秋の桜を愛でましょう

 俺は猫を追いかけていた。
 別に、そういう趣味があるわけじゃない。
 目の前を走る妙な格好をした猫に、首から下げていたタオルを取られたからだ。
 空には赤とんぼが飛んでいて、夕暮れとはいえまだ暑さが残っている。
 銭湯で汗を流してきたばかりなのに、これじゃ全く意味がない。
 大学を出て、しがないリーマン生活五年目の俺には酷な運動量で、息は大分上がってきていた。
「明日には絶対にお返ししますので、大目に見てくださぁぁぁい!」
「見ず知らずのヤツが言う事なんて信用できるかぁっ」
「洗って返しますからぁ!」
「そういう意味じゃねぇの!」
 うさんくさい猫だった。
 ふつうに人の言葉をしゃべる上に、黄色の着物を羽織っていた。
 その上、やたら達筆な文字で『酒』と書かれたひょうたんを背負っている。
 俺のタオルはというと、その猫が頭にかぶっていた。
 他に歩いている人がいたら助けを求めようと思っていたけれど、妙なことにさっきから誰ともすれ違わなかった。
 前を走る猫が角を曲がり、俺もそれに続いて走る。
 不意に誰かにぶつかった。
「きゃっ!」
 なんとか俺は踏みとどまれたけど、相手はしりもちをついていた。
 転ばせてしまった相手は女の子で、真っ白できれいな長髪に、きれいな赤い瞳をしていた。
 何処かの祭に行く途中なのか、ピンク色の着物を来ている。
 しかし、着物というには露出度が高すぎる。
 キャミソールみたいなのを着てはいるけれど、両肩が見える位に着崩されていた。
「ご……ごめん! 急いでたから」
「いえ、こちらこそ余所見をしてしまって――あっ
 着物の女の子が、下を素早く手で押さえる。
 丈の短い赤色のミニスカートからは、まっしろで綺麗な脚がそろって伸びていた。
「……見ました?」
 女の子の顔が赤い。
「み、見てないよ」
 白だった。
えっと……ほら、立てる?
 罪悪感にかられながら、俺は女の子に手を伸ばす。
 女の子はありがとうございますと言って、俺の手をつかもうとした時だった。
「いってぇ!」
 もふっ、ときた後に痛みがきた。
 俺は手の甲を見てみると、二本のひっかき傷ができている。
 少し遅れて、血がにじみ出てきた。
「汚らわしい手で、イナバさまに触るんじゃない!」
 声のする方を見ると、さっきの泥棒猫が立っていた。
「イナバさまぁ?」
「ミモリっ、一体何をしているの!」
 イナバと呼ばれた女の子が立ち上がって、泥棒猫につめよっていく。
「わわわ私はイナバさまのたみぇっ」
 イナバが泥棒猫の首根っこを掴んで、目線の高さまで持ち上げる。
「あやまりなさい」
「で、でもっ」
「あやまりなさい」
「わたしは!」
 イナバが俺を指さして、泥棒猫を揺さぶった。
「あーやーまーりーなーさーいーっ!」
 程なくして、俺に泥棒猫が下座していた。
「すいませんでした……」
 背中のひょうたんの方が大きくて、覆い被さられている感じがする。
「ホントにもう! 今度こんなことしたら花見に連れてきませんからねっ」
「そそそそそそれだけは! それだけは、どうかお許しをっ」
 猫の頭が地面についていた。
「うちのミモリがすいません……もし、よろしければコレを使ってください」
 女の子が頭の後ろをごそごそして、一枚の絆創膏を渡してきた。
「あ、ありがとう」
 絆創膏には、デフォルメされたウサギのキャラクターがプリントされている。
 少しもったいない気もしたけれど、早く使ってくださいと言いたげなイナバの視線に、俺はついつい負けてしまった。
 絆創膏をつけた手の甲をさすっていると、イナバが満足そうな笑顔になった。
「えっと、イナバさん? 花見ってなんですか?」
「一年に一度、処暑の夜にだけ咲く桜の樹があるのです。ミモリと一緒に毎年来ていて、これから行く所だったのですよ」
 俺の目の前にいる女の子は、電波か何かを受信しているようだ。
 残暑が残る今の時期に桜?
 しかし、イナバの表情からは、どうも嘘をついているようには見えなかった。
ささのは
作家:ささのは
秋の桜を愛でましょう
5
  • 0円
  • ダウンロード

1 / 11

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント