さよなら命ーくつのひもが結べないー

9

健一が出だしの音をとれないでつまると、恵子は笑って言った。

「藤ケンって音痴やね。」
「ほっといてくれ。これでも音楽は中学3年間ずっと5やったんやで。」
「ふ~ん、それやったら音楽の先生の耳がおかしかったんやわ、きっと。」

 健一は笑った。そして恵子の一言、一言を新鮮な感覚でとらえ、
心を震わしていた。

  2、3曲歌う頃には、健一も調子を出してきたが、それでも時々歌詞が見えなくて
「ふふ~ん」とそこだけごまかして歌うと、恵子は笑いながら、歌詞が健一にみえやす
くなるように本を傾けた。
そのしぐさがごく自然なのが、健一にはうれしかった。
そして、こうして歌う事によって心が通い合うのを
お互いに感じていた。

 5、6曲終わった頃には、炎が小さくなり、歌詞がいっそう
見えにくくなった。
健一は、直接炎の明かりが冊子にあたるように、炎に背をむけた。
恵子も同じように向きを変え、ちょうど健一と本との間に恵子が入った。
健一は目の前の恵子の肩に本を持った手のひじを降ろした。


「藤ケン、見える?」
「見える。」

 健一は180㎝の長身で、160㎝前後の恵子が前に立っても楽に歌詞は見えた。
健一は、自然にこんな状態をとる恵子に驚いたが、
恵子の肩にひじを降ろしている自分にも驚いていた。
健一は恵子の髪に顔を近づけてみた。

10

石鹸のようないい香りにめまいを感じ、異性を感じた。
すると、恵子の体が後ろに倒れていき、健一にもたれかかった。
二人はもう歌を歌ってはいなかった。

  9時過ぎになって、ファイヤーストームは終わり、
各クラスの担任の先生の指示を受け、解散していった。

「送るわ。」
 健一が恵子に言った。
「遅いから悪い。」
「遅いから送るんやないか。」
「ほんとにええの、ありがとう。」

 恵子の家は歩いて十五分くらいのところにあった。
二人は黙って歩いた。
お互いにさっきの自分のとった行動を振り返り、その大胆さを今になって少し
恥ずかしく思う反面、今まで遠い存在であった相手を身近に感じて、
その喜びにひたっていた。

  人混みからはずれ、路地に入ったころ、健一が話しかけた。
「明日は代休やな、映画に行けへんか。」
「映画?」
 健一は自分の強引さに驚いたが、それ以上に恵子も驚いて、どう返事をしたら
いいのかと戸惑っていた。
「どうしたらええのやろ」
「どうするって、簡単やないか。行きたくないなら行かない、行きたいのなら行くって
 言えばええのや」
「だって・・・」恵子はしばらく考えた。
「ええわ、行く。」
「よし、じゃ明日十時に梅田の歩道橋な。」

11

「うん」
 二人はもう恵子の家まで来ていた。
 二人は「じゃ明日」と言って別れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

12

 3、赤ちゃん戦争

 次の日、健一は十時五分過ぎに歩道橋についた。
そこにはもう恵子がいた。

「ごめん待った?」
「うん、十五分も待ったんやから。きっと遅れてくると思ってた。」
「どうして?」
「どうしてって、当たり前でしょ。学校だって遅刻の常習犯なくせに。」
「常習犯はひどいな、そんなに遅刻してへんやろ。」
「それは藤ケンの物差しでしょ。普通の人の物差しで測れば、常習犯よ。」

 健一は月に一、二度遅刻することがあった。
それは、通学にバスを使っているため、雨の日など道路が混雑している日に
限られるのだが、健一はそのためにベッドの中の5分をさいてまで早く起きて
行こうとは思わなかった。

「ごめんって謝ってるんやから許してくれよ。」
「そうね、じゃ学校も今度から遅刻しないって約束してくれたら許してあげる。」
「わかった、約束する。」

「じゃ行こか。」
 健一はそう言うと、恵子の肩に右手をまわして歩き出した。
すると恵子は、今までの勝ち気がうそのようにおとなしくなってしまった。

「私、こうして男の子と歩くの初めて。」

 健一は少し顔を赤らめている恵子を見て、彼女の一面を見たような気がした。
昨日の夜も、暗くて分からなかったが、こんな風に顔を赤くしていたのかもしれない

富士 健
作家:富士 健
さよなら命ーくつのひもが結べないー
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