■パチプロになる
悪くない、と言い張ったところで、仕事は来ないし、お金は入らない。
で、毎日、図書館に行って、本を読んだり、うちにやってくる野良猫に餌をやったりして過ごした。しかし、いくら地味に暮らしていても、仕事がなく、全くお金が入らないもんだから、もともと少ない貯金は、どんどん目減りしてくる。
そんな時、図書館で、1冊の本を見つけたのです。
題名は、なんだか忘れてしまったけど、確か、「パチプロ日記」みたいな本。
そんなもんが、公共の図書館にあったのが、今考えると不思議ですが、とにかく、あったんだ。
それを読むと、目からうろこ。
どういうことかって言うと、それには、著者が、パチンコでどうやって飯を食っているのかが、結構、リアルに書いてあったのです。
「○月○日、
今日は、なんとか会館で、打つ。
2千円入れて、大当たり7回、合計2万円の勝ち。
なんとか会館は、水曜日の2列目が狙い目だな。」
とかなんとか。負けた時のことも書いてある。
それまで、パチプロっていうのは、なんか釘とか読めて、特殊能力があって、月に100万円くらい稼いでいるヒト、という先入観があったのだけれど、実際はそうでもなくて、月に20万円くらい、
つまり、平均すると一日7千円くらいの稼ぎでほそぼそやっているらしかった。
なんだ、それなら、僕にもできるじゃん!って、早速、パチンコ屋に通うことにしました。
当時は、まだ、フィーバーと羽根モノって言われる台が混在している時代。
釘で、大当たりの確率が左右される羽根モノなら、パチンコで稼ぐための原則を踏み外さなければなんとか稼げるっちゅう、いい時代でしたから、これは、わりと目論見どおり稼げました。
大体、週5日。2時間、パチンコ台に向かって、1日7千円稼ぐ。
7千円現金があれば、夜、焼き鳥屋でいっぱいやって、安スナックでカラオケ歌って暮らせる。
なんか、いいな。
その時は、うらぶれた気持ちにもなっていたけど、今考えると、これって、なかなかいい生活じゃん。いいじゃん、いいじゃん。
でも、今、それをやれって言われると、羽根モノないし、また、やる気にはなれないなあ。
え?それでもいいから、パチンコ必勝法を教えろ!って?
う~ん。……あとでね。
■病気になる
あまりにだらだら長くなると、つまらんかもしれないので、後の話は、はしょりますけど、パチプロやりながら、1年くらい暮らしていたのですが、やっぱり、もう、このままじゃダメだなあ、おれって。故郷に帰って、再就職でも頼んでみるかなあ、もうダメだなあ、と明日にでも引き上げるくらいのタイミングの時に、ある、ものすごいメジャーな制作プロダクションから、電話が来て、ボクは、拾われたのです。あの電話が、2、3日遅かったら、ボクの人生は変わっていたなあ。
それから、独立して、赤坂に事務所を作って、広告の企画と制作の仕事をしていました。
まあ、私生活とか、いろいろトラブルもあったけど、社員も数名雇って、ほそぼそながら、楽しく、仕事をしていましたね。
でも、40歳の時、病気になってしまった。
正確に言うと、相当若い頃から、病気は、徐々に進んでいたらしいのです。
それは、慢性の腎不全というもの。
血液をろ過して、きれいにし、老廃物をおしっこにする腎臓という臓器がダメになって、血液がどんどん濁ってしまう、という病気というか、障害ですな。
で、いつから、それが始まったのかわからないほど、それは長年にわたり,徐々に進んでいた。
それが、ついに40歳の時、ひどい身体の不調になって、ボクを襲ってきたのです。
まず、ひどい高血圧。上は190とか200。下は130とか140.血はどろどろで、血栓だらけ。
心臓に過剰な負担がかかり、うまく血液を循環できないものだから、肺に水がたまる。
夜、寝ようと、横になると、肺にたまった水のために激しく咳きこみ、眠れない。
で、睡眠不足になり、昼、突然、眠ってしまう。でも、倒れこんで横になると、また、激しく咳き込み目が覚める。
こんな状態。辛かったなあ。仕事どころじゃあない。
それで、いろいろ治療を受けたりしたけど、最後は、3ヶ月入院して、「透析」で週3回病院に通う、ということになりました。
しかし、こういう病気になると、フリーというか、独立したちっこい会社なんかやってると辛い。
会社は解散しなければならなかった。
で、それから、いろいろごまかしながら、広告の仕事もやっていたのだけれど、他の仕事もそうかもしれませんけど、週に3日も病院通いで身動きが取れない、ということになると、大きいプロジェクトとかは任せてもらえないし、チームの中でも、イニシアティブは当然取れないわけで、どんどん閑職のしょぼい仕事しかなくなるわけです。
差別とかそういうことでもなく、もうそれは、仕方のないことです。
で、ボクは、広告の仕事一本で続けていくことは、もう無理だなあ、と思い、別に、ひとつ商売を始めたのです。それが46歳の時。
これが、メイド喫茶の「おぎメイド」でした。
この店を始めた経緯もいろいろ言い出すときりがないので割愛させていただきますが、この店を始めた一番大きな動機は、「広告屋を引退した時の備えのつもり」だったのです。
もうだめだな。ボクは広告屋としては終わりだな。
透析になってからは、毎日、仕事先などで、そんなことを思い知らされることがありました。
つまり、ボクは、腎不全という病気のために、一回「死んだ」のです。
ボクは、手相占いの専門家ではありませんが、ボクの手相を見ると、確かに、運命線が途中で、切れて、その下から、また、新しい線が始まっています。きっと、ボクは、「一度死んで」、新しい別の人生を歩くような運命なのだろう、と思っています。
自ら望んで、そうなってるわけではなく、そういう宿命、運命。なのでしょうねえ。
そうして、確かに、ボクは「一回死んだ」のです。
■これ以上ないというくらい凹む
メイド喫茶は楽しかった。
年頃の女の子たちと一緒に過ごした3年間は、一生忘れないくらい、ボクにいろいろなことを教えてくれました。
その成果が、「女の子の取扱い説明書」に結実したのです。
しかし、商売をやってるヒトってのは、わかると思うのですが、こういう商売をやってると、ヒトを騙して、金を巻き上げてやろうという輩が、やたら近づいてくるものなのです。
で、ボクは、いろいろな奴に騙されて、金をむしられて、3年で、この店を閉じなければならなくなりました。
49歳の時です。
ボクは、それまでの人生、もう本当に数え切れないくらい、いろいろな失敗をしでかしてきて、
もう本当に「自分はダメなやつだなあ」と思っていたのですが、この「メイド喫茶」の失敗は、本当にコタエました。一生懸命、店のために働いてくれた女の子たちをいっぱい泣かせてしまったし、もう身体もダメだし、金もなくしたし、仕事もない。もはやこれまで。
今、考えてみると、確かに、いろいろ悪い大人たちに騙されたのが、直接の原因でしたが、やっぱり、こういう日銭を稼ぐような店は、オーナーがしっかりして、いつも店に目を光らせて、スキを見せないようにしていなくちゃならない訳で、それが、半病人のヘロヘロ男では、なめられ、よからぬことを考える輩につけ込まれることになります。
全てを病気のせいにするつもりはありません。
それまでの人生を考えても、ボクは、本当に、間違った選択ばかりしてバカばっかりやってきました。そのくせ、もっと、始末が悪いことに、わりと自分に自信があったりして、早く言えば、うぬぼれていたわけで。自分は、いつか成功できる、と心のどこかで、常にそんなふうに思い込んでいるところがあったのです。
でも、最後の望みの「メイド喫茶」をしくじったところで、ボクは、目が覚めたのです。
「オレって、つくづくダメだなあ」ってこと。
で、ボクは、全ての稼業を停止しました。
それからは、ひどい虚無感に襲われました。
なんにもヤル気が起きないのです。(まあ、どうせ、ボクみたいな奴は、やる気を起こしても、ろくなことないけどなあ)
しばらくは寝て過ごし、それに飽きると、昼の公園に行って、ベンチに座り、鳩を見て、一日を過ごしました。よく、コントやドラマで、会社をリストラされたおとうさんが、ぼんやりと公園のベンチに座っているシーンが出てきたりしますけど、ベタにあれですよ。
我ながら、あまりにもベタなんで、笑ってしまったですけどね。
あれ、結構、気分がいいんだ。なんか、憑き物が落ちたみたいでね。
そんなふうで、店を閉めてから、3ヶ月くらい、廃人同様に過ごしました。
■そして、作家になる。
何にもない、何にもない。
やることない。したいこともない。したくないこともない。
ヒトをあてにすることも、ヒトにされることもない。
空白。
そんな空っぽの状態をしばらく過ごしているうちに、なんだか退屈になってきた。
そして、本当に自分がやりたいことってなんだろうか?って考えるようになりました。
少し、元気が戻ったのです。
で、いろいろ考えた。
ボクは、基本、あほうで、無能力な人間だから、多くのヒトを巻き込むようなことは、もうやりたくないと思ったし、やれない。
それから、日常的な通院という時間的なハンデもあります。
あと、この病気というのは、時々というか、頻繁に、ものすごく体調が悪くなる。
体調がそれほど悪くない時でも、ずうっと疲労感があって、聞くところによると、常人の3倍くらい疲れるらしいのです。というか、疲れるな、本当。
なにしろ、血液をろ過する腎臓の働きが失われているので、すぐ血が濁る。
体内の疲労物質も排出されない。
それから、腎臓というのは、この血液を作る役割を持っているので、この機能が失われると、慢性的な貧血状態になる。
普通のヒトは、寝不足とか、無理に長時間仕事をするとか、酒を飲みすぎる、とか、理由があって、疲れたり、体調が悪くなったりするもんですが、ボクの場合は、なんの理由もなく、体調が悪くなり、動けなくなったりする。
そういうことだと、もし仮に、ビジネスなんぞをやっていて、いついつ、この日時に打ち合わせをしましょう、とか、いついつまでに、この仕事を仕上げちゃいましょう、とか言っても、できなくなる危険性が高いわけです。
シフトとか、拘束時間がある時給仕事に就くこともなかなかできない。
つまり、ヒトにあてにされるような仕事は基本できないってことになる。
まあ、おんなじような病気を抱えているヒトでも、ちゃんと仕事しているヒトもいますから、個人的な言い訳に過ぎないかもしれないけど、とにかく、そういう不安を常に抱えているわけです。
そうすっとさあ、本当に、できる仕事ってないんですよ。
まあ、一度死んだ人間だから、仕方ないけどね。
で、会社を興すことも、どこかに雇われることも諦めた。
でも、何かやりたい。
何かをやって生きていたい。
そう思えるくらいまで、回復した。
それと、逆に、前向きな気分も出てきた。
つまり、もう社会に用済みの一度死んだ人間なんだから、さあ、もう稼ぎのために生きるのは辞めて、自分の本当にやりたいことだけやって、生きようじゃないか、という気になった。
それって、結構、いいじゃん。
食えないかもしれないけどさ。
で、諦めて諦めて、いろんなことを諦めて、最後に、残った選択肢は「書くこと」でした。
面白いことが書けるか、とか、作家になれるか、とかじゃない。
ヒトに認められようが認められまいが、基本どうでもいいんですよ。
だって、今のボクができることってそれしかないんだから。
で、メイド喫茶の経験をベースに「女の子の取扱い説明書」を書いて、作家として再スタートしたわけです。
まあ、売れないとさ、出版社とか、それを飯の種にしているヒトには迷惑かけちゃうけどさ。
それはそれとしても、「今のボクにできること」「今のボクがしたいこと」ってそれしかないんだからさ、別にしょうがない訳です。
売れなかったら、ゴメンちゃいです。
ということで、ボクは、今度は、本当に「死ぬ」まで、こうして生きていこうと思ってるわけです。
かっこ悪い人生だけどさ。
ボクは、まあ、結構、満足していますよ。