大学時代を思ってみれば…

4章 モラトリアムは終わって( 20 / 20 )

「富士の見える屋上での別れ」、その後

 

「学生時代」のエッセイを終わるに当たって、前に書いた「富士の見える屋上での別れ」のその後について、やっぱりちょっと書いておくのが本当だろうと思う。

 

Nさんにはその後、何十年もたってから、一度だけ会ったことがある。Nさんのその後の消息については、実は不思議なつながりで状況は流れてきていた。Nさんと一緒に訪ねた病気だった僕の姉が、その後元気になって銀座の画廊で働くことになったことから、それは始まった。

 

NさんはJ美大を卒業しても、画家を目指して努力を重ねていた。もう親父の世界とは別の会派に入っていて、いろいろな先生についていたようだ。

 

姉のいた画廊に、偶然かどうか知らないがNさんが現れて、その後時々姉と話すようになったようだ。

 

驚いたことに、僕との突然の別れの後、隣の部屋にいた男の人と付き合い始めたそうだ、僕とのことも知った上で。彼は仕事についていて、作家とはあまりにも関係のない感じの普通の人だったとぼんやりと覚えている。僕とのことに整理がつくまで、姉は何度も、何時間も、Nさんと時間を共にしたようだ。

 

姉の話によると、絵を描くことがNさんを救っていたようだ。骨に張り付いた薄皮のような僕との思い出、心情をすこしずつ鋭利なナイフで自分を傷つけながらも剥ぎ取っていった感じだった。

 

一方、僕のほうもNさんのことは決して忘れ去ることはできず、折に触れては彼女の絵を見に行ったりしたものだ。彼女のトラウマの結果、男と女の関係は結局作れなかったが、やはり二人はしっくりしていたに違いない。僕は未練がましく、情報を入手し続けていた。

 

僕が結婚してヨーロッパに旅立った後、Nさんは東大のフランス文学者と結婚して、パリに数年滞在したようだ。

 

銀座の資生堂パーラーの画廊で、Nさんのグループがグループ展をやると聞いて、はじめてNさんに会うために出かけた。

 

銀座の広い歩道の上に、特徴のある小さな顔が近づいてきたとき、「ああ、Nさんだ」とすぐ判った。何を話せばいいのかも分からなかった。パーラーで一緒にお茶を飲んだ。それが、Nさんの姿を見た何十年も前の最後のときだ。

 

その後、また何十年がたっている。毎年、都美術館でやるその会派の展覧会はできるだけ見るようにしている。少しずつ、画風が変わってきているのが分かる。会場で出会うことは無い。きっと、くたばるまで、僕はこんなことをし続けていくのではないかと思う。

最終章( 1 / 1 )

枯れた紫陽花

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枯れた紫陽花          

 

『紹介』:

これは1966年、大学のクラブの文集に書いたものですが、失くしていました。先輩のコレクションから最近やっと見つけました。やはり、これは残しておかなくてはとwordに起こしました。「学生時代を思って…」の最終章として、この本の総括、もしくは流れている底流として残したいとお思います。Nさんこと、奈苗さんの、僕の心に残る残照です。

 

 

 

記憶というもの、思い出というものは、断片的なものであるようだ。思い出たちは、歩んできた日々の中に、どこあるということもなく、ちらばっているものであるようだ。心は全てを記憶しているかのようではあるが、しかし、その記憶は一本の糸につながるものでは決してない。

 

6月にはめずらしい台風が近づいてきた今日、歩んだ北鎌倉から、由比ヶ浜までの道にも、私にとっての古いそして懐かしい思い出達が待っていた。北鎌倉の駅をぽいと左側におりると、円覚寺の森が見える。いつも、この時期のこのあたりは、紫陽花と葵の赤い色が目にとびこんでくる。

 

鎌倉の寺々にも、永遠の時間は流れていないようだ。円覚寺も、きてみると拝観料をとるようになっていた。山門もすりへってしまった、それに続く石段も変わりはないのだけれど、人の心をしばる垣根や、立ち入り禁止のふだが心を重くさびしくする。

 

奈苗ときたときの思い出達は、洞穴の暗やみに立つ石仏の中に、金木犀の木に私の心をひきつけるけれども、その物達は、私の心のながれとは別の時の流れの中に存在していつづけるのだった。

 

この北鎌倉の里は、決して奈苗とのみの思い出の場ではないのだけれど、やはり、心に重く存在し続けるものが、小さなきっかけので私の心に蘇ってくるのだ。去年は歩かなかったこの道だけれど、一昨年の、その前の、そして幾年も前の思い出が、私の歩みの一歩ごとによみがえってくるのだ。円覚寺の前の池から、浄智寺への道は日にてらされた線路のそばを、小川の中の緑の芹のならびをみながら歩む道である。

 

奈苗のぺったんこの靴に、軽いほこりがかすめた日、そして今日は多くの人達の足下に,同じ軽いほこりがまいあがっている。腕にさげた籐のかごに、白いあわい花もようのハンカチがかけてあったあの日の奈苗は、明るく笑っていた。サングラスの奥の目は、私へ注意深い視線を、なにげなくなげかけてくれていたのに。

 

一人、線路を渡って浄智寺への道に入る。「唐寺」と奈苗の呼んだ名が、あざやかな葵の花とともにうかんでくる。石橋から、足下の泉をみおろすとき、あの日の濃い緑の藻は、失われ、浄かった水の面はガムの包みの紙をたゆたわせている。時間が流れ去っていったのだ。あれほど、幸せであった時間が僕達の間にあったこともあるのに。

 

奈苗は何を考えていたのだろうか。秋の深い日に、小雨の中に、奈苗はこの山門の小さな宿りに、木立の中のバラついた雨のしたたりをきいていたのだ。そして僕も。

 

あの時に、通じた裏へのくぐり戸は今日は堅く閉ざされて、ハイキングのグループの笑い声が響いて、私の歩みをのろくする。

 

思い出は、決して立ちかえらないものだろうかと考える。あの緊張した心の交流を、かすかな目まいが、その崩壊をもたらしてしまった。軽い心のあまえと、たゆたいが、この北鎌倉のこの道を、私にとってブルーな思い出の場所にしてしまったのだ。あかるすぎる庭をすぎて、いつも左足が次の段をふむようになっているこの石段を一人下りる。すれちがう、二人づれの目の中に、あまりにも明るい光を見出して、目をふせた。

 

光は、この梅雨の空に、につかわしくなく強く照り返している。左手に小川の流れをみて、ぞろぞろとつづく人の流の中を、明月院への小さな道をたどる。

 

花の中で、一番すきな花は、やはり紫陽花。心がわりの花と人はいう。うすい、かすかな赤みの中から、青みがだんだんましてきていつか、かがやくコバルト色になるころ、その花の命は果てる。

 

人ごみの中に、花たちは、つかれた顔をあげて青く、青く咲いている。もう今年も、彼らにとっては終わりなのだ。いつまでもつづくこの人の流れも、とだえてしまった真夏をすぎて秋にかかるころ、かさかさした枯あじさいの時がくるのだ。花は枯れて、あの梅雨時の水々しさを失って、とおる風に、かさかさと鳴る枯れた、深みのあるあの茶色の群にかわるのだ。秋の風が彼らをさやがせて通る。

 

あじさい寺は、二つの思い出があるのだ。奈苗が、絵のモチーフにするために、あの枯紫陽花を僕と一緒にもらいに来たあの深い秋と、そして水々しい花のこの頃と。深い秋に、ちょうど梅雨の雨しずくを宿したあじさいの花のごとくに、あの枯れた紫陽花を腕にして、雨粒のような涙をその目に光らせた奈苗。僕には、奈苗の心の苦しみが、胸をしめつける重い心が、さほど強くはひびいてこなかったのだ。

 

心がわりは、あじさいの花言葉だけれど、私の心は、自分のまわりをつつむしあわせの空気を、気づかず、他の遠くに目を転じていたころだった。愛は、真剣な見つめ合いなのだ。紫陽花のうすい青に目を近づけ、その小さな花弁にうく葉脈をみつめるごとく、みつめ合わなければならない。宿った水玉も、みのがすことなく、とおる風にゆれうごく、その動きに合わせ、心を見つめなければならない。

 

その真剣な凝視にあきて、目を遠くに転じる時、はりつめた愛の緊張は力なくしおれていく。奈苗は、遠く転じられた私の目をみつづけていたのだ。不安と、希望と、それにともなう苦悩が、不幸が、やせっぽちの奈苗の心と体をおそって、奈苗の目のなみだの粒が、いくつか宿っていたのだ。

 

交わらぬみつめ合いの中に、みつづけた奈苗はつかれていた。紫陽花は、その青みの梅雨の頃をすぎて、なえて、しおれて、いつか、あの茶色な枯紫陽花になっていくのだ。滑りやすくなった石段を、かえりみながら下っていく時、奈苗の指が、私の腕にあった。

 

あつい日ざしの時間を歩いて、建長寺をすぎる。円応寺の小さな石段は、扉を閉ざした閻魔堂につうじる。かすかな線香の香がながれて、いたずらっぽい目つきを思い出させる。安産の仏は、その時の僕たちの心には、近くひびかなかったけれど、そのいたずらっぽい目の中に、奈苗の遠い先の明るい希望がひそんでいたのかもしれない。山門のところの風は心地よくつめたい。

 

永久に幸福であることはできない。しあわせは、一瞬一瞬に飛び交う短い時間の中に存在するのだ。ただその瞬時のしあわせの中に、そのしあわせの永続性を願う心がある。

 

今日につづく、昨夜の二人の秘密が、私の心に、たまらなく奈苗をいとおしく思わせた。そのいとおしさのあまり、奈苗の腕をとり、二人は池に広がる小雨の水面を見つめていた。胸にみちあふれてくる熱いものが、心を圧倒し、唇をかみしめさせた。

 

手を取り合っていたそんな思い出が、あつい日の光の中に、近代美術館のテラスにすわる今日の私の心に沸きあがってくる。今の私の目は、かがやいてはいない。光をうしなったつかれ切った目だ。けだるく、足下からつかれがはいあがってくる。

 

鳥居屋の風鈴は、浜へ歩む私の耳におとずれて、夏のくることをおしえてくれる。浜、海、台風の近づく浜は、白い大波が、いくつもいくつもおしよせて、唇に海の香りをおくってくる。

 

そう、奈苗は枯れた紫陽花のたばをもって、僕の前を、海に向かってどこまでも歩んでいくかのように歩いていった。

 

秋の海は、人影もなく、浜には、波と、奈苗との無言の対話がながれた。奈苗のふりむいた顔は、自信なくほほえんでいたけれど、そのほほえみは、私のたった一言で、たとえ、それがどんな言葉であろうと、失われ、真剣な、もっと必死な凝視にかわるだろうと思われる、どこかひきつれた不確かなほほえみだった。その私の言葉から、私の心を知ろうとする必死な思考の深みへ、自信のなさの混乱の思いの中へ、身をおこうとする奈苗だったのだ。みつめつづけたそれらの日々が、一番恐れている二人の現実の姿を知るある日に至るという不幸な予見を感じつつ、奈苗は、そうでないことへの祈りの中に、私の目と、言葉を待っていたのにちがいないと思うのだ。

 

みつめることを怠った私の心は、かなしみの中に入り込み苦悩に対している奈苗の後姿を、透視することもできず、ただ、奈苗の後姿と、その先にうちよせる波を、夕陽を、ばくぜんと見ていたのだった。

 

遠くを見ていた目を、奈苗に戻したとき、すでに、奈苗の心は、枯紫陽花の姿で、私のもとを離れ、迷いの、絶望の世界を、後姿をみせて、ぽつぽつと歩みつづけていったのだ。

 

今日も、鎌倉の浜に、台風のまえぶれ大波が数限りなくおしよせ、私の心の中に、過ぎ去ったとりかえすことのできない永遠の時間を思い出させている。

 

<この写真は、flikrからdichohechoさんの“枯紫陽花”をお借りしました>

 

Creative Commons ライセンスの“BY”です。

リンク先は、

http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja

あとがき( 1 / 1 )

あとがき

 僕自身のモラトリアムについてのエッセイは、これで一応完結。

 

 「ウイキペディア」の定義によれば、モラトリアムとは、「学生など社会に出て一人前の人間となる事を猶予されている状態を指す。心理学者エリク・H・エリクソンによって心理学に導入された概念で、本来は、大人になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間を指す。日本では、小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(1978年)…」とある。

 

当初書きたいトピックスとして、リストアップしたら約50個だった。これで一年くらい楽しめると考えていた。しかし結果は、はやる下手な筆に勝てず、10ヶ月で書きたいことを書いてしまった。創作ではないから、これから無数に出てくるわけもない。チョッコリ寂しいけれど、気持ちとしては一区切りついた。

 

自分のために、家族のために、友達のために、その時代を健やかに過ごしていた思い出を持つ人たちに、そしてその頃の新宿と新宿風月堂と、その雰囲気を愛していらした方々のために書き始めたネタは、これで一応終了した。

 

だが、一方気持ちはまだまだ続いている。大学卒業後、時間的なブランクもあったが、相変わらず新宿には結構通っていたし、今も時々出かける。

 

今後も、記憶からこぼれ出してくることを、時系列的にも場所的にも無関係に、思いつくまま書いてみたい。その後の新宿に関する大切な時間、思い出もイッパイありそうだ。

 

 ではまたの日に!           

著者プロフィール( 1 / 1 )

著者プロフィール



著者プロフィール

 

徳山てつんど(德山徹人)

          

1942年1月1日 東京、谷中生まれ

1961年 大阪市立大学中退

1966年 法政大学卒業

1966年 日本IBM入社

 

  システム・アナリスト、ソフト開発担当、コンサルタントとして働く

  この間、ミラノ駐在員、アメリカとの共同プロジェクト参画を経験

      海外でのマネジメント研修、コンサルタント研修を受ける

 

1996年 日本IBM退社

 

1997年 パーソナリティ・カウンセリングおよびコンサルティングの

   ペルコム・スタディオ(Per/Com Studio)開設

 

EMailtetsundojp@yahoo.co.jp

HP:  http://tetsundojp.wix.com/world-of-tetsundo

 

著書

 

Book1:「父さんは、足の短いミラネーゼ」 http://forkn.jp/book/1912/

Book2:「大学時代を思ってみれば…」    http://forkn.jp/book/1983/

Book3:「親父から僕へ、そして君たちへ」 http://forkn.jp/book/2064/

Book4:「女性たちの足跡」        http://forkn.jp/book/2586/

Book5:M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その1」                            http://forkn.jp/book/4291

Book6:M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その2」                                                        http://forkn.jp/book/4496

 

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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