シルバーバックよ、何処へ

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その3( 3 / 3 )


 隆のこんな両親はまだ存命なのだ。もし父のほうが先に亡くなれば、母は自由を感じるだろう、そして寂しさも感じるのだろう。母が先なら、父もまもなく亡くなるだろう、世間でそういわれているように。女を敬愛するという情緒は男にはあまりないので、あるいはラヴの憧れが男には残るのかもしれない。つまり性愛だが。父が母に対し、せめて情けをもってほしいものだ、と息子としては思う。
 自分の妻が敬愛に値する人物であることには満足していた。
 研究というのは、絶対に性よりも面白いし、男女の間に対等な競争が可能である。確かに女性研究者との同席には、色彩的にも華やいだ雰囲気が漂う。それが嫌だとは決して思わないがあえて求めるわけでもない。ジューンのような若手とも気を散らされることなく、その声と議論したり相談したりできる。

 それから、シルバーバックの容態が小康を得たとき、隆とジューンはこんな場合としては珍しい決断を下した。小国ガボンの小さな保護地域にこの一家三頭を放つことにしたのである。人々は富にとりつかれておらず、伝統的な生活を楽しんでいた。隣接した未開の森になら他のゴリラがいる可能性もあった。シルバーバックがまだ数年アーサーを守り育てることが出来れば、アーサーの未来も続くかもしれない、英子が孫のお守りをするのかもしれない、人間の場合と同じように。
 人間の監視下にいて、安全な生活をすることは本性に反するであろう。彼らの能力も経験と知識も無駄になってしまう。地球の生命の豊富さがアーサーに伝わらないままになるのは余りに惜しいと、隆もジューンも話し合ったのだ。危険も死も自然に属するものは、そのように見えるからには、たとえ本当の意味はそうでなくても、それを知るすべのない今は本当の意味を誰かに信頼して三頭を任せるしかなかった。

「信託銀行」
ジューン オブライエンが呟いた。井原隆は思わず噴き出してしまった。
「何に信託するんだい」
「私たちのまだ知らない者によ、彼らを」
「君をも信託する?」
「せざるをえないわね」
 彼らと別れてから一週間過ぎていた。見知らぬところでも森のほうがいいらしい。
「ジューン、今度うちに招待するよ。京都だし美しいよ」
「ええきっと。婚約者と伺うわ」

 井原隆の父伊原慧が倒れたのは、アフリカからちょうど帰省していたときであった。倒れたというより、元々心筋梗塞後の慢性心不全状態であったのが、トラブルを招きがちな性格のためストレスにさらされ、睡眠が取れなくなった上に診療内科の薬を嫌がって服用しなかったせいらしく、痙攣を起こしたという。当然シルバーバックの発作が頭に浮かんだ。駆けつけてみると元気良く喋っていた。余りに元気良く。一瞬も休まず恐ろしいスピードで喋っていた。色々な心配事や母への不満、世の中の不当、医者の言葉。過度な言語野の亢進である。突然、父は黙った。言葉を発する機能がストップした。話そうとしているのは明らかだが言葉を失ったのだ。呆然と見守るうちに、父の瞳が絶望から驚き、そして開放、喜びへと変化するのが感じられた。隆に見ろ、見ろ、と言っている。そして明らかに微笑んだ。安心しろ、と言うように。
              了

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東天
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