武の歴史の誤りを糺す

明治以降( 6 / 7 )

武士道について

新渡戸稲造 「武士道」

この著作は、武士道の崇高な倫理観と高い精神性や美質を余すところなく説明されており、西洋の騎士道にも対比できる確固とした武士の行動規範が、我が国にも存在したと主張している。

しかし、その様な武士道という確立した武士の行動規範が、実際に存在したのだろうか。

確かに幕末期、武家政治の黄昏期において、この著作に書かれているような事例は多く存在した。
今年(2013年)、NHKの大河ドラマの舞台になっている戊辰戦争の会津若松城下の戦闘に於いて、白虎隊の自決、中野竹子指揮する娘子隊の涙橋での奮戦、家老西郷頼母の家族の自刃など、この新渡戸稲造の「武士道」を彷彿とする事例は確かにあった。

また、江戸中期の赤穂浪士の吉良邸討ち入りも武士道が存在した証拠であるという人もいるであろう。

しかし、彼の言うように、その当時、武家階級全体を律する確立した武士道なるものが果たして存在したかといえばそうではないだろう。

江戸時代の我が国は、俗にいう三百諸侯による完全な地方分権の政治が行われており、徳川幕府による中央集権体制ではなかった。

それらの大名は個々に領地と領民を持ち、家来も様々であった。

つまり、三百諸侯の領国は様々であり、当然、それぞれの家風は違っていたのである。
また、幕府お膝もとの幕臣、旗本や御家人、およびそれらの家士では更に武士に対する考えが違っていた。

一万石そこそこの、城もなく陣屋しか持たない大名と、加賀の前田、広島の浅野などの大大名家では、その家風も家来の考えも違って当然と言える。
明治維新の立役者となった薩摩と長州でもその家臣の気風は月とすっぽん程違っていた。
薩摩の島津家は尚武の気風著しく、その家臣は俵剽悍無比。恐らく当時の諸侯の兵の内で最も戦闘能力が高く、その戦場における軍法も厳格を極めたものであった。

これに対して長州毛利家はそうではない。
毛利家は関ヶ原以前は九ケ国を領する広大な領国をもっていたが、以後は防長二国に減らされた。
毛利家臣団の多くはその際帰農し、限られた重臣のみが大幅に家録を減らして狭い萩城下について行った。
その為、毛利家臣は元は城の一つも預かろうかというような大身の領主出自の者が多く、その家風は尚武というより、教養人、知識人としての要素のほうが強かったのである。

このように、武より教養や思想の方が重要視されていたため、いち早く尊王攘夷思想に傾倒し、倒幕運動の中心となった。
長州兵が実戦では決して強くなかったことは、馬関戦争や禁門の変などでも、欧米艦隊や薩摩に惨敗を喫したことでもわかる。
戊辰戦争を戦い、官軍の中心となって戦功をあげたのは、毛利家家臣団ではなく、奇兵隊に代表される百姓町人からなる諸隊であった。

また、幕末京都の治安維持に功績をあげた新撰組は、局長の近藤勇をはじめその中核をなしたものは百姓町人、浪人であったのは一般大に良く知られているところである。

このように、後世、武士道と呼ばれた武士の行動規範は、各大名家まちまちであったし、むしろそれは、百姓、町人にまで及んでいたのである。
そしてその当時はこれが武士道であるいう日本全国に共通の確立した認識はなかったといえる。

元禄の赤穂浪士の場合、その前に良く似た浄瑠璃坂の仇討があり、この首謀者奥平源八は罪一等を減じられて伊豆大島に流罪となったが、六年後には恩赦で赦免され、彦根井伊家に召し抱えられた。
また、その他にも他の大名家に仕官が叶った者もいたことから、吉良を襲撃しても死罪にはならず、もしかすると他の大名家に召し抱えられるかも知れないと赤穂浪士達が考えたとしても不思議はない。
勿論、その中心は主君に対する忠義であるが、ただそれだけであれだけの大がかりな襲撃を行ったと考えるのは余りにも一方的な見方である。

また、会津松平家の場合は特別であろう。
この家は格別徳川将軍家に対する忠誠心が強く、また、松平容保が京都守護職として在京していた時、自国の兵や新撰組、京都見廻組などを使い、多くの勤皇志士達を弾圧して彼らの恨みを買っていた。
その為、会津若松を官軍に攻められたとき、復讐の念に燃える薩長の官軍とあくまでも戦う他に道はなかったのである。

もうひとつ。佐賀鍋島家の家士、山本常朝が語り、田代陣基が筆録した「葉隠」の「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」の一文があるが、これもこの部分だけを切り取って全体の意味を説明していない為に誤解されていることが多い。

これは、決して死ぬことを美化しているのでもなければ自決を勧めているわけでもない。
むしろ、「死ぐるい」、つまり死ぬつもりで全てのことを為せといっているのである。

これは、その理想像を鍋島藩祖、鍋島直茂であるとしていることから、家臣である武士に盲目的な忠義や、意味の無い自決をすすめているのではないことがわかる。

また、この「葉隠」そのものが、佐賀鍋島家では禁書扱いとなっており、鍋島家内に於いても認められていなかったのである。

そもそも、江戸の前、戦国期に於いては、今日云われているような、儒教的な武士道は存在しなかった。
この時代は、正に弱肉強食の時代である。
強いものが勝ち、弱きは滅ぶ。人を騙すも当り前、騙された者が悪い。どんな手を使っても勝てばよい。
人の命など鳥の羽根ほどの重さも無い。自分の得にならなければ幾度となく主を代えて当り前、何の恥じるところもない。
まさに毛利元就のいう「これほど下り果てたり世」であった。

ここには後世云うところの盲目的な忠誠心を重んじる儒教的武士の価値観など欠片もみられない。ただ己が生きる為の強さや狡猾さのみが求められたのである。
この様な強さや武勇偏重の武士の価値観は江戸時代初期まで続いた。

江戸時代になり、元和年間以降、朱子学によって武士の行動則を定義しようとする動きがあったが、これとて決して日本全体の武士の規範を表したものではない。
この山鹿素行らの主張は、前述の山本常朝も葉隠のなかで批判しており、けっして全国の武家に受け入れられてはいなかった。

各大名家や幕臣諸家では、それぞれが家訓として自分の家の家士を律しており、その中に儒教の道徳を取り入れていたものもあったという程度である。

この山鹿素行のいう儒教的な武士の道徳律が、決して武士道として全国の武士に認知されていなかったことは、幕末、山岡鉄舟が、「中古よりあった仏教と神道、儒教を合わせた武士の行動律を武士道と名付ける」といい、自分が初めて武士道と名付けたといっていることからも推測される。

このように、実際に武士が存在した江戸時代には、山岡鉄舟の言うように、全国的に認知された武士道なるものはなかったのである。
ただ、それぞれの儒学者や武士自身が、それぞれの考えや価値観によって武士の行うべき様々な価値観や道徳を武士道と言っていたにすぎない。

それを、何故、新渡戸稲造は、武士階級が消滅した後の明治32年になってこの著書を書いたのか。

そのきっかけは、ベルギーの法学大家、ド・ラヴレー氏に「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と聞かれたことによる。

このとき、新渡戸が「ありません」と答えると、「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」との問いに答えることができなかった。
その後、彼は思索を重ね、この問いの答えが武士道であるとの結論に達したのである。
そして、この著作の直接の端緒は、彼の妻がかくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行われているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことなのである。
このド・ラヴレー氏、ならびに彼の妻に満足なる答えを与えようと試みた結果がこの著作であるという。

この著作は、新渡戸が病気療養中、アメリカ滞在中に書いたもので、全文英文で書かれ、アメリカで出版された。
翌年の明治33年に日本でも出版されたが、英文で書かれていたために余り多くの日本人の読むところとはならなかったと思われる。

この日本語訳は明治41年に桜井鷗村によりなされたが、このとき初めて我が国民に武士道なる言葉が認知せられ、従来、この言葉は使われてもその意味するところはさまざまであり、その価値観もいろいろと混乱していたものがはっきり定義されたのである。

この武士道という言葉の影響は以外に大きく、明治後期に発足した大日本武徳会は、その所属する武術、すなわち柔術、剣術、弓術などを、大正初年に柔道、剣道、弓道としたことは、以前にも述べたとおりである。
この術から道に代えた際、この武士道に書かれているような精神性まで持ち込んだために、この道という字が付けば、あたかも精神的、道徳的にも高い境地に至ることができるとの錯覚を国民大衆に与える結果となった。

もともと、新渡戸が、この著作「武士道」を書いたきっかけは、外国人の学者に、日本の学校には宗教教育がなくて、どのようにして子供達に道徳を教えるのかと聞かれたことであったはずだ。

新渡戸は、この回答は武士道であると言っているのであるが、ほんとうにそうであろうか。

既に失われた武士階級の道徳、規範である武士道をひっぱりだすまでもなく、明治の我が国には、学童、学生の守るべき道徳があった。

それは、明治天皇の教育勅語である。
日本国民はかくあるべきという道徳は、はっきりとこの教育勅語に書かれているし、当時の子供達はこれを暗唱していたはずである。
また、天皇陛下は最高位の神官であることから、これは宗教教育であるともいえる。

学校での教育勅語の他に、親からは厳しい躾を受け、旦那寺の僧侶や神社の神主からは、儒教、仏教、神道による道徳を教えられていたはずで、それらは今現在我々が考える以上に日々の生活に密着したものであった。
その点では、欧米諸国よりむしろ日本のほうが進んでいたともいえるのではなかろうか。
これがド・ラヴレェー氏の質問に対する答えである。

では、なぜ、新渡戸はこのことを言わず、武士道を引っ張り出してきたのであろうか。
これは、明らかに、ド・ラヴレー氏の問いの答えになっていない。

ここで注意しなければいけないことは、この新渡戸稲造はキリスト教の信者であったということである。
彼にとって、異教である仏教、儒教、および神道などはとうてい受け入れられないものであった。
キリスト教信者である新渡戸にとって、異教であるこれらの日本の伝統宗教は邪教以外のなにものでもなく、神道の最高位にある天皇陛下の教育勅語も触れたくないものであったことは容易に想像できる。

そこで、宗教色のない「武士道」という概念にたどり着いたというわけであろう。

ところが、彼の生まれた幕末以来、この日本全国に普遍的に存在する「武士道」という観念はなかった。
そこで、江戸期に全国的に存在した様々な武士の思想、価値観、風習などを寄せ集めて、これが武士道であると主張したのである。

この著作を著しているとき、彼の頭の中にはなにがあったのか。
それは、西洋の騎士道であった。
彼の頭には常に騎士道というものがあり、それとの比較のうえで武士道を説明している。

新渡戸の言いたかったことは、日本にも、西洋の騎士道に比すべき精神的、道徳的に極めて高い境地にある武士道が存在し、それは死さえも超越するほどの崇高なものであったということである。

この著作は、英文で書かれ、アメリカで出版されたことから、その目的は、アメリカ人に、我が日本には騎士道にも比すべき素晴らしい武士道が存在するということを知らしめることだった。
つまり、この本は、武士道をアメリカ人に宣伝する為に書かれたものなのである。
その為に、決して嘘ではないものの、極端な誇張や粉飾が見られる。

この大げさな表現はこの武士道の宣伝とういう観点から見ると、決して非難されることではなく、むしろ、この程度の誇張は止むを得ないことであろう。

この本が発行された明治32年は日清戦争の4年後である。
極東の小国日本が眠れる獅子と言われた清に大勝した。
欧米人は、何か特別な理由があるに違いないと考えた。
そこにこの本が出版されたのである。

さらにその後、当時最強と言われたロシアにも日本が勝ったことにより、欧米人に、日本に武士道があったからこそはるかに強力な清、ロシア両国にも勝てたのだということを納得させたのである。

当時、欧米人は日本に対して殆ど知識がなかった。そこに、我が国の武士道という騎士道にもひけを取らぬ武人文化が存在することを世界に向けて宣伝した功績は極めて大きいといわねばならない。

このように、この著作は、一種のプロパガンダであるともいえる。
この本が、外国で読まれ、武士道に対する理解が深まることは大いに結構なことである。

しかし、明治41年に和訳されたことにより、この新渡戸の「武士道」は逆輸入されることになった。

日本人のおかしなところは、外国で評判となり人気がでると、それを無条件で称賛し、無批判で受け入れることであろう。

この国民性は今も明治の世も変わらないが、この著作が逆輸入されることにより、ろくに内容を検証することなしに盲目的に受け入れてしまった。

かくして新渡戸稲造の「武士道」は、今現在も、多くの学者や知識人にその正否の検証すらされず信奉されている。
前に述べた如く、新渡戸のいう完成された武士道は、江戸時代にはまだ存在しなかったということをいう人間はあまりいない。

誤解無きように言っておくが、私は、決して新渡戸を批判しているわけでも、武士道を誤りだというつもりはない。
彼が英文で書き、アメリカで出版して武士道を欧米人の間に広く認知せしめたことは大いに是とするところである。
この点では新渡戸稲造の功績は極めて大きい。

問題は日本語訳が出版された後の国内での扱われかたであろう。
本来、外国人向けに、誇張して書かれたものを、何の検証もなくそのまま受け入れてしまった。

その結果、後世の人達に、新渡戸の書いた武士道そのままが、武家階級全体に、普遍的に存在したかのような間違った認識を与えることとなった。

このことは、あくまでも後世の人達の責任であり、新渡戸の預かり知らぬところである。

 

明治以降( 7 / 7 )

剣道の祖は江戸後期に流行した撃剣である

 

 現代の人は、宮本武蔵や柳生但馬守宗矩など戦国後期から江戸初期の剣豪が現代剣道の祖であると信じて疑う人はいない。

 

しかし、実は、これは大きな間違いで、これまでの私の拙文をお読みになればご理解いただけるものと思うが、ここにさらにわかりやすく説明しよう。

 

まず、剣道と宮本武蔵の二天一流や柳生但馬守宗矩の柳生新陰流、塚原卜伝の新当流などの古流剣術とはその本質において全く違ってきていることをはっきりと認識していただかなければならない。

 

本来、古流剣術は真剣で敵を切り倒すことが目的である。

その元は、合戦の場において、甲冑武者を打ち取る、つまり人殺しが目的であった。

これを介者剣法という。

 

時代は下り、江戸期の太平の世になると合戦はなくなったが、武士の本質は兵士であるのでいざ戦というときの為に引き続き剣術をはじめ、鎗術、柔術、馬術、長刀術などを修行したのである。

 

これら古流の武術は、本科の剣術や柔術の他に教養科目として薙刀や槍、棒、抜刀術などが含まれていることが多い。

これらは、戦場で敵を倒し、手柄を立てて立身出世をするための技術なのである。

 

つまり、古流の武術はもともとは戦場のための闘争の技術なのであった。

 

これらの古流の武術、つまり古武道は、極めて地域性も強く、また、その系統により、その形や身の捌き、攻撃や防御の仕方、その目的やコンセプトはそれぞれ全く違っている。

 

例えば同じ剣術でも、念流、新陰流、一刀流、新当流、二天一流では共通したところといえば、刀を使うということと形稽古を行うことぐらいで、その技法は全く別物であった。

 

例えば、将軍家の採用した新陰流と一刀流は全く別のものと言ってよい。

 

他の主要流派も同じ。

 

もともとが甲冑剣法であるため、冑や鎧で覆われているところは狙わない。

 

鎧の隙間や裏籠手、内兜、内股などである。

 

これに比べ、現代の剣道は面、籠手、胴などの防具を着けて、竹を四つ割りにした竹刀で相手の防具の決められた場所を打つて勝敗を決するスポーツである。

 

こちらは、打つ場所は防具で保護された面、胴、籠手である。

 

これは明らかに甲冑は想定していない。素肌(裸ではない。甲冑を着けない状態をいう)の場合を想定している。

 

たとえ、面、小手、胴を正確に打ったところで、敵が甲冑を着けていればこれは何の役にも立たない。

 

つまり、昔の剣法と現代剣道では、その切りつける場所が全く違うのだ。

 

では、何時、このような変化が起きたのか。

 

 

それは江戸時代中期である。

 

戦乱の時代が終わり、江戸時代に入ると、島原の乱で争乱は終結し、平和な時代が到来した。

 

本来は兵士である武家階級も、両刀を腰に手挟んではいるが、実際に刀で人を切るということがなくなった。

 

それまで実戦の為に習得した剣術各流派も、実際に戦場で刀を使う機会がなくなると、次第に実用から離れ、空理空論に陥ってくる。

 

各剣術の流租の時代は、実際に戦場や果し合いで培った実用剣法であり、実際の斬り合いに有効な技で組み立てられていた。

 

従って戦国末期から江戸初期までは、その技術体系もあまり複雑なものではなく、形の数も少ない。

 

ところが、江戸時代になり、社会が安定してくれば当然、真剣を取っての切り合いはなくなり、木刀や袋竹刀をつかっての多種多様な技法が生み出された。

 

これは実際に真剣を使っての検証がなされないため、勢い空理空論に陥りがちになり、これに対する批判の声も高まってくる。

 

この形骸化した形稽古に対し、比較的早い時期からより実戦に近い稽古を工夫していたのが直心影流の流租山田平左衛門光徳(一風斎)である。

 

一風斎は皮具、頬当て、竹刀の防具を改良し、新しい稽古法を工夫した。

 

次の長沼四郎左衛門国郷が正徳(17111716)頃、面、籠手を完成して防具を着けて竹刀で打ち合う稽古を始めた。

 

それから50年ほど後の宝暦年中(17511764)、一刀流中西派の中西忠蔵子武が鉄面を着け竹具足を用いた竹刀打ち込み稽古を完成させたのである。

 

これは、ほぼ、現代の剣道と同じもので、剣道の基礎はこのときにほぼ完成された形でできあがったことになる。

 

当時、これは撃剣と呼ばれ、従来の形稽古とは全く違うものであった。

 

 

従来の形稽古は、師匠が手取り足取りマンツーマンで指導する。

 

当然、師匠一人では教える人数に限界があり、最初の弟子が一人前に育ち、師匠の代稽古ができるようになるまでは相当の年月がかかった。

 

このように、基本はマンツーマンであるために、一度に多くの弟子を教えることができず、道場経営上極めて不利であったことは容易に想像できる。

 

一方、実際に竹刀で打ち合うこの新しい稽古法は、勝敗がはた目にもわかりやすく、また、面白いということもあって以後、爆発的に普及する。

 

多くの新しい流派はこの稽古法を採用する道場が増え、幕末にはこの撃剣が一世を風靡することになるのである。

 

この利点は、運動神経や反射神経に優れ、体力に優れていれば、短期間で強くなることができ、永年修行を積んだ兄弟子をも打ち負かすことができたということであろう。

 

そして、形という束縛に縛られないため、他流試合も盛んにおこなわれるようになった。

 

他流試合が盛んになると、試合に強い流派に人気が集まり、北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館、鏡心明智流の士学館が江戸の三大道場と謳われた。

 

特に、北辰一刀流は門弟3600人と言われ、これらの撃剣を教える道場は隆盛を極め、全国の諸藩から多くの留学生を受け入れるようになった。

 

幕末の勤皇の志士にも撃剣の修行者が多く、坂本龍馬は北辰一刀流、武市瑞山は鏡心明智流、桂小五郎は神道無念流を学んでいる。

 

この防具を着け、竹刀で打ち合う稽古法を採用していた撃剣の流派は、天分にさえ恵まれていれば比較的短期間のうちに強くなることができたが、これは、道場側にも大きな利点があった。

 

それは、手取り足取り形を教える必要が無く、基本さえ教えればあとは弟子同志が打ち合って稽古すればよいから、一度に多くの弟子を取ることができたので、道場経営上極めて有利であったことであろう。

 

このことは今まで見逃されてきたことだが、道場経営上極めて有利であったことは今一度見直されなければならないことではなかろうか。

 

こうして撃剣が盛んになり、剣術の稽古の中身が形稽古から防具を付けた竹刀打ち込み稽古が主流となると、流派の特色は曖昧なものとなり、流派の垣根を超えた他流試合が盛んに行われ、その優劣がそのままその流派の評価になっていった。

 

上にあげた三大流派は、他流試合に最も有利であった故にあれだけの隆盛をみたのである。

 

およそ、古流の流派の特色とは、それぞれの運刀や體さばき、そしてコンセプトを凝縮したその形の相違である。

 

その流派独特の刀の使い方、身のこなし、その目的とするところなどを修練する為の形こそが流儀の違い、特色そのものであるのに、防具を付けての打ち込み稽古では、この形というものはほとんど関係がなくなってくる。

 

もちろん、江戸時代末期の剣術諸流は、打ち込み稽古が主流であっても、形は温存されていて、当然免許を受けるにはこの形の習得が不可避であった。

 

この形の習得は結構時間がかかるもので、北辰一刀流の大目録、すなわち他流でいう免許皆伝を得た清川八郎などは、この習得に9年の月日を要している。

 

こう見てくると、実質3年ほどしか修行期間のない坂本龍馬などが、同じ北辰一刀流の免許皆伝、つまり大目録などもらえる訳がないことは誰の目にも明らかなことであろう。

 

しかし、その形稽古そのものがあまり重視されることがなくなり、防具を着けての打ち込み稽古ばかりになれば、各流派の区別も意味を持たなくなってくる。

 

流派の区別がさほど重要視されなくなれば、当然他流試合が盛んになる。

 

そうなればその試合のルールも統一されなければならない。

 

こうして他流試合は当たり前のこととなり、剣術の修行者は武者修行と称して諸国を巡り、試合をして歩いたものである。

 

これらの記録は芳名禄として数多く残されている。

 

先に言ったように、防具を使用した竹刀打ちの稽古は直心影流がはじめ、それを完成したのは中西派一刀流である。

 

それ故、この防具を着けての竹刀打ち込み稽古は当初、この二つの流派の系統で行われ、次に組太刀による形稽古の束縛のない新興流派によって隆盛を極めた。

 

先に説明した北辰一刀流は、北辰夢想流を父親より学んだ千葉周作が、一刀流を修めて新たに北辰一刀流を創始し、文政5年(1822年)に神田お玉が池に玄武館を開いた。

 

神道無念流は宝暦年間に福井兵衛門嘉平により始められ、斎藤弥九郎忠郷の時代に江戸三大道場と謳われるほどになった。

 

鏡心明智流は、安永2年(1773年)、諸流を学んだ桃井八郎左衛門直由が日本橋南茅場町に士学館道場を開いたのが始まりで、最盛期は四代目の春蔵直正の時である。

 

こうして見てくると、撃剣で一世を風靡した三大道場はいずれも江戸中期以降に創始された比較的新しい流派である。

 

これに加えて、心形刀流の伊庭軍兵衛秀業の練武館を入れて四大道場とも言われるが、この流派は、8代目の秀業の時代にこの撃剣を採用したことにより急激に発展したようである。

 

こうして見てくると、主に撃剣を採用した流派は、主に直心陰流や一刀流の系統を中心としてそれに江戸中期ごろに勃興した新しい流儀であることがわかる。

 

では、正確に言うと、現代の剣道の元祖は一体何であろうか。

 

いうまでもなく、江戸中期に始められた「撃剣」である。

 

そして、その大本は、これを始めた直心影流や一刀流と言えなくもない。

 

しかし、流儀を区別すべき形が現代剣道に伝わっていないのだから、実質は撃剣と剣道は別物というべきではなかろうか。

 

ただ、歴史的な流れを考えれば、撃剣の祖は直心影流や一刀流であることは間違いのないところであろう。

 

いや、剣道にも日本剣道形があるではないかと言われる方もおられよう。

 

しかし、日本剣道形は大正元年に当時残っていた剣術諸流の形を抜き出して編集されたものである。

 

前にも言ったが、形というものは、その流派独自の理念とコンセプトで作られているので、その流派独自の身のこなしや運刀でなければなしえないもので、これを、現代の剣道のつもりで習ってもあまり意味はないのである。

 

剣術の流派というものは、その形にこそその流派の存在意義があり特徴があるので、この形を抜きには流儀を語ることはできない。

 

また、この形というものは、初心から熟達者へ段階を踏んでカリキュラムが組まれているので、その中の一つを抜き出して日本剣道形として保存しても、博物館に陳列されている刀剣や甲冑と同じことで、昔の何々流剣術にはこういう形があったという記録にしか過ぎないのである。

 

古流の形というものは、その流儀の刀の振り方、身のこなしなどの基礎ができていなければおよそ役に立たないもので、現代剣道しか知らない人が剣道のやり方でその形を真似すれば、その形は全く違うものとなってしまう。

 

こう考えてくると、宮本武蔵の二天一流や柳生石舟斎の新陰流、真庭念流などの古い流派は、現代の剣道の祖の撃剣とは何のかかわりも関係もないということがお判り頂けたと思う。

 

撃剣を創始した直心影流や一刀流中西派などは、その歴史的経緯から剣道の祖と言えなくもないが、その他の古い流派とは全くの無関係なのである。

 

数多くの古い剣術流派のなかではっきり剣道の祖と言って差し支えないものは中西派一刀流の始祖である小野派一刀流の小野次郎左衛門ぐらいであろうか。

 

 

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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