シルバーバックよ、何処へ

その1( 2 / 2 )


 この無毛の体を持ち、その一部を何かで覆って暮らしている連中のおかしなところは、殺しあうかと思えば、おせっかいにもまた助け合いもする点であった。このおせっかい派の連中が近年森に入り込み、シルバーバック一家の周囲でじっと視線を送ってくるようになった。何かを取ろうとするでもなく、与えようとするでもなく、ひたすら眺めている。子供達は好奇心に勝てず、手を触れたりかれらの顔を覚えてしまったりする。
 自然界にはありえない、直線で構成され妙に硬そうな、しかも丸い大きな目をひとつ持つ物体を子供達を舐めまわすように四方から向ける。シルバーバックはさりげなく、戻れ、と合図を発する。そして子らを背に乗せゆっくりと静かな森の奥に入っていく。
背中の傷は閉じていた。強力な免疫細胞が彼らを守っているのだ。

 そんな風に時間が経つうちに、この小さくて顔を寄せ合ってはかすかな音を発しあっている連中に害のないことがわかってくると、つい油断をして居眠りをしたりするようになった。どこか、体が弱ったようでもあった。
ある朝、ぴしっと痛みが肩に走った。思わずさわってみると、感じたこともないすべすべの長いものがそこにささっていた。それを抜き取ろうとしたが、シルバーバックの手にはその力が失われていた。闇が突然降りてきた。

 ひそひそ声のおせっかい連中が合図しあっている。
「これは参ったな、弾が血管を移動して心臓にはいりこんでる。鉛毒にもさらされてる」
「このままだと弱っていく一方ね。首都に運んで手術で取り出すしかないでしょう」
「理屈としてはそれ以外にないが、この繊細な神経の動物のことだからきっと神系的な反応が生じるだろう、特に家族なしでは」
「まあ私たちで言えば、強い対人恐怖症よね。森も役割も家族もいない、言葉がどれだけ通じるかしら、チンパンジーでは三,四歳児なみには理解してくれるけど」
「若い個体ならね。仕方ない。家族は保護区に移送っていう手もあるが、しかし何とかこのままでも生き延びる可能性は十分ある。問題はシルバーバックの心理面だな」
 しばらく沈黙があった。シルバーバックは片手だけであたりをまさぐってみた。なじみの長いメス一号らしいにおいがする。彼女はあと一頭くらいは子が産めるだろうというきわどい年齢である。芯が強く我慢強い、なによりもシルバーバックを恐れている。その一撃が死を意味することを知っている。つまり憎しみと慣れと忠誠心がまざったおずおずとこすからい知的なメスであった。
「よし、どうだろう、このメスをこのまま一緒に連れて行こう。シルバーくんもパニックを抑えられるだろう」


その2( 1 / 3 )


 かれらは子供以上に声を発して笑う。この小ささからして子供なのかもしれない。メスA号はそう感じていた。とくに無毛で小型の、メスらしい個体はその唯一の頭髪の明るい色をきらめかせながら、白い歯並をみせて敵意のないことをアピールするのだった。

「これからよろしく、あたしはジューンよ、あなたのことなんて呼ぼうかしら。ねえ、隆、日本語でA子に近い名前ってある?」
「え、なになに。メスでナンバーワンだから、Aで、子をつけるの?そうそう英子って名前の人がいたな。賢いというニュアンスがあるようだよ」
 それから自分に向けて英子ちゃんという音が発せられるのに彼女は気づいた。別にそれでいい、とメスA号は感じた。そんなことよりシルバーバックの反応が重要だった。彼女にしてももはやこのボスから逃げる自由は無いらしかったからだ。太い冷たい棒がそこら中にあった。木や葉の香りも水気もなかった。

 なにしろシルバーバックは重症で重病で神経症なのだ。それを前提に首都ヤウンデへの移送準備が始まった。おまけに巨体である。森無しで食事量を集めるのには、一日も欠かせないだけにジューンとそのグループは苦労していた。
 英子は栄養価の高いフルーツを喜んで食べたが、シルバーバックには禁じられた。血糖が高いから、と隆が用心していた。もちろん食べる量がなければ満足できない巨体の持ち主はそれでなくてもやや量不足を感じていたのだろう、いつも機嫌を損なっていた。それがまた神経質さを悪化させるのだ。両手を、手持ち無沙汰の余りこすり合わせた、顔をひっかいた。それが皮膚病を引き起こし指や爪に痛みを与え、それがいっそう彼をいらいらさせた。
 すべてがこの、小さい連中が原因であることをシルバーバックは確信した。こいつらは敵だと認識した。英子にはその親切がわかる場合でも、かれは咆哮して追い払おうとした。数日のうちに容態が悪化した。息が荒くなり、近寄ろうとすると咆哮する代わりに壁にくっついて顔を押し付けた。それでも手当てをしようとするとついには痙攣発作を起こした。
 これには英子もたまげて、跳ね回って叫んだ。

その2( 2 / 3 )


 まずは必要な動物病院だが、移送できる範囲では規模の小さいものばかりであったので、ある程度の大きさの建物をそばに確保する必要があった。ジューンは小さな平べったい箱の画面に向かい、両手を細かく動かして作業をしている。英子が見ていると、ときどきこちらを向いて歯を見せた。
「英子ちゃん、ちょっと待っててね。あなたたち夫婦の住まいを見つけてあげるから。条件は、と、まず広いこと、頑丈なこと、日当たりがよくしかも樹木に囲まれていること、外から観察できること、もちろん必要なときによ。やっぱり、この保護区のこんな施設かな。元気になったら動物園という手もあるけど」
 英子は、グフと声を出した。あなたの気持ちを認識したという合図である。
「やっぱり森に帰るのが一番に決まってるわよね。でもあそこの人たち、少しの違いを気にして戦ってばかりいるし、両方に武器を売って儲けることしか考えない死の商人がいる。こいつらが最低なのよ。ほんとに殺してやりたいわ」
 ジューンはまた人間の本性丸出しの言葉を使った。
 英子はジューンの敵意を感じて、唸った。

 しばらく忙しいやりとりのあと、英子は何かが解決したことを理解した。

「検索したらね、もうこれが唯一の可能性なのよ。この施設以外はありえないの。ここにいく運命だったかのように。隆、聞いてる?これ以外ないってものを私確保したからね」
「わかってる。ああ、なるほど、ちょうど文句なしだね。で、いつにするか、だ。次の決定は」
「それにどういう手段で、よね、重要な問題は」
時期はできるだけ早く、であり、手段はといえば、飛行機は速いが無理という最初の関門があった。飛行機に乗ることは気圧の変化のせいで心臓発作の危険性があり、なによりも入り口が狭すぎて檻を入れることができない。トラックではストレスがかかりすぎる。首都までの列車で運ぶには線路が今いる地域まで伸びていなかった。

「民主主義もいい加減だけど、つまり悪を完全に排除できないけど、確かに民主的な政府は必要だね。あの小さな部族間抗争をやるかわりに全員で鉄道を敷く仕事をしたらよさそうにと僕は思うね」
「そうだけど、まずは水や穀物、学校、そして協力を理解していくのでしょ。文明国からの偏りのない無償の援助が少なすぎるわ」
「そうだけどさ、余り援助すると彼らから自分たちのやる力を忘れさせてしまうから、それも考えないとね」
 英子はシルバーバックを見た。少しグルーミングしてやろうかと寄っていくが、余りの機嫌の悪さに恐れをなす。瞳がぎらぎらして、低く不満げに呻いていた。どこか苦しいらしかった。折の中の動きを観察していた隆は、あわてたように声を高くしていった。
「よし、もうこれしかない。あさって。僕らも準備して駅のある町までトラック、そこから列車という順番でちょうど手はずが決まりそうだ。もう一度ネットで確認して確定だ。手術はその二日後でとれるかな。弾の摘出は問題ないんだが」

その2( 3 / 3 )


 時刻と時間、場所と手はず、人員、施設、うまくいくことを願う以外にない綱渡り的なスケジュールと予定だ。シルバーバックがうまくこの計画にのってくれるか、最も危ういのはこの点だった。トラックがすでに待機していたとき、シルバーバックは不安の余り英子を追い回していた。彼女にしても森においてくる羽目になった末っ子がたえず脳裏を横切ってしかたないのだ。ただどうしたらいいのかわからないので、黙って我慢している。
 ジューンが見ていると、二頭の様子は切羽詰った離婚間際の夫婦の対話のようにも見えた。

「お前はこいつらの言うとおりにするつもりだろう」
「そんなことないさ、ただみんなしてあんたの具合をよくして」
「そんなこと信じるな、森を離れるなんて考えられないんだ」
「でもひとりで残ってどうするの、こんな弱ってるのに」
「死んでもかまわない、知ったこっちゃない」
 シルバーバックの拒否反応は強固だった。そこにはもう責任感もない。このまま石のように固まってしまい動きたくない、というそれは抑鬱状態でもある。
「俺がひとりで残る、だって?お前は絶対にこいつらに運ばれていくつもりか」
英子には何か、衝動があった。彼女を突き動かす予知、森を離れてでも彼女が為すべき何かが英子を呼んでいる。誰かが泣いて英子を探している、放っておけばそれは死んでしまうのだ、確実に。かすかなかすかな、懐かしい匂いがひとすじの方向を指し示していた。
「そうよ、私は小さい者たちについていく。あんたも来たほうがいい。私たちが生き残る道はそれしかないと思う」

 英子は断定した。もう迷わない、これが正しい道なのだ。

 英子は泰然として自分からトラック用の檻にはいった。シルバーバックは離婚し損ねた夫のように渋々檻に入った。大揺れする檻の中でシルバーバックは英子を睨んでいた。俺をどんな目に合わせようってんだ。しかし体勢を支えるのだけで精一杯の様子だった。
 もううんざり、というほどゆすられてやっと始発の駅舎に到着した。隆とジューンがそれぞれ無線電話で喋りながら、檻を見にやってくる。

 そのとき隆が驚いた声を出した。ジューンも彼女の電話によって驚いたような感じである。
「英子の子供が?そちらに追いかけてきたって?弱ってる。パニック。あそう、ナタリーと面識がある。コンタクトあったんだね」
「へい、隆、こっちの話し聞いて。英子の子供が首都から程遠くない動物園に引き取られるって。認識票でわかったって。でもいつ、いったい、どこで保護されたんだろ」
 二人が機械を耳に当てたり、お互いに喋ったり、そして英子をじっと見つめるのを、英子もじっと観察していた。心臓が動悸を打った。何かが起こったのだ。シルバーバックはやっとゆれなくなったので眠っているようだ。末っ子の二歳の男の子のことがしきりに思い浮かんだ。離れていることが耐えがたかった。不完全なのだ。
 しばらくして、予定通りに列車に乗せられた。ガタン、と動き出したとき、こんな初めての感覚に二頭ともトラックとは違う音声で反応した。
 車中でジューンが近づいてきた。明るい頭髪と白い歯並が友好的な雰囲気を与えた。
「英子ちゃん、あなたの子のAYがね、一匹で匂いを辿って最初の施設に現れたんですって。あなたたちが収容されたとき、見つからなかったけど近くに隠れていたのでしょうね。
わかった、英子ちゃん、子供も森から出て動物園で暮らすんですって」
 ジューンの白い肌にきらきら輝く瞳と歯を交互にみつめていた英子は、何を感じたのか低くのどを鳴らして、檻にこぶしを当てた。ジューンもこぶしを作り、軽くそれに触れた。同じ肉体の温かさが伝わる。
 英子は眠っているけれどもシルバーバックによりそって、語りかけているかのように見えた。安心したような諦めたような、不幸中の幸いといった空気が流れた。

東天
シルバーバックよ、何処へ
0
  • 150円
  • 購入

2 / 8

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • 購入
  • 設定

    文字サイズ

    フォント