「いや、もう少し一緒にいたい。」
いつになく恵子が甘えた声を出して言った。
二人は内堀を見下ろす藤棚の下のベンチに腰をかけた。
二人はもうあまりしゃべらなかった。
健一は恵子にキスした。
唇に触れるだけのキスだった。
恵子は泣いてはいなかった。
「今度のテストどうやった?」と恵子が切り出した。
健一はどう答えようかとためらった。
今までの成績はためらわずに言えたのに今回はそうはいかなかった。
「あんまり良くなかった。」
「そう、でも藤ケンの良くないはどうかわからへんもん。」
健一は恵子の誤解をときたかったがそれができないでいた。
二人はそれ以上何もしゃべらなかった。
健一は腕を組んだ時にあたる恵子の胸の感触を呼び起こしていた。
そしてそれを自分の手で確かめたくなった。
健一はもう一度キスした。
恵子は目を閉じていたが、健一は恵子を見つめていた。
そして右手で恵子の左胸をそっと触れた。
まるでゴムまりのようにはじけそうな感触に健一はときめきをおぼえたが、
恵子は反射的に健一の右手を押さえた。
健一はどうしたらよいかわからず戸惑っていた。
恵子は健一とキスする場面を頭に描きはしたが、
それ以上のことは考えたことがなかったのだ。
健一は右手を離した。
そして恵子の純粋な気持ちと、今の自分の気持ちとを
比べて自己嫌悪におちいった。
それを察した恵子は
「私の胸小さいでしょ。」と言った。
健一は何も言わなかった。
「帰ろうか。」
健一は恵子の前から早く去りたかった。
健一は恵子の手もつなげないでいた。
恵子も今日はこのまま別れたほうがいいような気がしたので黙って歩いた。
別れ際に恵子は「今日はありがとう。」とブーツの入った紙袋を上げて言った。
健一は恵子の心配りに驚いた。
普通ならそんな恵子を手放しで喜ぶのに、今はそんな恵子と自分を比較して
自分の醜さを痛感していた。
健一は何も言えなかった。
ただ一言「バイバイ。」と言って、来た道を足早に戻っていった。
健一は家に戻ると自分の部屋に入り、ベッドに横たわってどうしてこんな事に
なったのか考えていた。
藤棚のベンチに座るまでは今までと同じように二人の気持ちは一つになっていた。
恵子の勝ち気さとやさしさとかわいらしさに健一は魅了されていた。
それが、恵子の胸に触れそれを恵子に止められてから、健一の心は坂道を転げ落ちる
ように深く深く沈み込んでいった。
健一の気持ちが沈みこむのは恵子がテストの結果を聞いたことから始まっていた。
健一は成績のことで悩んでいた。初めて深刻に悩んでいた。
それに対して自分なりに結論を出し、気持ちが整理できたものと思っていた。
でも健一の心は人にそこを探られるとたちまちに
平衡を失うほどに鋭敏になっていたのだ。
そして初めて健一のそんな心に触れたのが恵子の
「今度のテストどうやった。」というただ一言だった。
恵子はこの一ヶ月程でどれだけ健一が変わったかに気づいていなかった。
健一の体のことはいつでも心配していたが、精密検査の結果を聞いてその心配はもう
なくなっていたのだ。
「何か悩んでるんじゃないの。前会ったとき少しおかしかったけど、体のこと?
また体が悪くなったの?」
「体はもういいんだ。心配しないでくれ。」
「じゃ何よ。ちっとも分からないじゃないの。そんなの嫌よ、このまま別れるなんて。」 恵子の心の叫びが健一の耳に残響していた。
恵子が涙をこらえている姿が目に浮かんできた。
健一の受話器を持つ手が震え、何も言えないまま受話器を降ろした。
恵子は電話が切れた後、今のことが夢であることを確かめようと再びダイヤルを
まわした。
何度も何度もコールしたが健一は出てこなかった。
十分程たつと恵子は冷静さをとりもどし受話器を降ろし、部屋に戻った。
きっと健一は私を嫌いになったのだと恵子は思った。
嫌いになったと言わなかったのは健一のやさしさからだろう。けれどもいくらショック
を受けようとも恵子ははっきり言って欲しかった。
こんなあやふやな形で別れようとする健一を初めて憎んだ。
しかし、目をつぶると健一と楽しく過ごした場面があざやかに浮かんでくる。
健一との初めてのキス。
健一はとてもやさしかった。
ファーストキスの夢を健一は十分に満たしてくれた。
あの感触、あんなにやさしかった健一。
それがどうして急に変わってしまったの?
恵子の目に涙が浮かんできた。しかし、泣けなかった。
最後にデートした日、あんなに楽しかったのに、胸を触られて拒絶してから、
健一は急に変わってしまった。何もしゃべらなくなってしまった。
私が拒絶した気持ちを健一がわからないはずがない。