日本刀の項でも説明したが、映画やドラマのチャンバラシーンは全くのでたらめである。
そして、最近量産されている時代小説のチャンバラシーンも著者の脳みそから絞り出された絵空事であり、あのようなシーンが実際にあったと思っているとこれは大間違いである。
この真剣による打ち合い、相手の切り込みを刃で受けたり、思い切り刃と刃をぶっつけあったりといった描写などは実際には避けなければならないことであった。
また、よく描写されている真向から竹割りや肩からの袈裟がけなどの大げさな技は、小説としては面白いが、じっさいの切り合いとなると極めてリスクの高いものであった。
何故ならば、これらの描写は、刀が刃物であるということを完全に失念しているからである。
現在の剣道のように、刀の刃を思い切り打ち合わせれば、当然のことながら、お互いの刃は大きく欠損する。又、頭蓋や太く堅い骨を絶ち割れば、よほど刃筋をたててうまく切らないかぎりは刃こぼれして使いものにならなくなる。最悪の場合は折れたり曲がったりするものである。
実際に切り合いをやっていた戦国時代や、その記憶の残る江戸初期までは、そのような刀の使い方はしなかった。
刀自体も頑丈で少しのことでは曲がりもしなければ折れもしない実用本位のものであったのは勿論であるが、その使い方も、後世、特に幕末期とは全く違っていた。
その正しい使い方とは、刀の特性を完全に生かした使い方で、刀身の反りや鎬をうまく使って敵の刀を抑えたり弾いたりしたもので、古い流派にみられる「そくいづけ」など、現代の剣道には思いもかけないような技が使われていた。
また、斬る場所も、剣道のように、面や胴、籠手に刀を叩きつけるのではなく、敵の急所や裏小手や首筋などの動脈を切り、骨を断ち切るような無駄なことはしなかったのである。
体の表面近くの動脈や急所を切るのであれば、堅い骨で刃を痛めることも無く、有効に敵に致命傷を与えることができた。
これが刀の刃物として、また、反りや鎬の構造の特性を十分に活用した使い方である。
ところが江戸期、島原の乱を最後に、実際に刀を振るっての戦闘が無くなり、平和な時代が到来すると、剣術は実用を離れ、刃物としての特性も弱点も考慮されなくなってくる。
刀で実際に切り合うという検証ができなくなると、剣術そのものの質がかわってきて、主に木刀の特性に特化した形稽古が主流となった。
どの剣術も、流祖が流派をたてたころは、形の種類も少なく、その全ては刀の実用的な使い方の稽古が主であったが、真剣が使われなくなってくると、木刀や袋竹刀を使った新しい技が考案され、その数も大幅に増えていった。
この時点では、真剣を使う本来の剣術からのかなりの変質がみられるが、まだまだ、江戸中期に防具が考案され流行するまでは、実用的な昔の本来の技が多く残されていた。
この様に、実戦から離れて木刀による形稽古が主流となってくると、当然のこととして、それに対しての疑問が起きてくる。
その一つの解決策が鉄面、竹具足、籠手を着けての実際に竹刀で打ち込む打ち込み稽古であった。
これは撃剣と呼ばれ、幕末には従来の木刀による形稽古を圧倒して隆盛を極め、日本全国に広まった。
そして、幕末の勤皇の志士達も、こぞって江戸にでてきて、この撃剣の道場に入門した。
この様に書いてくると、幕末には、ほとんどの剣術諸流派は、打ち込み稽古のみに転向したかのように見えるが、実はそうではない。
当時の人たちは、盛んに「撃剣」の試合や、その稽古である打ち込み稽古をやる一方、剣術流派の真髄である形稽古もちゃんと行っていた。
打ち込み稽古では、流派の特徴は殆どでない。
主にその人物の天性の資質や才能、運動神経によりその強弱は決まってくる。
しかし、それだけではその流派を習得したことにはならないのである。
この点が現代の剣道しか知らない小説家やドラマや映画の監督の認識の足りないところなのだ。
竹刀の打ち合い稽古や試合が強ければそれで短期間のうちに簡単に免許皆伝が貰えるものと思いこんでいる。
そのよい例が、坂本龍馬が三年に満たない修行期間で北辰一刀流の高位の免状を受けていたに違いないとか、武市瑞山が江戸に出て僅か一年で鏡心明智流の免許皆伝を受けたとかのいい加減な説である。
これが根も葉もない唯のひいきの引き倒しにしか過ぎないことは、別項にて詳しく説明したとおり。
全く無責任極まるいい加減な説であるが、これが多くの大衆に信じられていることは、実に嘆かわしい限りである。
そもそも、何の為に流儀があるのか。撃剣だけの稽古ならこんなにも多くの剣術流派が存在した筈がない。
現代の剣道のように一つの名前「撃剣」だけで良い筈であろう。
この流儀を分けていたのは、昔ながらの形なのである。
だから、この形の習得なしにはその流派の免許など貰えるはずがないのである。
この形の習得にはある一定の期間が必要であり、如何に撃剣の試合で強くても、一年や二年ぐらいの修行期間では免許皆伝など貰えるわけがなく、せいぜい初伝を与えられれば良い方であった。
本来、我が国の剣術は兵法ともいい、流派の系統によりそのコンセプトはまるでちがう。
つまり、流派によってその動き、構え、刀法は実に多岐に渡っていた。
これというのも、本来、日本刀というものは人を切る為のもので、よく切れる刃物以外のなにものでもない。これを如何にうまく使うかということに様々な技法が存在し、その特徴によりかくも多くの流派ができたのである。
くどいようであるが、ここは大切なところなので重複して説明することにする。
剣術の発生は、もともと戦場での戦闘の為の技術、介者剣法であった。
この技法は、鎧の隙間や弱点を狙うものであったが、島原の乱を最後に甲冑を着用しての戦闘はなくなり、剣術は介者剣法から素肌剣法へ変化していった。
太平の世では実際に刀で切り合うことはできない。素肌剣法といっても実戦から離れてしまう。
稽古は前述の木刀での形稽古となるが、とかく刀は刃物であるという事実が忘れられがちとなり、木刀での組太刀に特化した形が多くなったようである。
こうして、実際に刀での攻防ができない為、剣術は刀の使い方の技術であることが忘れられ、単なる木刀による形稽古になってしまった。
木刀や袋竹刀による形稽古に限界を感じたことにより、防具をつけて実戦さながらの打ち合いをすることが考えられ、今日の剣道の防具や竹刀の原形が工夫された。
この試合形式の打ち込み稽古は、見た目には実際に竹刀で打ち合っているので実戦のように見える。
ところが、実は、木刀での形稽古よりさらに実戦とはかけ離れたものとなってしまったのである。
つまり実戦では、如何にうまく敵を切り、致命傷を与えられるかということが大事であり、初期の剣術諸流は決して無駄な動きや派手な打ち合いはやらなかった。
ところが、幕末の撃剣はそうではない。面、胴、籠手をつけて思い切り竹刀で打ち合う。
強弱は、体力、体格、力、運動神経などで決まってくる。
刀の本来の使い方、斬るということは忘れられ、ただ竹刀での打ち合いになってしまった。
これでは実際の刀を持っての闘争には役にたたない。
撃剣の竹刀の打ち合いのように思い切り刀を打ち合えば瞬く間に刃はささらのようにぼろぼろになり、刀身は深く切り込まれ、曲がったり折れたりして使いものにならなくなる。
新撰組の山南敬介の描いたスケッチに、大きく刀身が切り込まれ曲がった刀の絵があるが、日本刀を今の剣道のように思い切り打ちつけ合って斬り合った結果である。
つまり、刀の使い方がまちがっている。刃のある刀を、刃の無い竹刀と同じように使った。これが致命的な間違いなのだ。
幕末の勤皇の志士達が新興撃剣の大流派の免許皆伝などの高位の免許を受けながら、実際の切り合いを避けた最大の理由がこれである。
当時一世を風靡した撃剣は、実際の刀をもっての切り合いには殆ど役に立たなかったということ。これが実態である。
ただ、前にも言ったように、この頃の剣術諸流は、現在の剣道のように打ち込み稽古しかやらなかった訳ではない。
それなりの高位の免状を受けるには形稽古もしっかりやらなければならない。
実際の切り合いで役に立ったのはこの形稽古のほうであった。
新撰組の天然理心流が実際の切り合いに強かったのは、あまり打ち込み稽古には力を入れず形稽古をしっかりやったことと、この流派の形が優れて実用的であったことであろう。
幕末の頃でさえこうである。実際に腰に二刀を差した武士階級が存在した幕末でさえ、すでにその刀の使い方がわからなくなり、ひたすら防具をつけての竹刀の打ち合いしかやらなくなった。
ましてや、武士階級の存在しなくなった明治以降ではなおさらである。
明治の武士階級消滅により、剣術はますます日常生活から縁遠いものとなり、国民大衆から顧みられることはなくなった。
剣術、柔術諸流は益々衰亡の極に達し、残るは僅かな流派が辛うじて命脈を保つ程度となっていたところ、この剣術、柔術、などの古流武術をまとめて大日本武徳会が設立された。
明治後期のことである。
大正にはいり、参加剣術流派の代表的な形を集めて大日本剣道形が制定された。
これは各流派の代表的な形、太刀7本、小太刀3本の計十本である。
それとともに、従来の剣術という名称は廃され、剣道という名前となり、稽古の主体は現在の剣道と同じものとなったのである。
事実上の剣道の歴史はこの時をもって始まったといってよい。
しかし、様々な古流剣術諸流の膨大な技術体系のなかから僅か十本のみの形を抜き出して大日本剣道形として保存されたのである。
前にも言ったように、本来、古流各流派のコンセプトはまるで違う。刀の振り方、身のこなし、足の踏み方、進退、まるで違う。
これを実質太刀形7本、小太刀3本に纏めることは到底無理であり、本来のその形の意味さえわからなくなってしまった。
そして、この剣道形さえ殆ど稽古されることなく、もっぱら竹刀の打ち合い稽古ばかりやるようになり、ますます本当の刀の使い方とは遥か遠く離れてしまったわけである。
こうして、明治以降、本当の刀の使い方がすっかりわからなくなってしまい、そこに付け込んで講談や小説、映画やドラマが荒唐無稽な技を作り出してなおさら混乱を極めているのである。
では、現在、実際にあったと一般に信じられているチャンバラは何時、どのようにして出来たのであろうか。
実は、この時期は大正なのである。
この頃の剣術と言えば、剣道しかない。古流剣術が国民大衆の眼から見えなくなってほぼ半世紀近くたっている。
実際の刀を振るっての切り合いなど遠い昔の話となってしまい、その実態を知る人など殆どいない。
実際に行われている剣道とは竹刀の打ち合いである。
当然、時代劇の作者や小説家、演劇の作者がイメージするのは、当時行われていた竹刀の打ち合いである剣道であろう。
それが、今に至るまで続いているのである。
最大の誤解は、昔の侍は剣道を使っていたという誤解である。
それに、様々な荒唐無稽な技が考案されて講談や小説に描かれ、演劇や映画、ドラマとなり、益々その実態がわからなくなり、最近では劇画やアニメ、果てはゲームでのでたらめな技を本気で信じている若い人達もいるという。
大切なことは、今現在、多くの出版物や映画、ドラマや演劇、劇画、アニメ、ゲームの描くチャンバラシーンなど、全てが有りもしない大ウソであるということである。
そのことを十分認識してそれらのものを楽しむのなら良いが、それが史実の如く勘違いされては困るのである。
真剣と剣術
真剣での戦いは、防具を着けて竹刀で打ち合う現代の剣道とはまるで次元の違うものである。
当り前ではないか。そんなことぐらい誰でもわかっている。何をいまさらこんなことを言うのか。言わずもがなのことではないか。多くの人達がそう言われるであろう。
しかし、一体何人の人が実際に真剣を持ったことがあるだろうか。
現在、そう簡単に日本刀を手に持ってその重さやその刃の鋭利さを実感する機会などない。
せいぜい博物館のガラスケース内に陳列されている刀剣や甲冑を見学する程度。
これでは何にもわからない。
多くの日本人のイメージする真剣での切り合いとは映画やテレビの時代劇。あるいは小説で描かれている真剣勝負のシーンであろう。
そして現実では、剣道の試合を見てだいたいあんなものだろうと納得する。
確かに現在残っている最も昔の勝負に近いものは剣道ぐらいしかない。
しかし、勝負を競うという点では同じであるが、真剣勝負と竹刀剣道ほど異質なものはないのである。
まず、真剣と竹刀の寸法と重量を比較すると、竹刀の現在認められている最大長さは3尺9寸(120cm)。510g以上の重量である。
これに対し、真剣はその標準は3尺3寸(およそ100cm)というところか。
重量も1kg前後と竹刀の倍に近い。
長さが20cmも違えば当然間合いも遠くなる。必然的に飛び込んで打つという形にならざるをえない。
そして、竹刀の柄は長い。重量も真剣の半分ほど。これにより竹刀を軽く自由自在に操ることができる。
つまり、竹刀を振るには腕の力だけで十分ということになる。
また、一応上下は決まってはいるがきめられた部位を正確に打てば、必ずしも刃に相当する部分で打つ必要はない。
ところが真剣は全くちがう。
まず、手に持って感じることは、その重さである。しかも竹刀と違って先端におよそ倍の重量がかかって来る。
先端が重いということは、それだけ切り出すにも止めるにも相当な力がいるということであろう。
力学の慣性の問題になるが、先の重い物を振るとき、止まっているものを動かすにはある一定以上の力がいる。また一旦動き出したものを止めるにも相当な力をかけなければ止まらない。
そして、止まっているものを動かす場合、動き始めるまで多少の時間がかかり、直ぐ動き始めるわけではない。
また、一旦動き出すと、急ブレーキをかけても即座には止まることはできない。
最もわかりやすい例をあげれば、SLをイメージしてみるとよい。
蒸気機関車は走りだす時、次第に速度をあげ、巡航速度に達するまで相当時間がかかる。
そして、駅に着いて停車する時も、徐々にスピードを落として、完全に停車するまである一定の時間が必要である。
これは蒸気機関の特性により、急発進、急停車ができないということもあるが、実感としてよく理解しやすい為にSLを例に挙げてみた。
この急発進、急停車が出来ず、相当の力がいることは、重量が重ければ重いほどより大きな力が必要だ。
野球のバットやゴルフのクラブを考えて見られよ。
これらは腕の力だけで振っているのではない。
まず、体を捻り、体の回転する力を腕を通してバットやクラブに伝え、最大のスピードを得るまでには少し時間がかかる。
そして、バットやクラブの先が最大のスピードや力を発揮する時点でボールに当たるようになっている。
ボールを打って役目を果たしたあとは、序々に力を抜いてゆき、半回転して止まる。
実は、今の居合の刀の振り方もこれと同じことをやっている。
違うところは、ボールを打つのではなく仮想の敵を切ることと、振りっぱなしにせず止めているところであろう。
つまり、真剣や野球のバット、ゴルフのクラブなど、重心が先の方にあるものは、腕力だけで振りまわすのではなく、半円状の軌跡を描いた遠心力を利用した慣性力でボールを打ち、或いは敵を切るのである。
この様に、遠心力を利用して切る場合は、剣道のような迅速な動きはできない。
そしてバットやクラブでは、ボールを打った後は円運動をしながら、序々にそのスピードを落としてゆき、半回転して止まる。
真剣がそれらと違うのは、下まで振り抜くのではなく中段の位置で止めるということである。
下まで振り抜いてしまうと自分の刀の刃で己が足に切り込んでしまうからである。
このとき、急速に刀を止めなければならないがこのときは相当な力でなければ止めることができない。
このように、真剣を振るということは、遠心力を利用しているのでこの腕の半径が大きいほど大きな力が出せる半面、止めるときより大きな力が必要となる。
居合等で使われているこのような振り方は、勢い大振りとなり、敵の体に刃が届くまでに少し時間がかかる。
相手がいない仮想の敵や、巻藁を切る場合はこれでもよいが、相手がいる実際の真剣勝負となれば、この様な緩慢な大きなフォームでは相手に容易に身をかわされたり、反撃される恐れがある。
つまり、現在、居合や抜刀術で一般に行われている刀の振り方では、実際の真剣での切り合いでは余りにもリスクが大きいということになるのである。
このように、実際の真剣での勝負となると、剣道のような振り方では迅速な攻防は無理であり、そうかといって居合のような慣性力を利しての振りでは動作が大きすぎる。
また、動きが遅いため実戦には不向きである。
では、どの様な刀の使い方をすれば、真剣の切り合いに有利なのであろうか。
これは過去、さんざん言ってきたことである。
起源を戦国期以前に遡る剣術流派のなかで比較的古態を温存している流派を参考にしたらよいと思う。
なにしろ、実際に真剣で切り合っていたのは江戸前期以前のことである。
真剣で切り合っていたのは戦国、江戸もごく初期のことであるから、それ以降はほとんど真剣での命のやりとりは無くなっていた。
従って、江戸以降の剣術は主に木刀や竹刀を使っての組太刀が工夫されたのである。
実際に真剣で稽古するわけにはいかないから、当然技法も実戦から離れたものとなったのは以前説明したとおり。
真剣を使っての稽古が出来なかったため、香取神道流などは、口伝として形では刀身を打つが、実は小手を切るのだというようなことがずいぶん多く伝えられているようだ。
竹刀や木刀はあくまでも真剣の代用品である。
しかし、今まで説明したように、木刀や竹刀と真剣では余りにギャップが大きすぎる。
その為、いくら木刀や竹刀で稽古を積んでも、実際に真剣を以て戦った場合に果たして通用するのかという問題がある。
しかし、現在では真剣とは全く縁がない。
木刀や竹刀しか持ったことの無い者が、突然真剣を以て切り合いに望めば、その余りの違いに日頃の稽古の成果を生かしきれないことは至極当然のことであろう。
また、現在の剣道と居合道は別物であり、多くの剣道修行者は居合までは習っていない。
つまり、江戸時代の武士が習っていた剣術や柔術は、これらを修行していれば当然、居合や抜刀術として実際に真剣を振ることは勿論、その抜き方、納刀のやり方、作法などが自然に身に着いていたのである。
故に、江戸時代の武士達は、稽古は木刀や竹刀を使っても、真剣の扱いにも充分習熟していたので実際の戦闘に際しても日頃の稽古の成果を発揮できたと思われる。
ところが明治になって、武家階級が消滅し、真剣を持つことが許されなくなった。
そして文明開化のもと、剣術、柔術などは顧みられなくなり、新たにスポーツ、或いは青少年の教育科目としての剣道や柔道が勃興し、真剣の正しい振り方、斬り方、扱い方など居合抜刀術の修行者以外は誰も知る人はいなくなってしまった。
剣術はもともと真剣勝負で敵に勝つ技術である。
幾度も言うようだが、木刀や竹刀はその代用にしか過ぎない。
ところが現代の剣道修行者のうち、居合道を納めている少数の人以外は殆どその実体を理解している者はいないであろう。
剣道はスポーツとして理解し、純粋に竹刀競技をして割り切ってしまうのなら、真剣など持つ必要はないしその扱いを知る必要はない。
しかし剣術として武術であろうとするならば、この日本刀の扱いにも慣れておかなくてはならないのではなかろうか。
今現在、真剣を以て、抜き、斬撃、納刀、扱いなどを学べるものは居合、抜刀術しか存在しない。
この居合、抜刀術は、江戸時代までは剣術や柔術に組み込まれていたが、維新後はそれぞれが独立して独自の発展を遂げたものである。
剣道や剣術を学ぶ人達は、その原点に立ち返ってどの流派でもよいから居合或いは抜刀術を習うべきであろう。
居合いは、剣術、剣道の本来の目的である真剣を遣う術と現在の剣術、剣道をつなぐ唯一の架け橋と考えるからである。
日本の甲冑のなりたち
日本の甲冑の遺物の発掘されているもので最初の頃のものは、弥生時代後期、およそ3世紀のものと思われる木製甲である。
弥生時代は戦乱の時代であったことがわかっている。
吉野ヶ里遺跡に見られる如く、集落の周りには二重の環濠を巡らし、その内外は土塁、木柵で囲まれ、坂茂木で防御されていた。
又、外敵を見張るための物見櫓も備えていて、これは全く後世の城郭と同じものがこの時代すでにあったということなのである。
戦乱の証拠は、戦によって損傷された人骨などが数多く出土していることから、この時代はまさしく魏志倭人伝にある通りの倭国大乱の時代であったということが理解されよう。
では、この頃の戦闘に使われた武器はどの様な物であったのか。
弓矢では、鏃は石、青銅、鉄が使われ、石鏃ではより大きく重いものとなり殺傷力が増している。
剣や矛も青銅製のものから鉄製の物も普及し、その殺傷力も大幅に向上したものと考えられる。
このような攻撃用の武器の発達に対し、防御する防具はどうであったろうか。
攻撃用武器が発達すれば当然、それを防ぐ方法が工夫される。これは東西を問わずどの民族も同じことで、その意匠は異なってはいても本質は変わらない。
剣や矛の攻撃を防ぐには、矛盾の例えの通り、楯がある。これは、敵の飛来する矢を防ぐ場合には主に大型の楯を使い、剣や矛の攻撃には、手に持って我が身を庇う小さめの楯を使った。
しかしながら、この楯だけでは敵の刃から身を守るには不十分である。
およそ生身の人の体ほど脆弱なものはない。
秋葉原やその他の通り魔事件で、たった一人の刃物を持った犯人に、多くの人々が簡単に殺されたことをみても、そのことを実感できる。
そこで、敵の刃から守ることのできる堅い物質で我が身を覆うことを考えた。
それが鎧である。
この鎧の形式や材料は世界中ほぼ同じである。民族性や生活習慣の差による意匠の違いを別にすれば、人間の考えることはさほど違わない。
むしろその差は、使用する武器や戦闘方法による違いが大きい。
つまり、その鎧の形式や材料を見れば、その戦闘方法はおおよその見当がつくのである。
日本の学者の中には、形式が同じであったり、姿形が似ているからと言って、安易に中国や朝鮮半島の影響を言う人間が多いが、似たような戦闘方法なら、同じような鎧が自然発生してもおかしくはないと思う。
特に上古にあっては、どの国や地域でも似たような戦争をやっていた。
従って、同じような武器を使えば当然それから身を守る鎧は似たものが出てくるのは当然のことである。
弥生時代の石鏃、石鑓、石剣などで戦った時代では、当然のことながら獣皮で体を覆う程度でも、素肌で戦うよりは遥かにましであった。
また、木を体に合わせてくり抜いたり、数枚の板で体の前後を覆うなどの後世の甲冑の萌芽を思わせるものも弥生後期の遺跡から出土している。
さらに出土例はないが、籐などの蔓を編んで鎧としたものもあった。
これは近代まで台湾で使われていた籐甲があり、一見チョッキのような形をしていて、主に胴を守るものであった。
籐甲は、比較的簡単に作れるもので、かなり普及していたと思われるが、余り鋭利な刃を持たない武器での打撃には、ある程度その衝撃を吸収できたのではないかと思われる。
上記に掲げたこのような簡単な鎧でも、石器の武器や青銅の剣や矛の攻撃には、ある程度耐えることができ、楯を併用すればかなりの防御力があった。
もっともこの場合、何にも着けない素肌の場合に比べてということなのではあるが、無いよりは遥かにましであったのである。
更に少し時代が進むと、牛などの皮革製の鎧も出現した。
皮革製の鎧はその作り方によっては金属製の鎧以上の防御力を持ち、これはかなり後世まで使われ、また甲冑の重要な構成部分としても後世にまで使用されている。
しかし、当時の原始的な有機物で出来た鎧は、年月とともに腐食して朽ち果て、木製の比較的保存条件に恵まれたもの以外は現存していないため、その姿をうかがい知ることはできない。
ただ、言えることは、それらの原始的な鎧は、単に胴体部分を守り、頭部を保護する最少限度のものであったろうし、恐らく胴部守るものは、後世の短甲の元となったと思われる。
戦後の悪しき風潮として、何が何でも全て中国大陸や朝鮮半島にその起源を求める物が多いが、この時代にまで遥か遠くの国の文化が及ぶとは考えられない。
この程度のことなら、人の真似をするまでもなく、当時の人間なら誰しも考えつくことであろう。
この後、古墳時代に入ると、我が国の甲冑は急速に発展し、武装埴輪に見られるような完成された短甲や桂甲に発展するのである。
日本の鎧の最も原始的なものは、木や獣皮で胴体や頭部を保護したものと思われる。
それに、木の蔓で編んだものも当然存在したであろうことは、南方諸島の原住民の鎧をみても考えられ得ることである。
これらの初期の鎧は、主に石器や青銅の武器からの攻撃を防ぐにはある程度の効果があった。
しかし、武器として鉄の剣や槍、矛などが使われ、攻撃力が増してくると、それだけでは十分とはいえなくなってくる。
特に我が国では、実用兵器として青銅器が使われた期間は短く、まもなく鉄製の武器にとって代わられ、青銅器は祭祀の道具として存在し、武器としての役割は終わった。
古墳時代に入ると、鉄製の武器とそれを防ぐ甲冑の急速な発達が見られる。
この時代は、日本各地に夥しい数の古墳が造られ、副葬品のなかに、鉄製の武器や甲冑が現れるのである。
しかし、鉄製の武器や鎧は極めて貴重なものであったから、これらの古墳を造営することのできる強大な権力を持ったその地方の首長にしか持つことができなかった。
恐らく、その他の一般兵士は、弥生時代から引き続き木製や革製の鎧で戦ったことであろう。
ただ、このような有機物の鎧は、そのほとんどが朽ちてしまい、木製のものを除いて、現まで残っているものはないが、その形状は武装埴輪や、古墳から出土した鉄製の鎧である程度のことは推測できる。
最初に現れた鉄製の鎧は、細長い鉄の板を横に並べて、その板を革紐で綴ったものであった。
例えば山梨県の大丸山古墳出土の竪矧板皮綴短甲は、この形式の初めのころのものであり、これから発展して後の完成された優美な曲線をもつ我が国固有の短甲になったものと考えられる。
このような鉄製の鎧が出現した背景には、古墳時代に入り、その地方の有力豪族の急激な勢力の拡大があったことが推察できる。
それ以前の弥生時代は、強大な勢力を持った国や地方豪族が現れる前であり、国と言っても小さな村落共同体が集合して国を作っていたにすぎない。
従って、その直後の古墳時代ほどこの地方の首長に極端な権力と富の集中はなかったため、当時としては極めて貴重であった鉄で鎧を作る程の経済力や権力はなかったと考えられる。
ところが三世紀中ごろから急激に大きな社会変化が起こり、日本各地に強大な前方後円墳が造られ初め、副葬品として武具甲冑の類が発掘されるに至る。
古墳から出土する甲冑は、時代とともに大きく変化する。
単純に長方形の短冊形の鉄板を横に並べてその間を革紐で綴っただけの至極簡単な竪矧板皮綴短甲は、単に短冊型の鉄板を革紐で綴じただけなので、製作は簡単であるし、さほど高度な技術いらず、手間もかからない。
又、同じ時期に出現したものに、短冊型の細長い鉄板を横に繋ぐのではなく、それより短い長方形の鉄板を上下左右を革紐で綴じて同様の形を作った方形板皮綴短甲がある。
これは上記竪矧板皮綴短甲よりかなり手がこんだ作りとなっていて、前の部分に立挙の板、背部には押付板を備え、より進歩したものとなり、製作にも時間と手間がかかっている。
しかし、双方とも、単に鉄板を革紐で綴じ合わせて整形しただけの最も原始的、単純な形式の鎧であることに変わりは無い。
この二つの形式の鎧は、古墳時代前期の古墳から出土している。
この他に、鉄の小札を皮で綴じた小札革綴甲冑も出土しているが、これは前二例の短甲に比べて遥かに手間と技術を要する形式の鎧であり、これは中国からの輸入品であるとの説がある。
ここで短甲というのは、我が国固有の鎧の形式であり、主に胴体のみを防禦するいわば剣道の胴のようなものであった。
もっとも、剣道の胴は前面だけを防御しているが、短甲は背面の防御面積のほうが大きく、腰がぐっと絞られた優美な形をしている。
この特徴は、初期のものはさほど顕著ではないが次第にその傾向ははっきりしたものとなってくる。
このように、前面より背中の防禦を重視したのは、当時の戦闘が、徒歩による乱戦であったので、いつ何時背後から攻撃されるやもしれず、その為に背後の防備を重視したものと考えられる。
なお、この短甲という言葉は、古墳時代当時に使われていたものではない。
後世、騎兵用の小札鎧である桂甲に対し、歩兵用の鎧として、後世の学者が便宜上つけた名前なのである。
古墳時代中期になると、それまで、各地方で思い思いに作られていた鎧の形式が次第に纏まりほぼ同一の形式となってくる。
最大の特徴は、この構成が単に鉄片を革で綴じただけの原始的な鎧から、前の上部を形成する立挙板や背部上端の押付板、裾板等の板などの鉄板でその外形を作り、その間に2段に帯金という帯状の横板を入れ、その隙間を三角形あるいは長方形の地板で塞いで革紐で綴じたものが現れた。
長方形の板を入れたものは長方板革綴短甲、三角板を用いた物は三角板革綴短甲という。
この形式を帯金式短甲とよぶが、この形式の鎧の出現により、我が国の鎧は極めて堅牢なものとなったのである。
この鎧の特徴は、何と言ってもその姿の優美さであろう、腰はぐっと絞られ、裾は西洋の鐘のように裾広がりとなっている。
また、肩の部分の肩上はなく、肩に布で吊ったものであろう。
鎧の引き合わせは前正面にあり、これは着脱に便利な為ではないだろうか。
この場合、まだ蝶番は使われていないので、鎧を広げて着けることは無理であり、恐らくスカートを穿くようにして着けたようだ。
前にも説明した通り、前面より背面のほうが大きいのがこの形式の特徴であるが、これもこの鎧に独特の美しさを添えている。
また裾がラッパ状に広がっているのは、当初、この部分に草摺を着けなかったため、少しでも下腹部を守ろうとする工夫ではないかと考えられる。
同様の工夫は、古代ギリシャの青銅の鎧にも見られ、この裾の部分がベルマウス状に広がっている点が共通している。
この時代、同様の手法で作られた衝角付冑、草摺、籠手、頸甲(あかべよろい)、後世の袖に相当する肩甲(かたよろい)などの付属具が出現した。
古墳時代中期中ごろになると、更に製作技術が進み、鉄板を革で綴じていた代わりに鋲で固定した短甲が現れた。
当初、三角板を鋲で留めた三角板鋲留であったが、後に帯金の間を一枚の横長い地板で塞ぎ鋲で留めた横矧板鋲留短甲となった。
さらに、五世紀になって少し経つと、この鎧の着脱を容易にする為に蝶番で開閉できるようになり、これにて我が国固有の鎧、短甲が完成するのである。
短甲はみじかよろいともいい、最初は胴体のみを守るものであった。
しかし、戦闘の激化に伴い、次第に肩鎧や草摺などの付属具を着けるようになった。
この、形式の鎧は、歩兵戦の為に作られていて、徒歩立ちによる打ち物戦に対して極めて優れた防御力を有していたものと思われる。反面、全く伸縮性が無かった為に騎馬の戦闘には不向きであった。
この点からも、この時代の我が国の兵は主に徒歩で戦ったことが想像できるのである。
この様に、後期の短甲を着け、衝角付冑を被り、頸甲、肩甲、籠手や草摺を完備した姿は、まるで後世の当世具足をつけた戦国時代の鎧武者を思わせるほど完成されたもので、当時としては極めて高い防禦力を持つ鎧であったということができよう。
この日本文化の黎明期において、この様な優れた甲冑が我が国に存在したことは実に驚くべきことであり、それ故朝鮮半島にまで進出し、高句麗の広開土王とも闘うほどの戦闘力を保持し得たのである。