大学時代を思ってみれば…

1章 新宿界隈( 6 / 14 )

思わぬ幸運!

Tと二人で、よく新宿に出かけた。明治通りを都電が走っていたから、これにのれば簡単だった。しかし、金がない時には二人で歩いたものだ。3キロぐらいだから、30~40分で十分歩ける。

 

ある夕方、二人で学習院女子部の前からトコトコト話しながら歩いて、新宿に着いた。

伊勢丹の手前の暗がりで、僕は見つけた。千円札だ。高価な落し物だった、僕たちにとって。その頃は、「漱石」の図柄の千円札だったと思う。拾った。僕たちは有頂天だった。思わぬ幸運だったのだから…。こまかくは覚えていないけれど、その晩二人で飲んだり、食ったりしてみんな使ってしまった。でもとても幸せな夜だった。

 

でも、後遺症が出た。

 

申し訳ないけど、交番を後ろめたく思うなんてことではない。その後新宿を歩いていると、何だかいつの間にか目線がどうも前方、やや下向きになる癖がついている自分を発見した。

 

気がつくと、そんなふうに歩いている。やめようと思うとやめられるが、また自然とそんな風になっていた。そのかいあって、その後百円玉を幾つか見つけた記憶がある。でも、神様はそんなに甘くはなかった。思わぬ豪遊ができたのはそれっきりだった…。

 

もうひとつ発見があった。新宿の街をそうやって歩いていると、同じようなことをしている人がイッパイいるのに気づいた。しかも、どういうわけか、お互いによく出っくわすのだ。お互いに、知らん振りをしながらやり過ごすのだが、また何処かの街角で出会う。もう、嫌になってやめちまった。

 

でも、本当に神様は甘くなくてよかったと思う。あのまま飯が食えていたら、人生はかなり別のものになっていたかも…。アルバイトを本気で探し始めたのは、その頃だった。

1章 新宿界隈( 8 / 14 )

フジテレビの夜バイト

バイトは本当にいっぱいやった。単純労働から、昼間のバイト、夜のバイト、知的なものまで。

昼間のバイトは、あまり金にならない。しかも苦労が多い。たとえば、デパートの配送。夏の「お中元」の配達をやったことがある。場所が悪かった。上野・不忍池の近くのデポから、実用型チャリで足立方面への配達だった。高校時代、丘の上のうちから下の町まで5kmくらい通学したから、チャリはヘッチャラと思っていた。

 

日光街道をどんどん進み、隅田川を千住大橋で越える。車だと、こんな土手、なんてことないのだけれどチャリは大変。緩やかな橋までの上りがつらい。さらに、荒川を越えて千住新橋でも渡ることになったら、また緩やかな長い土手に上る道が続く。足立区の梅島あたりまで、配達に行った。ほんとにこの上りは辛かった。

 

距離は片道7~8kmで、普通に走るにはホントはたいしたことはないのだが、何しろ重い「お中元」を積んでる。ヘッチャラではなかった。今では信じられないけれど、ビールだって大瓶2ダースなんてのも配達するんだ。しかも、チャリをひっくり返して、ビール瓶でも壊すとバイト料からいくらかの金が差し引かれた。こんなの、長くやってられないと、一週間でやめてしまった。効率の悪いバイトだった。

 

夜のバイトは効率が良かった。怪しげではあるが、金になった。深夜の、観光バスの清掃と車体洗いだ。一台で、けっこう貰った。二台をこなすと、幸せになったものだ。

 

でも、もっと効率が良かったのは、その頃、市ヶ谷河田町で新しく開局したフジテレビのバイトだった。なぜ深夜1時頃から始めるのか、最初は分からなかったがだんだん分かってきた。仕事は、台本つくり。

 

もちろん内容は僕たちが作るのではなく、タイプとか手書きの台本を物理的に印刷機にかけて、製本して、朝一番に何種類かの台本を、何十部ずつか準備する仕事。なぜ深夜かというと、台本を書く人が書き上げて局に渡すのが切羽詰っていて、朝の出演者に渡す台本を作り上げるのが、毎日真夜中の慣例(?)になっていたのだ。そのためのアルバイト。

 

深夜だから、やる奴も少なくて、しかも無断欠勤・遅刻なんてことのないような奴を、局は選んでいた。早稲田から近くて、割のいい「夜バイト」だった。けっこう長続きした。

 

フジテレビさんは、もしかして今も同じようなことを、お台場の局舎の片隅でやってるんではないかな(?)と思ったりします…。

 

その後、またフジテレビとは、出っくわす事になる。それはいずれまた…。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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