ムエンモノ

第三章( 2 / 2 )

 ビーフシチューのことだけを考えながら図書館を出る。むっとした空気が顔に当たり、折角さらりとしていた肌の上に、再び汗が滲んできた。しかしそんなことすら今は気にならないといった様子で、施設に向かって歩き出す。
 その途中で注意力が散漫だったのか、目の前から歩いてきた人物を避けられず、正面から思い切りぶつかってしまった。相手は相手で何か書物を読んでいたららしく、お互いに前方が見えていなかったのだ。ぶつかって落としてしまった相手の本を拾い上げ、顔をあげる。見たことのあるその少女の姿に、裕斗は直ぐに返そうと思って伸ばしていた手が空中でぴたりと止まった。
 ――彼女は間違いなく、依頼主の女の子だ。
 そう確信した裕斗は、彼女の持っていた本のタイトルを見る。よほど苦手なのか、それは歴史の教科書だった。


「前ちゃんと見てなくて、ごめんなさい!」
「ううん、大丈夫です。怪我はありませんか?」
「はっ、はい! 大丈夫です」
「良かったです」


 依頼主の女の子が、自分で勉強がしたくない故に今回の依頼を申し込んだ訳ではないことが分かって安心したのか、お昼ご飯のビーフシチューが待っていることに安心したのか。もしかすると、その両者かもしれないが、普段は見せないような笑みを少しだけ浮かべて裕斗は今度こそ、手に持っていた本を彼女――佐々木渚に手渡した。


「はい、どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
「期末試験、頑張ってくださいね。それから――」


 不思議な顔で裕斗のことを見上げてくる渚に、もう少しだけ笑みを深くして言葉を続ける。彼女は想像もしていないだろう。今ここで出会った人物が、今日、自分の夢に出てくるだなんて。目の前に居る人物が、“夢演者(むえんもの)”であるだなんて、誰が想像出来ただろう。
 施設に戻ったら、まずはビーフシチューを食べよう。それからシャワーを浴びて、弥生に一つだけお願いをしよう。
 自分が夢に登場したときに、彼女がどんな反応を示したのか、朝起きた時に教えてください、と。


「――おやすみなさい、いい夢を」


 彼女にだけ聞こえるように、少しだけ前屈みになって、その耳元で別れの言葉を告げて歩き出す。
 ――ああ、再び彼女に出会う、数時間後が楽しみだ。
黒崎
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