ヒロN式「ヒロN式ガイドブック」

2)ヒロNは二度死ぬ

■コピーライター時代

まず自己紹介をします。

ボクの作家デビューは、今から2年前です。

それまで僕は、約半世紀、人間として生きてきました。

年頃で言うと、あの「20世紀少年」とか「三丁目の夕日」とかの世代とシンクロします。

高校は、岩手県の田舎の高校。それで吉祥寺のぷらぷらした大学を出て、何の気もなく、ある建設会社に入社して、社会人としてスタートしました。

 まあ、このあたりでも、面白い話はいっぱいあるのですが、きりがないので、割愛しますね。

 そのうち、また、いろいろな機会で書くこともあるでしょう。

 で、6年間、このぼろい建設会社にいたのですけど、給料は安いわ、仕事はきついわ、女の子にはもてないわ、で、ろくなことがないので、いやになって、28歳で辞めてしまったのです。

 まあ、待遇もそうだったけど、なんか、土建屋さんてのは、どうにも、自分がやりたいことじゃないような気がしたし、なんか先輩や上司に、「将来こういうヒトになりたいな」というヒトが1人もいなかったので、やになったのです。

 それで、近所の本屋で、書店員のアルバイトをしながら、「宣伝会議」のコピーライター養成講座に通って、半年で修了して、ある広告制作プロダクションに再就職しました。

 当時は、糸井重里とか仲畑貴とか、脚光を浴びているコピーライターの大ブームで、就職は大変でしたけど、なんか、そこに、うまく潜り込めた。

 そこは、ちっこい制作会社で、ベテランで、カタカナ固有名詞を必ず言い間違えるデザイナーの親分と、多摩美の大学院卒のちょっとアート系の兄貴分のデザイナーとボクの三人しかいない弱小プロダクションでしたが、メインクライアントは、「コマツフォークリフト」という大会社だったのが、ラッキーでした。この規模の会社ってのは、たいてい、広告代理店の下請けみたいな仕事ばかりっていうのが、相場なんだけど、このプロダクションは、なんと、直で、仕事をもらっていた。

 仕事って言っても、まあ、パンフレットばかりでしたけどね。

 で、ボクのほかに、コピーライターがいないもんだから、僕は、入ったその日から、コマツのパンフのコピーを一手に引き受けて書いてました。一体、何冊書いたでしょう?とにかく、ずうっとコマツのパンフ、パンフ、パンフ。

 内容は、こんな感じです。

「ダントツのパワーで、現場に貢献!」とか「今、異次元の操作性が生まれる!」とか、ね。

 もともと、文章を書くのが大好きな人間だったから、全然、これが苦にならない。

 クライアントのコマツさんもとってもいい会社で、担当のヒトも穏やかで、一緒にお花見に行ったり、楽しく過ごした。

 給料も、建設会社時代よりもちょっぴり上がったしね。

 で、3年暮らした。

 したら、大学時代の友達で、広告代理店に勤めている奴から、うちに来ないか、という誘いが来ました。

 そこは、業界12、3位くらい、社員200人くらいの中堅の広告代理店。

 楽しかったし、のんきにやってたけど、超弱小のプロダクションのコピーライターを、いつまでもやってるわけにもいかなかったから、皆と別れるのはさびしかったけど、考えた末、移ることにしました。

 つまり、まあ、ステップアップってことですな。

 給料も、10万円くらいアップしたしな。

 この代理店の仕事は、不動産広告の専門と言えるくらい、不動産の広告ばっかりでした。

 

皆さん、コピーライターっていう職業のヒトのイメージって、どんなですか?

知り合いにそういうヒトがいるヒトはわかると思うけど、知らないヒトは、案外、華やかなイメージを持っているかもしれません。

 なんか、チャラチャラしていて、モデルさんとかタレントさんとかに囲まれていて、「ああ、そのフレーズいいね、それいただき!」とか言っていて。六本木とかで飲んでいて、とかね。

 まあ、確かに、そういうヒトもいるけどね。

 そんなヒトは、ごく一部、全体から言うと、5%くらいのもんじゃないかなあ。

 僕なんて、スタートが「フォークリフト」で、次が「不動産」。

 不動産広告って言うのは、「あの羨望の青山に誕生する38邸の住まい!駅徒歩7分!」とか言う奴で、撮影の立会いとかいうと、フォークリフトとかモデルルームばっかりで、モデルさんなんかみたことないっていう生活。地味な職人さんっていう感じだったかな。そういうコピーライターも多いんすよ。

 で、つまり、僕のキャリアは、「建設会社」「フォークリフトのコピーライター」「不動産のコピーライター」と言うわけで、なんか、堅いというか、色気Oというか、華やかさのかけらもないしい。でも、これ、全て、最初の「建設会社」というスタートが影響しているんです。

 コピーライターの大ブームの時、なんとか弱小ながら、コピーライターとしてのスタートを切れたのも、「建設会社なら、現場のことがわかるだろ」という理由。

 次に代理店に移れたのも「建設会社の経験があるなら、不動産も詳しいだろ」と言う理由。

 いくら自分が、アパレルやりたいとか、女の子のモデル使うような分野のコピーやりたいって言っても、世間は、なかなか通らないわけです。

 この辺、これから就職するとか、社会人になる、ってヒトは、よくよく慎重に考えたほうがいいですよ。一番最初についた職業ってのは、結構、ついて回るし、転職するにも、やっぱり、そのキャリアを生かしたほうが有利ってこともあります。

 

 まあ、ボクの場合は、文章を書いて、それで、飯が食える、ということだけで、満足できたからね。別に不満があったわけじゃないけどさ。

 それから、35歳まで、この広告代理店で、毎日、不動産のコピーを書きまくっていたなあ。

 時に、あの、バブル時代。不動産業界は景気がよくて、勤めていた会社はどんどん大きくなるし、給料も結構上がった。

 

 そうだ!今、一緒に、この電子出版のコンテンツ作りをしている対比地さんと出会ったのも、この時でした。あれから、もう20年くらい経つのかあ。

 

■一転、浪人する

 しかし、バブル崩壊と、ほとんど時を同じくして、僕は、広告代理店を辞めることになりました。

理由は、いろいろあったんだけど、上司と譲れないことで、喧嘩になり、仕事を干されたりして、独立することにしたわけです。

 で、結構、それまで、いい仕事もしてたし、独立して、フリーになってもなんとかなるじゃろう、と甘く考えていたら、それがとんでもない誤算だったのですよ。

 だって、バブル崩壊で、不動産屋さんがバタバタと倒産している時、広告どころじゃない。

 まるまる1年。全く仕事がな~い。なんにも仕事が来な~い。

 その時の昔話をすると、「あんた、なんで、バブル崩壊なんて一番悪い時に、会社辞めちゃったの?バッカじゃない」とか言われるんだけど、ね。

 でもさ、後になって考えれば、そりゃあごもっともなんだけど、その時、その瞬間ってのは、まさか、そんなに長くバブル不況が続く、なんて、誰も思ってないわけで、まあ、僕がバカである、と言う事実は、認めるにしても、そんなこたあ、当時、誰もわからないわけですよ。

だから、アタシ、悪くない!うん、悪くない。

■パチプロになる

 

 悪くない、と言い張ったところで、仕事は来ないし、お金は入らない。

 で、毎日、図書館に行って、本を読んだり、うちにやってくる野良猫に餌をやったりして過ごした。しかし、いくら地味に暮らしていても、仕事がなく、全くお金が入らないもんだから、もともと少ない貯金は、どんどん目減りしてくる。

 そんな時、図書館で、1冊の本を見つけたのです。

 題名は、なんだか忘れてしまったけど、確か、「パチプロ日記」みたいな本。

 そんなもんが、公共の図書館にあったのが、今考えると不思議ですが、とにかく、あったんだ。

 それを読むと、目からうろこ。

 どういうことかって言うと、それには、著者が、パチンコでどうやって飯を食っているのかが、結構、リアルに書いてあったのです。

「○月○日、

今日は、なんとか会館で、打つ。

2千円入れて、大当たり7回、合計2万円の勝ち。

なんとか会館は、水曜日の2列目が狙い目だな。」

とかなんとか。負けた時のことも書いてある。

 それまで、パチプロっていうのは、なんか釘とか読めて、特殊能力があって、月に100万円くらい稼いでいるヒト、という先入観があったのだけれど、実際はそうでもなくて、月に20万円くらい、

つまり、平均すると一日7千円くらいの稼ぎでほそぼそやっているらしかった。

 なんだ、それなら、僕にもできるじゃん!って、早速、パチンコ屋に通うことにしました。

 当時は、まだ、フィーバーと羽根モノって言われる台が混在している時代。

 釘で、大当たりの確率が左右される羽根モノなら、パチンコで稼ぐための原則を踏み外さなければなんとか稼げるっちゅう、いい時代でしたから、これは、わりと目論見どおり稼げました。

 大体、週5日。2時間、パチンコ台に向かって、1日7千円稼ぐ。

 7千円現金があれば、夜、焼き鳥屋でいっぱいやって、安スナックでカラオケ歌って暮らせる。

 なんか、いいな。

その時は、うらぶれた気持ちにもなっていたけど、今考えると、これって、なかなかいい生活じゃん。いいじゃん、いいじゃん。

 でも、今、それをやれって言われると、羽根モノないし、また、やる気にはなれないなあ。

 え?それでもいいから、パチンコ必勝法を教えろ!って?

 う~ん。……あとでね。

■病気になる

 

 あまりにだらだら長くなると、つまらんかもしれないので、後の話は、はしょりますけど、パチプロやりながら、1年くらい暮らしていたのですが、やっぱり、もう、このままじゃダメだなあ、おれって。故郷に帰って、再就職でも頼んでみるかなあ、もうダメだなあ、と明日にでも引き上げるくらいのタイミングの時に、ある、ものすごいメジャーな制作プロダクションから、電話が来て、ボクは、拾われたのです。あの電話が、2、3日遅かったら、ボクの人生は変わっていたなあ。

 

 それから、独立して、赤坂に事務所を作って、広告の企画と制作の仕事をしていました。

 まあ、私生活とか、いろいろトラブルもあったけど、社員も数名雇って、ほそぼそながら、楽しく、仕事をしていましたね。

 でも、40歳の時、病気になってしまった。

 

 正確に言うと、相当若い頃から、病気は、徐々に進んでいたらしいのです。

それは、慢性の腎不全というもの。

 血液をろ過して、きれいにし、老廃物をおしっこにする腎臓という臓器がダメになって、血液がどんどん濁ってしまう、という病気というか、障害ですな。

 で、いつから、それが始まったのかわからないほど、それは長年にわたり,徐々に進んでいた。

 それが、ついに40歳の時、ひどい身体の不調になって、ボクを襲ってきたのです。

 まず、ひどい高血圧。上は190とか200。下は130とか140.血はどろどろで、血栓だらけ。

 心臓に過剰な負担がかかり、うまく血液を循環できないものだから、肺に水がたまる。

 夜、寝ようと、横になると、肺にたまった水のために激しく咳きこみ、眠れない。

 で、睡眠不足になり、昼、突然、眠ってしまう。でも、倒れこんで横になると、また、激しく咳き込み目が覚める。

 こんな状態。辛かったなあ。仕事どころじゃあない。

 それで、いろいろ治療を受けたりしたけど、最後は、3ヶ月入院して、「透析」で週3回病院に通う、ということになりました。

 しかし、こういう病気になると、フリーというか、独立したちっこい会社なんかやってると辛い。

 会社は解散しなければならなかった。

 

 で、それから、いろいろごまかしながら、広告の仕事もやっていたのだけれど、他の仕事もそうかもしれませんけど、週に3日も病院通いで身動きが取れない、ということになると、大きいプロジェクトとかは任せてもらえないし、チームの中でも、イニシアティブは当然取れないわけで、どんどん閑職のしょぼい仕事しかなくなるわけです。

 差別とかそういうことでもなく、もうそれは、仕方のないことです。 

 

 で、ボクは、広告の仕事一本で続けていくことは、もう無理だなあ、と思い、別に、ひとつ商売を始めたのです。それが46歳の時。

 これが、メイド喫茶の「おぎメイド」でした。

 この店を始めた経緯もいろいろ言い出すときりがないので割愛させていただきますが、この店を始めた一番大きな動機は、「広告屋を引退した時の備えのつもり」だったのです。

 もうだめだな。ボクは広告屋としては終わりだな。

 透析になってからは、毎日、仕事先などで、そんなことを思い知らされることがありました。

 つまり、ボクは、腎不全という病気のために、一回「死んだ」のです。

 

 ボクは、手相占いの専門家ではありませんが、ボクの手相を見ると、確かに、運命線が途中で、切れて、その下から、また、新しい線が始まっています。きっと、ボクは、「一度死んで」、新しい別の人生を歩くような運命なのだろう、と思っています。

 自ら望んで、そうなってるわけではなく、そういう宿命、運命。なのでしょうねえ。

 

 そうして、確かに、ボクは「一回死んだ」のです。

 

ヒロN
作家:ヒロN
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