先日、テレビのニュースを見ていたら、懐かしいビルが偶然映った。コクドの事件で、カメラが一瞬捕らえたのだ。
それは、豪華マンションとして40年も前から有名だったコープ・オリンピアだ。原宿駅の前、表参道に面してその頃はピカピカのビルだった。そんなところにはどんな奴が住んでいるんだろうと思ったものだ。
今も、深いけやき並木の中に元の黒い色調のままで立っている。その頃のことが、バッとフラッシュ・バックしてきた。人間って、いろんな事忘れているけれど、なんかのきっかけで急に思い出す。完成直後のこのマンションに何回か、人を訪ねたことがある。若いアメリカ人で、大手町にあったニューヨークの銀行の日本支店で働いていた。その人に、僕はどういう経緯だったか忘れてしまったが、日本語を教えていた。週に1~2回だったのだろうか。
すごく割のいいバイトだった。普通は、大手町のオフイスに、夕方出向いて教えていた。その頃、英語で書いた日本語の教科書は数少なくて、苦労して丸善で探した。僕も楽しかった。何しろ、自分自身の英語も磨けるわけだ、金を貰いながら。でも、ほんとに日本語を説明するのには、手こずった。文法が、例外だらけで、その例外を説明していると結果として、自分でも何だか分からなくなってくる。Why? って何回も聞かれたものだ。
それと、日本語には同じ意味でも、ニュアンスの違う表現がイッパイある。どう違うのかを説明するったて、限界にすぐぶち当たる。「なってこった!」と自分で悲しくなる。英語は、かなり単純だなって思ったことがある。でもとにかく、このバイトは長く続いた。彼がニューヨークに帰るまで続いた。
コープ・オリンピアの夏、屋上のようなところで、ホーム・パーティによばれたことを思い出す。アメリカ女性の着た原色の洋服が、目の前をちらついて飛んでいく。彼がシェイカーを振って作ってくれた、カクテルも色鮮やかによみがえる。フッカフカのじゅうたんの彼の部屋も、ぼくの生活レベルとの大きな差にびっくりしたものだ。
やっぱ、海の外を見てやろうと思った。
夜、新宿で飲んでいて、ふっと「どこかに行きたいなぁ」とNさんがいった。新宿発の夜行列車と言えば中央線しかない。そのまま電車に乗ることになった。
最初、大月で降りてしまったが何もない。しょうがないからゴトゴト、また鈍行列車にのって朝4時ごろ茅野についた。こんなところだと、勢いで降りてしまった。八ヶ岳を知ってはいたが、土地勘はまったくない。
バスが動き出すまで二人で待合室で待っていた。5月くらいだから、早朝は冷え込んでいた。そんな時間が、Nさんにとっての心に鬱積したものを吐き出すときなった。例のトラウマの原因となった問題の人への怒りとか、振り返っての自分自身への悔しさだとか、ポロポロなみだを流しながら、ときどきしゃくりあげながら話した。ぼくは、手を握って、だまって聞いてあげるしかなかった。
悔しさが、僕にまで伝染してきた。まったく知らない人だけど、急にその人が許せなくなった。なんだか、フツフツと煮えたぎったものが湧き上がってくるのだ。「絶対許せない!」って、叫んでみてもどうにもならない。
「これからは、Nさんをぼくが絶対に守るのだ」と、いつか心で叫んでいた。旅の支度はしてないから、何にも持っていない二人。でもどういうわけか、みずみずしいレモンを一個だけ持っていた。それだけが、明るさだった。
8時ごろにはバスが動いた。とにかく山のほうに向かって上っていくことにした。ゆっくりゆっくりバスは上っていった。目的地が決まっているわけではないから、どこで降りてもかまわない。
茅野っていうくらいだから、見渡すかぎり茅の野原がズーッと続いている。そんな中に、小さな川が小さな谷を作っている。谷川の冷たい水で顔を洗った。Nさんも泣きはらした目蓋をぬらして、顔を洗った。その朝はじめて、Nさんにほほえみが戻ってきた。
ある種の自己浄化が終わったのを感じた。とてもきれいだった。
バスはそのあと、峠に作られた白樺湖までぼくたちを運んだ。今の白樺湖のような喧騒とは無縁な、ひなびた素朴なため池だった。左側の車山に続く丘に登った。浅間山がもう見えていた。その峠を越えて、一日に何本かのバスが佐久平を下って、小諸まで続いていると聞いた。
でもぼくたちは、その日の夕方、新宿の喧騒に帰ってきていた。
P.S.
この茅野行きを思い出すと、かならず中島みゆきの「寒水魚」のなかの「時刻表」が頭の中で回りだす。
「今夜中に、行ってこれる海はどこだろう。そっと時刻表を見上げる」てくだりだ。
新宿で小田急・江ノ島線の時刻表でも見てるのだろうか…。