「……あの、鴇、さん?」
「ん? なんだよ。お前も酒飲むか?」
ずい、と盃を差し出されるが、丁重に断りを入れる。一応飲酒は可能な歳だが、正直酒類は苦手な方だった。
気分を害してしまわないか。一瞬不安が浮かんだが、「あ、そ」の一言で済んでしまい、ほっと一息。
「……そういや、聞きたい事があったんじゃねえのか?」
「え? あ、そ、そうでした!! 鴇さん、貴方は一体……何者なんですか?」
「……」
「さっき、『紅』は一度死んだって。それに、俺の事を『真白』って……。ひょっとして、貴方は……」
「……少し、昔話をしてやるよ」
遮り、そう一言。そして、盃に注がれていた酒を一気に飲み干すと、憂いを宿した桃色の瞳で虚空を見つめる。その瞳が、あまりにも寂しげで――しかし何処か懐かしそうな色をも宿していて、銀弥は口を開く事を躊躇った。
鴇は、告げる。
「……昔、この地には『真白様』、『紅桜』って呼ばれた白い桜の精とと紅い桜の精がいたんだ。真白は村の守り神だって崇められて、紅桜は穢れの象徴だとか罵られて。真白の方は、すっげー泣き虫で、ちっこくってよわっちくって。いっつも村の人間に愛されてた、そんな桜の精だった。
紅桜は、真白とは正反対。真白様の穢れの憑代の分際でって村の奴らから蔑まれて。紅も紅で、手負いの獣みたいにいろんな奴を威嚇して。いっつも斜に構えてたっけ。唯一優しくしてくれた真白の事も、いっつも嫌ってさ。
けどな、真白はどんなに威嚇しようが傷付けようが、それでも紅の所にやってきたんだよ。自分のせいで、紅ちゃんを傷付けて。ごめんね、ごめんねって」
空になった盃に、一度酒を注いで一呼吸。一口付けて、また続きを紡ぎ出す。
「……そんな、真白の謝罪と紅の毒を含む言葉の毎日に、とうとう終止符が打たれる時が来たんだよ。
あの馬鹿、紅ちゃんにばっかり辛い思いはさせないからとかほざきやがって……。折角紅に移した穢れを、全部自分に戻しやがったんだ。あいつが『紅』になって、紅が『真白』に入れ替わっちまったんだ」
その光景を思い出しているのか、今までよりも寂しげな瞳が揺れる。
「そしたら、村の奴らみぃんな掌ひっくり返したように真白の奴を責めやがってさ。あろう事か本体にまで火を放ちやがって……。
その後、あいつらなんて言ったかわかるか? 紅に向かって、「申し訳ねえ真白様」、「無礼者は始末した」、だぜ? ……散々勝手に崇めてた真白を無礼者扱いして、そんで今度は蔑んでた紅を崇めようとしたんだぜ? 馬鹿馬鹿しいにも、程がある……ッ」
ミシリ。ひびの走る音が、盃から響く。ぽたりぽたりと零れる雫を、鴇は気に留める風もなかった。
怒りと、そしておそらく悲しみから。細い肩の小さな震えを、ただ銀弥は治まる事を静かに待つ事しか出来なかった。かける言葉も、見つからないまま。
いったいどれほどの時が流れただろう。長いようで、ひょっとしたら短い時間。いつの間にか詰めていた息をふぅ、と吐き出し、鴇は自嘲の笑みを刻んだ。
「……その後は、怒り狂った紅が村人を皆殺し。それで村は滅びて、いつの間にか紅も枯れちまってたとさ」
ちゃんちゃん。わざとふざけて締めくくられた、悲しい伝承の側面。語り終えた鴇は、滴り落ちる雫に構う事なく、残った酒を思い切り呷った。
傍らで静観していた銀弥は、口を開く。
「……紅さんは、その、真白さんが大好きだったんですね」
「………………」
刹那、呆然とする鴇。だが、すぐに自分を取り戻し、小さく苦笑する。
「……嗚呼、そうかもしれねえな。あいつの事が好きで、今までの事全部詫びて……こうして、二人で花見酒をしたかったのかもしれないな」
新しく酒を注ぎ、けれど今度は口にせず、盃を揺らす。揺れる水面を悲しげに見つめるその姿に、思わず口を開いていた。
「お酒……」
「ん?」
「お酒、少しいただいてもいいですか?」
「……ああ、構わないぜ?」
ニヤリ。ニヒルに笑い、再び何処からか取り出したちいちゃなお猪口に酒が注がれる。舞い散る桃色の花びらを映すそれを受け取り、くい、と銀弥は呷った。辛口で、焼けるような熱さに思わず噎せてしまう。
そんな無様な姿に、ぷっと噴き出す鴇。
「はっ、見た目と同じで舌もおこちゃまってとこか」
手痛い言葉に、酒のダメージも相俟って苦笑を返すしか出来ない銀弥。そんな彼に、穏やかな笑みを刻む。
「……でも、ま。ありがとな、わざわざ付き合ってくれて」
「気にしないでください。俺じゃ、真白さんの代わりにはなれないですけど……」
「お前こそ気にするな。あたしは紅じゃないし、あんたも真白じゃあない。ただの、鴇と銀弥。今は、それ以外の何者でもないんだしな」
にしゃりと笑い、今度はゆっくりと酒を飲む。そうして、何度目かになる手酌を行おうとしたが、ひょうたんから零れたのはたった一滴。
「……なんだよ、もうねえのか」
ったく、もう少し寄越せよなと今はいない猫に向かって悪態を一つ。そして、何処か名残惜しそうな瞳を銀弥へと向けた。
「……つーわけで、そろそろお開きだ。兄ちゃんも、もう帰んな」
「え……? でも、帰るってどうや……っ!?」
途端、揺らぐ意識。気分が悪くなるほどのそれに、思わず頭を押えた。
霞み始める、視界。その中で、『紅』だった女性は悲しげに笑う。
「じゃあな。今度は、達者で暮らせよ……」
真白サマ――?
刹那、世界が霧散した……。
3.
「え……あれっ!?」
気が付いた時には、黄昏に染まる田舎道の上で。
銀弥は、ただ一人ぼんやりと突っ立っていた。
「え、あれ!? 俺……今まで社にいて……え、えぇっ!?」
まさか、立ったまま寝てたとか!? そう混乱する彼の視界に、ふわりと桃色の花びらが一枚……。
「あ……」
思わず、目で追いかける。しかし、それはすぐに空に溶け、消えてしまった。
「……夢、じゃなかったのかな?」
ぽつりと、一言。そうして、なにげなくきっかけとなった伝承の本を出そうと鞄の中に手を伸ばし――。
「えっ!?」
そこには、桃色に輝く桜の花びらが積もっていた。
ボロボロのあの本は、何処を探しても見当たらない。
「あ――」
小さな、声。まるで銀弥が気付くのを待っていたといわんばかりに、変じた花びら達は黄昏の空に舞っていく。
『……ありがとう――』
舞い散る花びらの中に、小さく、可愛らしい少女の声が聞こえた気がした。
それは、ひょっとしたら夏の暑さが見せ、聞かせた幻だったのかもしれない。しかしそれでも、銀弥は小さく笑い、目に見えぬ少女へ言葉を送った。
「どういたしまして、真白様……」
そう、これは誰も知らない。
真夏の昼が見せた、サクラ色の名残夢……。
了