シャワーを浴び、髪の毛をタオルで雑に乾かし、そのまま使ったタオルを首元にかけて、裕斗は再び元来た道を戻る。未だ機械の調整をしていた弥生は裕斗を見るなり、口元に弧を描き、手に持った書類をひらひらと裕斗の目の前で数回振った。動いている書類の文字を追うのは至難の業だったが、自分の名前と依頼主の顔写真、それから弥生が書込んだであろう赤文字が、いくつか書類内に散らばっているのが見えた。
「人気者だね、ヒロ。今日の予定、これで埋まっちゃったよ」
「随分ぎりぎりな依頼ですね。また今日みたいに無茶な役が回ってきてないといいのですが……」
「ヒロなら今日の役を覚えるのに十分すぎるでしょ。役に関しては見てからのお楽しみ。……はい、これが書類ね。いつも通り目を通しておいて頂戴。重要なところに赤字入れておいたから」
「ありがとうございます。いつも助かります」
裕斗は弥生の手から書類を受け取ると、文字列を目で追い始めた。時折何か一言二言発しながら読む姿は、普段のゆったりとした雰囲気とは一変していた。達人とまではいかないが、一般的な速度と比べれば裕斗が活字に目を通す時間は速いと評されるだろう。ホッチキス止めされている書類が、次々と頁が捲られていくのを、弥生は書類に目を通している本人がシャワーを浴びに行っている間に煎れておいたコーヒーに口を付けて観察していた。
彼女にとって、裕斗という人間は昔からの知り合いであり、上司であり、興味深い観察対象であった。
「……終わりました」
一度時計の方を見てから、弥生は裕斗にコーヒーが入ったマグカップを渡した。
「それで、依頼内容は大丈夫?」
「あ、ありがとうございます。……えぇ、今回は運動ものじゃありませんでしたから。ただちょっと……家庭教師役というのも初めてなので緊張します」
全く緊張感が表情に出ていない裕斗に、弥生が僅かながら苦笑しながら、書類を受け取った。もちろん、マグカップの中身で書類が汚れないように、マグカップを机の上に置いてから、だが。
「……まぁ、そうだよね。うまいこと依頼主の子は考えたものだよ。えっと、名前は何だったかな……」
「佐々木渚さんです」
依頼主のことを調べようと、書類を捲ろうとした瞬間に、裕斗は弥生と目を合わせることもなく、目の前のコーヒーだけを見つめながらそう答えた。そのことに驚くわけでもなく、当たり前の日常会話であるかのように弥生は話を続ける。
――それもそうだ、彼女は彼が答えるであるということを、わかっていたのだから。
「そう、そうだ渚ちゃん。そんな風にヒロのこと、というか……“演技者”に対して依頼してくるとは思わなかったから、正直驚きだ」
「頭が良いと言うか、発想の勝利ですね」
「勝利するためにはヒロがしっかり教えてあげないといけないけど」
「……頑張ります」
楽しそうに笑う弥生の視線から逃れるように、先程目線を合わせなかったのとは違い、わざと視線を逸らして裕斗は答えた。最後の方はコーヒーを飲むことで上手く誤魔化したつもりでいるが、彼が不安に思っていることは態度から滲み出ていたため、そのあまりにも子どもらしい仕草に弥生は今度こそ耐えきれなくなり、一真程の大笑いはしなかったが、少しだけ吹き出した。
もし今誰かが二人の近くを通ったのなら、その珍しさに思わず立ち止まって振り返る程には珍しい光景だった。