子ママが元気にしてあげられる。それにしてもあなたってしっかり者ね」
英子は、そう言うジューンの毛を触った。
アーサーと呼ばれるようになった英子の末っ子は、かなりやせ細っていた。しかし喜びのために子供らしい怪力を発揮して、飛び跳ね、抱きつき、叫びまわった。英子はすぐにグルーミングをしてやった。アーサーはすっかりリラックスし、これまでの不安を忘れてしまったかのように、寄り添ってうとうとし始めた。英子が甘い実を食べると、目を開けて自分もそれにかじりついた。バナナもついでに二人で食べた。
二日間、決して二頭は離れなかった。片時も目を離さず二度とお互いを見失わないように気をつけて過ごした。すると三日目には遊びの本能がまた湧き出てきた。遊びといってもそれが学校のようなもので、そこでは同じ種はそろっていないけれども、オランウータン、チンパンジー、テナガザルのような子供の仲間がいたのだ。アーサーの興味は次第に英子だけではなくなり、離れている時間を当たり前に過ごすことも出来るようになった。
七日目にアーサーは英子がなかなか見つからないのに気づいた。夜になると嘆き始めた。人間が英子の毛布を与えた。それで包んでやった。
英子はまた病院近くの夫婦の家に戻された。彼女の意思とは関係なく、必要に迫られて移動させられたのだ。勿論理由はシルバーバックだ。
人間のもつ医学的な知識を役に立てようとしたが、彼の回復は年齢的な弱り方が強くなったために思ったように進んでいなかったのだ。心理的な喪失感と無力感がそこに悪く働いたのは確かである。森の王者として自信を持ち堂々と静かに暮らしていたシルバーバックにとっては、余りに大きな変化であった。克服するには年をとりすぎていたともいえる。
森にいれば、まだ数年は王位にとどまり、その後は群れを追い出されて、静かに死へと独りで向かっていったことだろう。死を思い煩うことなく、死の影に知らぬ間に覆われていき、木の下の葉陰に誰にもみられることなく、土に返っていったことだろう。
人間のおせっかいで英子はあちことに押しやられた。シルバーバックが弱ったということで、アーサーをひとりにして呼び戻され、アーサーがまた泣いているというのでそちらへ呼ばれた。英子はどちらにしてもただグルーミングしてやり、そばにいるだけである。
情けをかける、という表現は人間の老夫婦の心理に当てはまることが多い。ホルモンに影響された性愛がたとえ運良く人間としての敬愛になるならば、それは最上の関係といえる。そしてそこまでお互いに尊敬に値する夫婦でなくても、情けをかけるという情緒でもって、我慢の限度を超える場合が余りに頻繁な場合は別だろうが、別れることなく夫婦でどちらかの死を見取ることになるよう導くのであろう。
隆の母親が、ときに「もういやだわ、我慢の限界」と呟いたのを思い出す。
「おふくろ、俺はもうどっちでもいいんだよ。別れて自由にしたいことをすれば」
母親はぱっと顔を輝かせた。しかしすぐ曇らせた。
「私以外に父さんをだれが我慢できると思う?どうせひとりになってまた私を探しにきてお前のせいだなんてねちねち言いに来るのよ。恐ろしい」
「怖いのかい、心配なのかい」
「情けよ、すこし美化するけどねえ。今さら愛だ恋だって探しても無駄、お互いに終わりを見つめる時期を情けをかけあうのかなあ」
「しかし親父がそれを理解するかな、そこまで達観できるかな」