ムエンモノ

第三章( 1 / 2 )

 遠くの方でチャイムが聞こえ、裕斗は本に落としていた目線をあげた。どうやらもう六時間近くたっていたらしい。五時の鐘がそれを告げていた。


「道理でお腹が減っている訳だ」


 意識した瞬間に鳴り始めるお腹を押さえることもなく、裕斗は携帯電話を片手に文章を打ち込み始めた。その内容は短く、今日の日替わりランチは何であったかという確認のメールであった。弥生からの返信を待つ間に、読みかけていた本に再び目を通す。
 すると、数分後、丁度読み終わった頃に、弥生からの返信が届き、裕斗は少しばかり緊張した面持ちで携帯電話を開いた。


「……まさか今日がビーフシチューだったなんて」


 裕斗の好物であるビーフシチューが今日のランチメニューとして出されたらしい。もっと正確に言えば、あの施設で出されるビーフシチューが、大のお気に入りだった。一度食べたときから日替わりランチでビーフシチューが来る日を毎度毎度楽しみにしており、仕事が休みでもビーフシチューを食べに施設に行くぐらいには好きだったのに。朝仕事を終えて、それから直ぐに図書館に来て調べ物をしていたため、食堂に寄る暇すらなかったのだ。すっかり落ち込んでいる裕斗の元に、まるで追い討ちをかけるかのように弥生からのメールが届く。
 そのメールにはご丁寧に弥生が撮った美味しそうなビーフシチューの写真が送られてきていた。美味しかったよ、の一文を添えて。それを見た瞬間に、裕斗は溜息を大きく吐いた。あまりの衝撃に、弥生にメールを返す気力すらも残っておらず、読み終わった本をとぼとぼと歩きながら一冊ずつ片付け始める。そして、全ての本を片付け終わった瞬間、三通目のメールが届いた。送り主はもちろん、堂島弥生、だ。あまりにもタイミングが良すぎたため、見られているのかという考えが過ぎったが、流石にそこまで弥生も暇ではないだろう。
 ――ましてや、GPS機能で事細かに位置を把握している訳でも、図書館内の監視カメラにアクセスしている訳でもあるまい。
 今度は一体何のメールだろうと、裕斗は携帯を開く。これで、完食後のお皿の写真が送られてきていようものなら、今日の仕事に支障をきたす程度には落ち込んでいただろう。
 しかし、裕斗の勘は外れていた。それもいい意味で、だ。


「流石、食堂のスタッフさんです。僕がビーフシチューを好きだということを覚えていてくれたなんて」


 裕斗の手に握られた携帯の画面には、“今日のお昼のビーフシチュー、食堂のスタッフが残して置いてくれたから、早く帰っておいでよ”と、そう表示されていた。無表情ながらもふわふわとした空気を纏った裕斗は、まるで誕生日プレゼントをもらった子どものように嬉しそうだったと、後に弥生に笑われることになるのだが。
 普段大人びて見える彼の、珍しく年相応である十九歳の少年の姿だった。

第三章( 2 / 2 )

 ビーフシチューのことだけを考えながら図書館を出る。むっとした空気が顔に当たり、折角さらりとしていた肌の上に、再び汗が滲んできた。しかしそんなことすら今は気にならないといった様子で、施設に向かって歩き出す。
 その途中で注意力が散漫だったのか、目の前から歩いてきた人物を避けられず、正面から思い切りぶつかってしまった。相手は相手で何か書物を読んでいたららしく、お互いに前方が見えていなかったのだ。ぶつかって落としてしまった相手の本を拾い上げ、顔をあげる。見たことのあるその少女の姿に、裕斗は直ぐに返そうと思って伸ばしていた手が空中でぴたりと止まった。
 ――彼女は間違いなく、依頼主の女の子だ。
 そう確信した裕斗は、彼女の持っていた本のタイトルを見る。よほど苦手なのか、それは歴史の教科書だった。


「前ちゃんと見てなくて、ごめんなさい!」
「ううん、大丈夫です。怪我はありませんか?」
「はっ、はい! 大丈夫です」
「良かったです」


 依頼主の女の子が、自分で勉強がしたくない故に今回の依頼を申し込んだ訳ではないことが分かって安心したのか、お昼ご飯のビーフシチューが待っていることに安心したのか。もしかすると、その両者かもしれないが、普段は見せないような笑みを少しだけ浮かべて裕斗は今度こそ、手に持っていた本を彼女――佐々木渚に手渡した。


「はい、どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
「期末試験、頑張ってくださいね。それから――」


 不思議な顔で裕斗のことを見上げてくる渚に、もう少しだけ笑みを深くして言葉を続ける。彼女は想像もしていないだろう。今ここで出会った人物が、今日、自分の夢に出てくるだなんて。目の前に居る人物が、“夢演者(むえんもの)”であるだなんて、誰が想像出来ただろう。
 施設に戻ったら、まずはビーフシチューを食べよう。それからシャワーを浴びて、弥生に一つだけお願いをしよう。
 自分が夢に登場したときに、彼女がどんな反応を示したのか、朝起きた時に教えてください、と。


「――おやすみなさい、いい夢を」


 彼女にだけ聞こえるように、少しだけ前屈みになって、その耳元で別れの言葉を告げて歩き出す。
 ――ああ、再び彼女に出会う、数時間後が楽しみだ。
黒崎
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