ムエンモノ

第一章( 1 / 2 )

 午前八時。
 人々の生活も動き出す頃、一人の男が寝かされていた機械の上からのそりと身体を起こす。


「……あれ、もう朝ですか」


 決してこれは独り言ではない。機械の傍には一人、白衣の女が立っており、その女に向けて発された言葉であった。すなわちこれは、歴とした会話である。


「そう。だから早く起きなさい。それとも、もう一眠りする?」
「いえ、大丈夫です。このまま起きます」


 男はそう言って、眠そうな目をこすり、両手を組んで上にあげ、硬くなった筋肉をほぐすように一つ、大きな伸びをした。


「珍しいね、朝起きて眠そうなの。昨日のお仕事ハードだった?」
「まぁ、それなりに……。昨日は、主人公と一緒にバドミントンをする役を演じさせられまして……全力でそれを演じていたら、肩が重くて仕方がないです」
「アンタ相手に運動選手の依頼はなかなか来ないもんね。その肩の重みは、慣れないことはするものじゃないっていうことなのか。それとも、もっと普段から運動しろっていうことなのか。私としては後者だと思うけど、ヒロはどう思うの?」


 ヒロと呼ばれた男、秋月裕斗は重くなったと自身が言う肩を叩きながら、少しだけ考えるようにして、目の前で楽しそうにニヤニヤ笑っている女から目を逸らす。間違いなくこの女は、裕斗がどのような答えを出すのか分かりきっている。分かりきっていて、そういった質問をしているのだ。
 彼女の思い通りの答えを返すのは、正直癪ではあるが、ここで嘘を吐いたところで、余計に彼女を楽しませることになってしまうだろうことは、長年の付き合いからか彼女が裕斗の答えを理解しているのと同じぐらい、裕斗も彼女の思考を理解していた。


「……出来れば、前者であって欲しいです」
「だろうね、ヒロはそうだと思ってた」


 満足げに頷く女に、少しだけ嘘を吐いてみるのも良かったかもしれないという考えが過ぎるが、やはりこれは愚考だろう。裕斗は機械から下り、靴を履く。


「ほら、上着」
「ありがとうございます、弥生さん」


 彼女――堂島弥生から、上着を受け取る。僅かではあるが、現実的な重みに、裕斗は帰ってきたことを実感した。

第一章( 2 / 2 )

  裕斗は、おそらく寝癖でぼさぼさになってあるであろう頭を整えるためにシャワールームへ急いだ。いっそのこと、先程までバドミントンをする役を演じていたのだから、シャワーを浴びてから帰宅するのもいい。そんなことを考えながら施設内を歩く。
 床も壁も天井も、白色で統一された施設の至るところにある気温と湿度が同時に表示される黒色のパネルの数字が、歩いている内に頭に自然と入ってくる。今日の気温は二十度、湿度は六十%に管理されているようだ。施設内の気温と湿度は、弥生によって管理されている。
 ――それも、気まぐれに、だ。
 例えば、施設外の気温が暑い時に、施設内も普段より暑く設定されていることがある。外の暑さに文句を言いながら、弥生は長い髪を後ろで一つにまとめ、白衣の袖をまくっている。弥生曰く、暑さを実感することも身体には必要なのだそうだ。裕斗は同意を求められ、適当に頷いておいたが、やはり弥生には見透かされていたらしい。思ってもいないくせにと、笑いながらタオルを投げつけられたのは、もう一年も前になるだろうか。
 七つ目のパネルを見てから、曲がり角を右に曲がったところで、男子専用シャワールームの方から歩いてきた、眩しい程の金髪を持つ人物がこちらに気づき、人懐っこい笑顔を浮かべて、小走りで近付いてくる。


「ヒロじゃん! おっつかれー!」
「一真さん、お疲れ様です」


 そう言って頭を下げる。裕斗よりも三歳年上の先輩、内藤一真は、笑いながら裕斗の肩を叩いた。一真もシャワーを浴びてきたのだろう。揺れた髪から、かすかにシャンプーの匂いがした。


「んな丁寧に挨拶しなくっていいって、いつも言ってんじゃん! そうそう聞いてくれよヒロ~、俺今日、何故か早口言葉の達人役でさー……マジ口回らないっての! でも達人じゃん? 矛盾するじゃん? 必死だったよなー……」
「それは……大変でしたね」


 一を聞けば十返ってくる男。一真はそうも呼ばれている。元々口数の少ない方である裕斗は、そんな一真との会話に返す言葉も無く、一拍置いて差し支えない返事をすることぐらいしか出来なかった。けれど、そんな裕斗の返事に機嫌を損ねるわけでもなく、やれやれといった風に溜息を一つ吐き、一真は肩をすくめた。


「だろー? どんな注文だよ! って台本読んだ時思ったもんだわ。で、ヒロは? 今日は何役だったの?」
「僕は、バドミントンをする役でした」
「うっわ、運動系!? 超似合わない!」


 笑いのツボに入ってしまったのか、けらけらとお腹を抱えて笑っている一真の目元には、涙が浮かんでるのが見えた。とりあえず彼の呼吸が落ち着くのを待っていようと、裕斗はおすわりと言われてじっと待つ犬のように微動だにせず、一真の横に立っている。別段、一真に用事があるわけではなかったので、一言声をかけてシャワールームへ向かうのも一つの方法ではあったのだが、律儀に待ってしまうところが裕斗らしいと言えば裕斗らしいのだろう。
 一分後、乱れた呼吸を整えるように深呼吸をして、目元に浮かんだ涙をぬぐい、一真は再び裕斗に向き合う。


「……はぁー……。笑った笑った。いくら現実じゃないとは言え、ヒロがバドミントンやってるとこ想像するとここまで笑えるとは……。おそるべしだな、ヒロ!」


 真剣な顔で一人頷く一真に、裕斗は少しだけ首をかしげ、


「……どうも」


 ただ一言、それだけを返すことしか出来なかった。

第二章( 1 / 2 )

 シャワーを浴び、髪の毛をタオルで雑に乾かし、そのまま使ったタオルを首元にかけて、裕斗は再び元来た道を戻る。未だ機械の調整をしていた弥生は裕斗を見るなり、口元に弧を描き、手に持った書類をひらひらと裕斗の目の前で数回振った。動いている書類の文字を追うのは至難の業だったが、自分の名前と依頼主の顔写真、それから弥生が書込んだであろう赤文字が、いくつか書類内に散らばっているのが見えた。


「人気者だね、ヒロ。今日の予定、これで埋まっちゃったよ」
「随分ぎりぎりな依頼ですね。また今日みたいに無茶な役が回ってきてないといいのですが……」
「ヒロなら今日の役を覚えるのに十分すぎるでしょ。役に関しては見てからのお楽しみ。……はい、これが書類ね。いつも通り目を通しておいて頂戴。重要なところに赤字入れておいたから」
「ありがとうございます。いつも助かります」


 裕斗は弥生の手から書類を受け取ると、文字列を目で追い始めた。時折何か一言二言発しながら読む姿は、普段のゆったりとした雰囲気とは一変していた。達人とまではいかないが、一般的な速度と比べれば裕斗が活字に目を通す時間は速いと評されるだろう。ホッチキス止めされている書類が、次々と頁が捲られていくのを、弥生は書類に目を通している本人がシャワーを浴びに行っている間に煎れておいたコーヒーに口を付けて観察していた。
 彼女にとって、裕斗という人間は昔からの知り合いであり、上司であり、興味深い観察対象であった。


「……終わりました」


 一度時計の方を見てから、弥生は裕斗にコーヒーが入ったマグカップを渡した。


「それで、依頼内容は大丈夫?」
「あ、ありがとうございます。……えぇ、今回は運動ものじゃありませんでしたから。ただちょっと……家庭教師役というのも初めてなので緊張します」


 全く緊張感が表情に出ていない裕斗に、弥生が僅かながら苦笑しながら、書類を受け取った。もちろん、マグカップの中身で書類が汚れないように、マグカップを机の上に置いてから、だが。


「……まぁ、そうだよね。うまいこと依頼主の子は考えたものだよ。えっと、名前は何だったかな……」
「佐々木渚さんです」


 依頼主のことを調べようと、書類を捲ろうとした瞬間に、裕斗は弥生と目を合わせることもなく、目の前のコーヒーだけを見つめながらそう答えた。そのことに驚くわけでもなく、当たり前の日常会話であるかのように弥生は話を続ける。
 ――それもそうだ、彼女は彼が答えるであるということを、わかっていたのだから。


「そう、そうだ渚ちゃん。そんな風にヒロのこと、というか……“演技者”に対して依頼してくるとは思わなかったから、正直驚きだ」
「頭が良いと言うか、発想の勝利ですね」
「勝利するためにはヒロがしっかり教えてあげないといけないけど」
「……頑張ります」


 楽しそうに笑う弥生の視線から逃れるように、先程目線を合わせなかったのとは違い、わざと視線を逸らして裕斗は答えた。最後の方はコーヒーを飲むことで上手く誤魔化したつもりでいるが、彼が不安に思っていることは態度から滲み出ていたため、そのあまりにも子どもらしい仕草に弥生は今度こそ耐えきれなくなり、一真程の大笑いはしなかったが、少しだけ吹き出した。
 もし今誰かが二人の近くを通ったのなら、その珍しさに思わず立ち止まって振り返る程には珍しい光景だった。

第二章( 2 / 2 )

 とりあえず書類に書いてあった内容を思い出しながら、必要になるであろう知識を得るために裕斗は一人、図書館の前まで来ていた。気温は二十九度。じわじわとした暑さと日射しが肌を焼いていく感覚が痛い。額に浮かぶ汗をハンドタオルで拭いているが、すぐにまた汗が浮かんできてしまう。


「はやく涼しいところに入ろう……」


 裕斗は小さくそう呟いて、図書館の自動ドアをくぐった。外気との温度差に少しだけ心臓がきゅうとなる。ひんやりとした風が汗がにじむ肌をなで、その冷たさに寒いとまで思ったが、人の身体というものは慣れるのが早いらしい。冷たくて気持ちが良いと思っていた図書館の気温でさえ、丁度良いものという認識に裕斗の中で変わるまで、そう時間はかからなかった。
 図書館の中を歩きながら、今回の依頼のことを考える。依頼者は佐々木渚。高校二年生。もうすぐ期末試験があり、社会、主に歴史に不安があるそうだ。だから、今回裕斗は家庭教師の役を依頼され、社会を教えることとなった。期末試験までぎりぎりの時期ではあったが、考えに考えた末に、依頼してきたのだろう。
 ――それだけ追い詰められていたというか、自分ではもう、どうにもならなかったといったところか。
 試験の嫌さは、裕斗自身感じたことが無かったが、周りの同級生を見ている分には、試験とは嫌なものなのだろう。自分自身がまだ高校生だった頃、試験の度に他の生徒が絶叫していたことも覚えている。
 だからこそ、普段演じることが多い娯楽的な役柄とは別の、日常生活に十分関与しうるこの役柄は、あまり受けたくない部類だった。日常生活の責任を僅かながらに負うことになるからだ。裕斗の生活において、大半の人間は無関心という枠で覆われているため、関わることはない。けれど、今回の場合は無関心の人間に対し、その生活の一部に対する共犯者のような役柄であるが故に、普段の依頼ならばある程度自分の中にある知識と、インターネットの情報を活用して切り抜けてくることが通常だったのが、今日は図書館まで来てしまっている。
 何処に出かけるのかと名前の思い出せない施設の人間に聞かれた時に、図書館だと答えたら、ひどく驚かれたのもほんの十分前ぐらいの話だ。


「さて、本を探さないと」


 今の高校二年生がどこまで歴史を学んでいるか、裕斗には皆目健闘も付かなかったが、そこは弥生が赤文字できちんと書いていてくれたので、非常に助かった。そうでなければ片っ端から歴史の流れを頭に叩き込むことになっていたかもしれない。暗記力、それから速読力に富んでいる彼であっても、流石に今日一日でどうにかなる量ではないだろう。
 いざという時は弥生が演じている最中に、外から手助けをしてくれるのだが、あまり借りは作りたくないというのが本音だった。彼女に借りを作って、痛い目をみたことが何度もある。
 そんなことを考えながら歩いていると、目当ての本がある区画に来ていたらしい。午前中でまだ人が少ないからか、ずらりと並んだ本棚の中に、欠けている本があまり無いという状況は非常に好ましい。歴史の流れが記された本や、ある部分に特化した本を手にとる。
 ――流石にここも、何処が重要なのかは弥生に聞く羽目になったのだが。
 それらをまずは十冊程度机に運び、一番上に置いた本から読み始める。これぐらいの文の量ならば二十分もあれば問題ないだろう。今出した本を全て読み終わっても、そして同じ数だけ本を出しても、指定された時間までは余裕で間に合う時間だ。
 そうこうしている間にも裕斗が手に持っている本は、既に半分まで頁が捲られていた。
黒崎
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