ムエンモノ

第二章( 1 / 2 )

 シャワーを浴び、髪の毛をタオルで雑に乾かし、そのまま使ったタオルを首元にかけて、裕斗は再び元来た道を戻る。未だ機械の調整をしていた弥生は裕斗を見るなり、口元に弧を描き、手に持った書類をひらひらと裕斗の目の前で数回振った。動いている書類の文字を追うのは至難の業だったが、自分の名前と依頼主の顔写真、それから弥生が書込んだであろう赤文字が、いくつか書類内に散らばっているのが見えた。


「人気者だね、ヒロ。今日の予定、これで埋まっちゃったよ」
「随分ぎりぎりな依頼ですね。また今日みたいに無茶な役が回ってきてないといいのですが……」
「ヒロなら今日の役を覚えるのに十分すぎるでしょ。役に関しては見てからのお楽しみ。……はい、これが書類ね。いつも通り目を通しておいて頂戴。重要なところに赤字入れておいたから」
「ありがとうございます。いつも助かります」


 裕斗は弥生の手から書類を受け取ると、文字列を目で追い始めた。時折何か一言二言発しながら読む姿は、普段のゆったりとした雰囲気とは一変していた。達人とまではいかないが、一般的な速度と比べれば裕斗が活字に目を通す時間は速いと評されるだろう。ホッチキス止めされている書類が、次々と頁が捲られていくのを、弥生は書類に目を通している本人がシャワーを浴びに行っている間に煎れておいたコーヒーに口を付けて観察していた。
 彼女にとって、裕斗という人間は昔からの知り合いであり、上司であり、興味深い観察対象であった。


「……終わりました」


 一度時計の方を見てから、弥生は裕斗にコーヒーが入ったマグカップを渡した。


「それで、依頼内容は大丈夫?」
「あ、ありがとうございます。……えぇ、今回は運動ものじゃありませんでしたから。ただちょっと……家庭教師役というのも初めてなので緊張します」


 全く緊張感が表情に出ていない裕斗に、弥生が僅かながら苦笑しながら、書類を受け取った。もちろん、マグカップの中身で書類が汚れないように、マグカップを机の上に置いてから、だが。


「……まぁ、そうだよね。うまいこと依頼主の子は考えたものだよ。えっと、名前は何だったかな……」
「佐々木渚さんです」


 依頼主のことを調べようと、書類を捲ろうとした瞬間に、裕斗は弥生と目を合わせることもなく、目の前のコーヒーだけを見つめながらそう答えた。そのことに驚くわけでもなく、当たり前の日常会話であるかのように弥生は話を続ける。
 ――それもそうだ、彼女は彼が答えるであるということを、わかっていたのだから。


「そう、そうだ渚ちゃん。そんな風にヒロのこと、というか……“演技者”に対して依頼してくるとは思わなかったから、正直驚きだ」
「頭が良いと言うか、発想の勝利ですね」
「勝利するためにはヒロがしっかり教えてあげないといけないけど」
「……頑張ります」


 楽しそうに笑う弥生の視線から逃れるように、先程目線を合わせなかったのとは違い、わざと視線を逸らして裕斗は答えた。最後の方はコーヒーを飲むことで上手く誤魔化したつもりでいるが、彼が不安に思っていることは態度から滲み出ていたため、そのあまりにも子どもらしい仕草に弥生は今度こそ耐えきれなくなり、一真程の大笑いはしなかったが、少しだけ吹き出した。
 もし今誰かが二人の近くを通ったのなら、その珍しさに思わず立ち止まって振り返る程には珍しい光景だった。

第二章( 2 / 2 )

 とりあえず書類に書いてあった内容を思い出しながら、必要になるであろう知識を得るために裕斗は一人、図書館の前まで来ていた。気温は二十九度。じわじわとした暑さと日射しが肌を焼いていく感覚が痛い。額に浮かぶ汗をハンドタオルで拭いているが、すぐにまた汗が浮かんできてしまう。


「はやく涼しいところに入ろう……」


 裕斗は小さくそう呟いて、図書館の自動ドアをくぐった。外気との温度差に少しだけ心臓がきゅうとなる。ひんやりとした風が汗がにじむ肌をなで、その冷たさに寒いとまで思ったが、人の身体というものは慣れるのが早いらしい。冷たくて気持ちが良いと思っていた図書館の気温でさえ、丁度良いものという認識に裕斗の中で変わるまで、そう時間はかからなかった。
 図書館の中を歩きながら、今回の依頼のことを考える。依頼者は佐々木渚。高校二年生。もうすぐ期末試験があり、社会、主に歴史に不安があるそうだ。だから、今回裕斗は家庭教師の役を依頼され、社会を教えることとなった。期末試験までぎりぎりの時期ではあったが、考えに考えた末に、依頼してきたのだろう。
 ――それだけ追い詰められていたというか、自分ではもう、どうにもならなかったといったところか。
 試験の嫌さは、裕斗自身感じたことが無かったが、周りの同級生を見ている分には、試験とは嫌なものなのだろう。自分自身がまだ高校生だった頃、試験の度に他の生徒が絶叫していたことも覚えている。
 だからこそ、普段演じることが多い娯楽的な役柄とは別の、日常生活に十分関与しうるこの役柄は、あまり受けたくない部類だった。日常生活の責任を僅かながらに負うことになるからだ。裕斗の生活において、大半の人間は無関心という枠で覆われているため、関わることはない。けれど、今回の場合は無関心の人間に対し、その生活の一部に対する共犯者のような役柄であるが故に、普段の依頼ならばある程度自分の中にある知識と、インターネットの情報を活用して切り抜けてくることが通常だったのが、今日は図書館まで来てしまっている。
 何処に出かけるのかと名前の思い出せない施設の人間に聞かれた時に、図書館だと答えたら、ひどく驚かれたのもほんの十分前ぐらいの話だ。


「さて、本を探さないと」


 今の高校二年生がどこまで歴史を学んでいるか、裕斗には皆目健闘も付かなかったが、そこは弥生が赤文字できちんと書いていてくれたので、非常に助かった。そうでなければ片っ端から歴史の流れを頭に叩き込むことになっていたかもしれない。暗記力、それから速読力に富んでいる彼であっても、流石に今日一日でどうにかなる量ではないだろう。
 いざという時は弥生が演じている最中に、外から手助けをしてくれるのだが、あまり借りは作りたくないというのが本音だった。彼女に借りを作って、痛い目をみたことが何度もある。
 そんなことを考えながら歩いていると、目当ての本がある区画に来ていたらしい。午前中でまだ人が少ないからか、ずらりと並んだ本棚の中に、欠けている本があまり無いという状況は非常に好ましい。歴史の流れが記された本や、ある部分に特化した本を手にとる。
 ――流石にここも、何処が重要なのかは弥生に聞く羽目になったのだが。
 それらをまずは十冊程度机に運び、一番上に置いた本から読み始める。これぐらいの文の量ならば二十分もあれば問題ないだろう。今出した本を全て読み終わっても、そして同じ数だけ本を出しても、指定された時間までは余裕で間に合う時間だ。
 そうこうしている間にも裕斗が手に持っている本は、既に半分まで頁が捲られていた。

第三章( 1 / 2 )

 遠くの方でチャイムが聞こえ、裕斗は本に落としていた目線をあげた。どうやらもう六時間近くたっていたらしい。五時の鐘がそれを告げていた。


「道理でお腹が減っている訳だ」


 意識した瞬間に鳴り始めるお腹を押さえることもなく、裕斗は携帯電話を片手に文章を打ち込み始めた。その内容は短く、今日の日替わりランチは何であったかという確認のメールであった。弥生からの返信を待つ間に、読みかけていた本に再び目を通す。
 すると、数分後、丁度読み終わった頃に、弥生からの返信が届き、裕斗は少しばかり緊張した面持ちで携帯電話を開いた。


「……まさか今日がビーフシチューだったなんて」


 裕斗の好物であるビーフシチューが今日のランチメニューとして出されたらしい。もっと正確に言えば、あの施設で出されるビーフシチューが、大のお気に入りだった。一度食べたときから日替わりランチでビーフシチューが来る日を毎度毎度楽しみにしており、仕事が休みでもビーフシチューを食べに施設に行くぐらいには好きだったのに。朝仕事を終えて、それから直ぐに図書館に来て調べ物をしていたため、食堂に寄る暇すらなかったのだ。すっかり落ち込んでいる裕斗の元に、まるで追い討ちをかけるかのように弥生からのメールが届く。
 そのメールにはご丁寧に弥生が撮った美味しそうなビーフシチューの写真が送られてきていた。美味しかったよ、の一文を添えて。それを見た瞬間に、裕斗は溜息を大きく吐いた。あまりの衝撃に、弥生にメールを返す気力すらも残っておらず、読み終わった本をとぼとぼと歩きながら一冊ずつ片付け始める。そして、全ての本を片付け終わった瞬間、三通目のメールが届いた。送り主はもちろん、堂島弥生、だ。あまりにもタイミングが良すぎたため、見られているのかという考えが過ぎったが、流石にそこまで弥生も暇ではないだろう。
 ――ましてや、GPS機能で事細かに位置を把握している訳でも、図書館内の監視カメラにアクセスしている訳でもあるまい。
 今度は一体何のメールだろうと、裕斗は携帯を開く。これで、完食後のお皿の写真が送られてきていようものなら、今日の仕事に支障をきたす程度には落ち込んでいただろう。
 しかし、裕斗の勘は外れていた。それもいい意味で、だ。


「流石、食堂のスタッフさんです。僕がビーフシチューを好きだということを覚えていてくれたなんて」


 裕斗の手に握られた携帯の画面には、“今日のお昼のビーフシチュー、食堂のスタッフが残して置いてくれたから、早く帰っておいでよ”と、そう表示されていた。無表情ながらもふわふわとした空気を纏った裕斗は、まるで誕生日プレゼントをもらった子どものように嬉しそうだったと、後に弥生に笑われることになるのだが。
 普段大人びて見える彼の、珍しく年相応である十九歳の少年の姿だった。

第三章( 2 / 2 )

 ビーフシチューのことだけを考えながら図書館を出る。むっとした空気が顔に当たり、折角さらりとしていた肌の上に、再び汗が滲んできた。しかしそんなことすら今は気にならないといった様子で、施設に向かって歩き出す。
 その途中で注意力が散漫だったのか、目の前から歩いてきた人物を避けられず、正面から思い切りぶつかってしまった。相手は相手で何か書物を読んでいたららしく、お互いに前方が見えていなかったのだ。ぶつかって落としてしまった相手の本を拾い上げ、顔をあげる。見たことのあるその少女の姿に、裕斗は直ぐに返そうと思って伸ばしていた手が空中でぴたりと止まった。
 ――彼女は間違いなく、依頼主の女の子だ。
 そう確信した裕斗は、彼女の持っていた本のタイトルを見る。よほど苦手なのか、それは歴史の教科書だった。


「前ちゃんと見てなくて、ごめんなさい!」
「ううん、大丈夫です。怪我はありませんか?」
「はっ、はい! 大丈夫です」
「良かったです」


 依頼主の女の子が、自分で勉強がしたくない故に今回の依頼を申し込んだ訳ではないことが分かって安心したのか、お昼ご飯のビーフシチューが待っていることに安心したのか。もしかすると、その両者かもしれないが、普段は見せないような笑みを少しだけ浮かべて裕斗は今度こそ、手に持っていた本を彼女――佐々木渚に手渡した。


「はい、どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
「期末試験、頑張ってくださいね。それから――」


 不思議な顔で裕斗のことを見上げてくる渚に、もう少しだけ笑みを深くして言葉を続ける。彼女は想像もしていないだろう。今ここで出会った人物が、今日、自分の夢に出てくるだなんて。目の前に居る人物が、“夢演者(むえんもの)”であるだなんて、誰が想像出来ただろう。
 施設に戻ったら、まずはビーフシチューを食べよう。それからシャワーを浴びて、弥生に一つだけお願いをしよう。
 自分が夢に登場したときに、彼女がどんな反応を示したのか、朝起きた時に教えてください、と。


「――おやすみなさい、いい夢を」


 彼女にだけ聞こえるように、少しだけ前屈みになって、その耳元で別れの言葉を告げて歩き出す。
 ――ああ、再び彼女に出会う、数時間後が楽しみだ。
黒崎
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