しかし、実は、これは大きな間違いで、これまでの私の拙文をお読みになればご理解いただけるものと思うが、ここにさらにわかりやすく説明しよう。
まず、剣道と宮本武蔵の二天一流や柳生但馬守宗矩の柳生新陰流、塚原卜伝の新当流などの古流剣術とはその本質において全く違ってきていることをはっきりと認識していただかなければならない。
本来、古流剣術は真剣で敵を切り倒すことが目的である。
その元は、合戦の場において、甲冑武者を打ち取る、つまり人殺しが目的であった。
これを介者剣法という。
時代は下り、江戸期の太平の世になると合戦はなくなったが、武士の本質は兵士であるのでいざ戦というときの為に引き続き剣術をはじめ、鎗術、柔術、馬術、長刀術などを修行したのである。
これら古流の武術は、本科の剣術や柔術の他に教養科目として薙刀や槍、棒、抜刀術などが含まれていることが多い。
これらは、戦場で敵を倒し、手柄を立てて立身出世をするための技術なのである。
つまり、古流の武術はもともとは戦場のための闘争の技術なのであった。
これらの古流の武術、つまり古武道は、極めて地域性も強く、また、その系統により、その形や身の捌き、攻撃や防御の仕方、その目的やコンセプトはそれぞれ全く違っている。
例えば同じ剣術でも、念流、新陰流、一刀流、新当流、二天一流では共通したところといえば、刀を使うということと形稽古を行うことぐらいで、その技法は全く別物であった。
例えば、将軍家の採用した新陰流と一刀流は全く別のものと言ってよい。
他の主要流派も同じ。
もともとが甲冑剣法であるため、冑や鎧で覆われているところは狙わない。
鎧の隙間や裏籠手、内兜、内股などである。
これに比べ、現代の剣道は面、籠手、胴などの防具を着けて、竹を四つ割りにした竹刀で相手の防具の決められた場所を打つて勝敗を決するスポーツである。
こちらは、打つ場所は防具で保護された面、胴、籠手である。
これは明らかに甲冑は想定していない。素肌(裸ではない。甲冑を着けない状態をいう)の場合を想定している。
たとえ、面、小手、胴を正確に打ったところで、敵が甲冑を着けていればこれは何の役にも立たない。
つまり、昔の剣法と現代剣道では、その切りつける場所が全く違うのだ。
では、何時、このような変化が起きたのか。
それは江戸時代中期である。
戦乱の時代が終わり、江戸時代に入ると、島原の乱で争乱は終結し、平和な時代が到来した。
本来は兵士である武家階級も、両刀を腰に手挟んではいるが、実際に刀で人を切るということがなくなった。
それまで実戦の為に習得した剣術各流派も、実際に戦場で刀を使う機会がなくなると、次第に実用から離れ、空理空論に陥ってくる。
各剣術の流租の時代は、実際に戦場や果し合いで培った実用剣法であり、実際の斬り合いに有効な技で組み立てられていた。
従って戦国末期から江戸初期までは、その技術体系もあまり複雑なものではなく、形の数も少ない。
ところが、江戸時代になり、社会が安定してくれば当然、真剣を取っての切り合いはなくなり、木刀や袋竹刀をつかっての多種多様な技法が生み出された。
これは実際に真剣を使っての検証がなされないため、勢い空理空論に陥りがちになり、これに対する批判の声も高まってくる。
この形骸化した形稽古に対し、比較的早い時期からより実戦に近い稽古を工夫していたのが直心影流の流租山田平左衛門光徳(一風斎)である。
一風斎は皮具、頬当て、竹刀の防具を改良し、新しい稽古法を工夫した。
次の長沼四郎左衛門国郷が正徳(1711~1716)頃、面、籠手を完成して防具を着けて竹刀で打ち合う稽古を始めた。
それから50年ほど後の宝暦年中(1751~1764)、一刀流中西派の中西忠蔵子武が鉄面を着け竹具足を用いた竹刀打ち込み稽古を完成させたのである。
これは、ほぼ、現代の剣道と同じもので、剣道の基礎はこのときにほぼ完成された形でできあがったことになる。
当時、これは撃剣と呼ばれ、従来の形稽古とは全く違うものであった。
従来の形稽古は、師匠が手取り足取りマンツーマンで指導する。
当然、師匠一人では教える人数に限界があり、最初の弟子が一人前に育ち、師匠の代稽古ができるようになるまでは相当の年月がかかった。
このように、基本はマンツーマンであるために、一度に多くの弟子を教えることができず、道場経営上極めて不利であったことは容易に想像できる。
一方、実際に竹刀で打ち合うこの新しい稽古法は、勝敗がはた目にもわかりやすく、また、面白いということもあって以後、爆発的に普及する。
多くの新しい流派はこの稽古法を採用する道場が増え、幕末にはこの撃剣が一世を風靡することになるのである。
この利点は、運動神経や反射神経に優れ、体力に優れていれば、短期間で強くなることができ、永年修行を積んだ兄弟子をも打ち負かすことができたということであろう。
そして、形という束縛に縛られないため、他流試合も盛んにおこなわれるようになった。
他流試合が盛んになると、試合に強い流派に人気が集まり、北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館、鏡心明智流の士学館が江戸の三大道場と謳われた。
特に、北辰一刀流は門弟3600人と言われ、これらの撃剣を教える道場は隆盛を極め、全国の諸藩から多くの留学生を受け入れるようになった。
幕末の勤皇の志士にも撃剣の修行者が多く、坂本龍馬は北辰一刀流、武市瑞山は鏡心明智流、桂小五郎は神道無念流を学んでいる。
この防具を着け、竹刀で打ち合う稽古法を採用していた撃剣の流派は、天分にさえ恵まれていれば比較的短期間のうちに強くなることができたが、これは、道場側にも大きな利点があった。
それは、手取り足取り形を教える必要が無く、基本さえ教えればあとは弟子同志が打ち合って稽古すればよいから、一度に多くの弟子を取ることができたので、道場経営上極めて有利であったことであろう。
このことは今まで見逃されてきたことだが、道場経営上極めて有利であったことは今一度見直されなければならないことではなかろうか。
こうして撃剣が盛んになり、剣術の稽古の中身が形稽古から防具を付けた竹刀打ち込み稽古が主流となると、流派の特色は曖昧なものとなり、流派の垣根を超えた他流試合が盛んに行われ、その優劣がそのままその流派の評価になっていった。
上にあげた三大流派は、他流試合に最も有利であった故にあれだけの隆盛をみたのである。
およそ、古流の流派の特色とは、それぞれの運刀や體さばき、そしてコンセプトを凝縮したその形の相違である。
その流派独特の刀の使い方、身のこなし、その目的とするところなどを修練する為の形こそが流儀の違い、特色そのものであるのに、防具を付けての打ち込み稽古では、この形というものはほとんど関係がなくなってくる。
もちろん、江戸時代末期の剣術諸流は、打ち込み稽古が主流であっても、形は温存されていて、当然免許を受けるにはこの形の習得が不可避であった。
この形の習得は結構時間がかかるもので、北辰一刀流の大目録、すなわち他流でいう免許皆伝を得た清川八郎などは、この習得に9年の月日を要している。
こう見てくると、実質3年ほどしか修行期間のない坂本龍馬などが、同じ北辰一刀流の免許皆伝、つまり大目録などもらえる訳がないことは誰の目にも明らかなことであろう。
しかし、その形稽古そのものがあまり重視されることがなくなり、防具を着けての打ち込み稽古ばかりになれば、各流派の区別も意味を持たなくなってくる。
流派の区別がさほど重要視されなくなれば、当然他流試合が盛んになる。
そうなればその試合のルールも統一されなければならない。
こうして他流試合は当たり前のこととなり、剣術の修行者は武者修行と称して諸国を巡り、試合をして歩いたものである。
これらの記録は芳名禄として数多く残されている。
先に言ったように、防具を使用した竹刀打ちの稽古は直心影流がはじめ、それを完成したのは中西派一刀流である。
それ故、この防具を着けての竹刀打ち込み稽古は当初、この二つの流派の系統で行われ、次に組太刀による形稽古の束縛のない新興流派によって隆盛を極めた。
先に説明した北辰一刀流は、北辰夢想流を父親より学んだ千葉周作が、一刀流を修めて新たに北辰一刀流を創始し、文政5年(1822年)に神田お玉が池に玄武館を開いた。
神道無念流は宝暦年間に福井兵衛門嘉平により始められ、斎藤弥九郎忠郷の時代に江戸三大道場と謳われるほどになった。
鏡心明智流は、安永2年(1773年)、諸流を学んだ桃井八郎左衛門直由が日本橋南茅場町に士学館道場を開いたのが始まりで、最盛期は四代目の春蔵直正の時である。
こうして見てくると、撃剣で一世を風靡した三大道場はいずれも江戸中期以降に創始された比較的新しい流派である。
これに加えて、心形刀流の伊庭軍兵衛秀業の練武館を入れて四大道場とも言われるが、この流派は、8代目の秀業の時代にこの撃剣を採用したことにより急激に発展したようである。
こうして見てくると、主に撃剣を採用した流派は、主に直心陰流や一刀流の系統を中心としてそれに江戸中期ごろに勃興した新しい流儀であることがわかる。
では、正確に言うと、現代の剣道の元祖は一体何であろうか。
いうまでもなく、江戸中期に始められた「撃剣」である。
そして、その大本は、これを始めた直心影流や一刀流と言えなくもない。
しかし、流儀を区別すべき形が現代剣道に伝わっていないのだから、実質は撃剣と剣道は別物というべきではなかろうか。
ただ、歴史的な流れを考えれば、撃剣の祖は直心影流や一刀流であることは間違いのないところであろう。
いや、剣道にも日本剣道形があるではないかと言われる方もおられよう。
しかし、日本剣道形は大正元年に当時残っていた剣術諸流の形を抜き出して編集されたものである。
前にも言ったが、形というものは、その流派独自の理念とコンセプトで作られているので、その流派独自の身のこなしや運刀でなければなしえないもので、これを、現代の剣道のつもりで習ってもあまり意味はないのである。
剣術の流派というものは、その形にこそその流派の存在意義があり特徴があるので、この形を抜きには流儀を語ることはできない。
また、この形というものは、初心から熟達者へ段階を踏んでカリキュラムが組まれているので、その中の一つを抜き出して日本剣道形として保存しても、博物館に陳列されている刀剣や甲冑と同じことで、昔の何々流剣術にはこういう形があったという記録にしか過ぎないのである。
古流の形というものは、その流儀の刀の振り方、身のこなしなどの基礎ができていなければおよそ役に立たないもので、現代剣道しか知らない人が剣道のやり方でその形を真似すれば、その形は全く違うものとなってしまう。
こう考えてくると、宮本武蔵の二天一流や柳生石舟斎の新陰流、真庭念流などの古い流派は、現代の剣道の祖の撃剣とは何のかかわりも関係もないということがお判り頂けたと思う。
撃剣を創始した直心影流や一刀流中西派などは、その歴史的経緯から剣道の祖と言えなくもないが、その他の古い流派とは全くの無関係なのである。
数多くの古い剣術流派のなかではっきり剣道の祖と言って差し支えないものは中西派一刀流の始祖である小野派一刀流の小野次郎左衛門ぐらいであろうか。