さよなら命ーくつのひもが結べないー

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「何か悩んでるんじゃないの。前会ったとき少しおかしかったけど、体のこと?
 また体が悪くなったの?」
「体はもういいんだ。心配しないでくれ。」
「じゃ何よ。ちっとも分からないじゃないの。そんなの嫌よ、このまま別れるなんて。」 恵子の心の叫びが健一の耳に残響していた。
恵子が涙をこらえている姿が目に浮かんできた。
健一の受話器を持つ手が震え、何も言えないまま受話器を降ろした。

 恵子は電話が切れた後、今のことが夢であることを確かめようと再びダイヤルを
まわした。
何度も何度もコールしたが健一は出てこなかった。
十分程たつと恵子は冷静さをとりもどし受話器を降ろし、部屋に戻った。
  
  きっと健一は私を嫌いになったのだと恵子は思った。
嫌いになったと言わなかったのは健一のやさしさからだろう。けれどもいくらショック
を受けようとも恵子ははっきり言って欲しかった。
こんなあやふやな形で別れようとする健一を初めて憎んだ。
しかし、目をつぶると健一と楽しく過ごした場面があざやかに浮かんでくる。

 

 健一との初めてのキス。
健一はとてもやさしかった。
ファーストキスの夢を健一は十分に満たしてくれた。
あの感触、あんなにやさしかった健一。
それがどうして急に変わってしまったの?
恵子の目に涙が浮かんできた。しかし、泣けなかった。
最後にデートした日、あんなに楽しかったのに、胸を触られて拒絶してから、
健一は急に変わってしまった。何もしゃべらなくなってしまった。
私が拒絶した気持ちを健一がわからないはずがない。

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きっと健一は自分を責めているのだわ。そうに違いない。
私はあの日以来今度触られても拒ままいと思っているのに。

 健一はこんな事をいつまでもくよくよ悩む人じゃないと恵子は思った。
あんなに大胆で行動力のある人だからこそ、クラスのみんなが見ている前で踊ろうと
誘ったり、初めてのデートの日から肩に手をまわしたり、それから一週間程でキスしたりできたのだ。
 そう言えばあの大胆さとやさしさとが少し不つりあいのような気がする。
どっちがあの人の本当の姿なのかしら? いやどちらかが偽りじゃなく両方ともが
本当の姿なのだ。私はそういうあの人が好きなんだもの。

 理由は何なの。やっぱり私が嫌いになったからなの。私のどこが嫌いになったの。
恵子は必死で探そうとした。けれども見当がつかなかった。
健一と会っている時、いや恵子はいつでも自分を飾ろうと振る舞ったことはなかった。
あなたに好かれたいけど、決してあなたの前でかわいくつくろうとした事はなかったわ。そんなことをすればきっとあなたは私を嫌いになったに違いない。私は自分の本当の姿
をあなたに見せてきたわ。本当の姿である自分が嫌いになったのなら私は何も言わない。そうなのねえあなた教えて。
恵子は一晩中眠れずにいた。

 その日以来、来る日も来る日も恵子は健一との楽しかった日々を思い出していた。
そして恵子はあの茶色のブーツをくつ箱の隅の方に入れてしまった。
健一と一緒に買ったあのブーツが今は健一を思い出せる唯一のものとなってしまった。
恵子はブーツを見るたびに一緒に腕を組んで歩いた事を思い出した。
それに耐えきれず目に見えないようにしたのだった。

 

 

 

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7、オンディーヌ その1

 高2になると、健一と恵子は別々のクラスになった。
教室もまったく離れてしまいほとんど顔をあわすこともなくなった。
健一は体育の授業を受けるようにした。
タンパクが降りてなかった事は健一に自信をつけさせた。
そしてもう一度初めからやり直そうと必死になって勉強した。
一学期が終わると健一の席次は112番までばん回していた。
健一は自信を持った。やればできるんだと思った。

 夏休みが始まるとすぐ1年の時同じクラスだった小林良子から電話があった。
「藤ケン、久しぶり。」
「ああ良子か、どうしたんや。」
「元気?」
「うん元気やで、そっちは?」
「私は元気よ。ところで相談があるんやけど。」
「なんや相談って?」
「私、演劇部に入ってるの知ってるでしょ。」
「そうやったかな。」
「何よ知らなかったの。1年の時演劇部に入らないかって誘ったことあったでしょ。」
「そう言えばそんな事あったな。」
「それが今度の文化祭で主役の男子を今捜してるの。3年生はもう手伝ってくれへん
 から私たち2年だけでやるんだけど、女子ばかりで今男の人を捜してるの。
 脇役ならやるっていう人が2,3人いるんやけど主役をやってくれる人がおれへん
 ねん。ねえ藤ケン、やってくれへん。」
「ちょっと待ってくれよ。そう急に言われても困るやないか。」
「主役だったらやるって1年の時言ってたじゃないの。」

 

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  健一は戸惑っていた。
1年の時、確かに良子とそういう会話をしたことがあった。
それはほんのはずみで言った言葉だった。
はずみであろうとあの頃はそんな事が平気で言える程健一の神経は、ず太かった。
しかし今の健一はもうあの頃とは考えもつかぬ程
変わっていたのだ。
文化祭の演劇部の発表となると大きな会場を借りて
全校生徒の前でやるのだ。
そんな事今の自分にできるはずがないと健一は思った。


「とにかく明日学校に来てくれへん。演劇部の部室知ってる?」
「本館の3階の左端にあるやつやろ。」
「そう、じゃそこに明日1時。待ってるから、きっと来てね。じゃバイバイ。」

 健一は中学校時代に学年代表を2度やっていたので人前に出ることには慣れていた。
だから、大きな会場で演技すること自体はあがらないでやれる自信はあった。
しかし、その自信は高一の終わりにくずれてしまったのだ。

今の自分はあの頃の自分ではないのだ。そんな事もう今の自分にはできない。
しかし、なんと言って断ったらいいのだろう。
「主役だったらやるわ。」いかにもあの当時の自分だったら言いそうな言葉だ。
良子は今でも自分をそういう人間だと思っているに違いない。
もし明日断ったら良子はびっくりするだろう。藤ケンのいくじなし。あれはウソだった
のと軽蔑するだろう。いったいどうしたらいいんだ。

 健一は悩んだ。そして結論が出せないまま次の日部室に行ってみた。

 そこには良子の他に女子が5人、男子が1人いた。
 そこは一種異様な雰囲気に包まれていた。

富士 健
作家:富士 健
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