さよなら命ーくつのひもが結べないー

45

  健一は戸惑っていた。
1年の時、確かに良子とそういう会話をしたことがあった。
それはほんのはずみで言った言葉だった。
はずみであろうとあの頃はそんな事が平気で言える程健一の神経は、ず太かった。
しかし今の健一はもうあの頃とは考えもつかぬ程
変わっていたのだ。
文化祭の演劇部の発表となると大きな会場を借りて
全校生徒の前でやるのだ。
そんな事今の自分にできるはずがないと健一は思った。


「とにかく明日学校に来てくれへん。演劇部の部室知ってる?」
「本館の3階の左端にあるやつやろ。」
「そう、じゃそこに明日1時。待ってるから、きっと来てね。じゃバイバイ。」

 健一は中学校時代に学年代表を2度やっていたので人前に出ることには慣れていた。
だから、大きな会場で演技すること自体はあがらないでやれる自信はあった。
しかし、その自信は高一の終わりにくずれてしまったのだ。

今の自分はあの頃の自分ではないのだ。そんな事もう今の自分にはできない。
しかし、なんと言って断ったらいいのだろう。
「主役だったらやるわ。」いかにもあの当時の自分だったら言いそうな言葉だ。
良子は今でも自分をそういう人間だと思っているに違いない。
もし明日断ったら良子はびっくりするだろう。藤ケンのいくじなし。あれはウソだった
のと軽蔑するだろう。いったいどうしたらいいんだ。

 健一は悩んだ。そして結論が出せないまま次の日部室に行ってみた。

 そこには良子の他に女子が5人、男子が1人いた。
 そこは一種異様な雰囲気に包まれていた。

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「藤ケンこれ。」
 良子は健一にきれいに閉じられた印刷物を渡した。それは台本であった。
「私が部長です、よろしく。」
 健一は髪の長い女子をみた。彼女は確かに美しかったがその目はみつめたものを
飲み込んでしまいそうな鋭さがあった。
そして彼女がこの雰囲気をつくっている張本人だと気づいた。
健一は本能的にこの雰囲気にのまれまいと身構えた。
彼女は部員一人一人を紹介した。部員はみんな美しかった。
しかし、健一には彼女たちの目が自分の正体をあばこうとしているかのように思えた。

 みんなの紹介が終わると、
「じゃ、さっそく読み始めようか。」と言って部長は台本を広げた。
「藤君、あなたはハンス。最初からあなたのセリフよ。」
「ちょっと待ってくれ、まだ僕は引き受けたわけじゃないんや。」
「こっちも主役をやってもらうんだから、全然大根じゃ
 困るのよ。だから少しやってみて欲しいの。」
 健一は強制的なのに反発を感じた。
 よしじゃやってやる。
 健一は読み始めた。

「私の名はハンス・フォン・ビッテントウビッテンシュタイン。」
「私はこの馬小屋の番人をしているものです。」

  教室の隅にいた小柄な青木美智代が続けた。
 彼女は老婆の役なのだろう。その口調でそれが分かる。

「久しぶりに狩りに来たのだが、ちょっとここで休ませてくれないか。」
「どうぞ、ここにおかけ下さい。」

 ハンスと老婆の会話がしばらく続いた。

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「もういいわ。」部長が止めた。
「声が小さいのはなんとかなるだろうけれど、イントネーションがめちゃくちゃね。
 大阪弁まるだしじゃないの。言葉の最初にアクセントをおくのよ。
 もう一度初めから。」

 健一は彼女の態度が気にくわなかった。なんて横暴なやつだ。
 よしもう一度やってやる。
 健一は少し腹に力を入れてさっきより大きな声を出すようにつとめた。
 同じ所まで来ると再び部長が止めた。

「大分上手になったわね。まだ少し変な所があるけど、みんなはどう思う?」

 1回のやり直しで健一は大分うまくできた。
部員のみんなもその変わりように感心していたが、まだまだ主役が務まるとは言えない
出来だったので、しんとして返事に困っていた。
すると一番幼く見える今井由美子が口を開いた。

「2,3日練習してもらったらどうかしら、それから判断したら。」
「それでいい?」と部長はみんなに聞いた。
 部員たちもうなずいた。
「そういう事だから、しばらく練習してみる?」
 今度は部長が健一に聞いた。
「僕はかまわない。」
 健一はもう引き下がれないでいた。
 いや引き下がろうなどという気持ちはなかった。

 その日はそれから1時間程台本読みが行われた。
良子は森の妖精オンディーヌ、この劇の本当の主人公である。
部長はハンスの婚約者ヴェルタという配役であった。

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演劇部だけあって部員のみんなはとても上手だった。
自分なんか比べものにならないと健一は思った。
 
 練習が終わって一人だけいた男子に話しかけた。
「君は今日出番がなかったね。」
 いつのまにか標準語になっている自分がおかしかった。
「俺も人手が足りないからって言われて、ちょっと来てみただけや。
 俺は脇役やから後の方でちょっと出てくるだけやねん。」
 そのぶっきらぼうな話し方を聞いて健一はこの男とは馬が合わないなと思った。

 良子と一緒に帰る途中で良子が言った。
「どう藤ケン、やれそう?」
「それはこっちが聞きたいわ。」
「なかなかうまかったよ。大丈夫練習すれば必ずできるわよ。」
「本当か。なんか罠にはまった感じがして嫌やねんけどな。」
「罠なんてひどいわ。」
「ところで部長はえらい、えらそうやな。」
「うん、森村さんはいつもああなのよ。」
「森村何ていうんや。」
「森村裕子。そういえば彼女だけ名前言わなかったわね。」
「森村裕子か・・・」
 健一はその名前を何度も心の中で繰り返していた。

「ところで藤ケン、恵子と別れたんやて。」と良子が言った。
「誰が言ってた。」
「もうみんな知ってるわよ。どうしてなの、あんなにうまくいってたみたいやったのに。」「なんとなし。」
「うん、あまり聞かんとくわ。恵子にも聞いたけどあまりしゃべりたくなさそうだった から。」
「・・・」

富士 健
作家:富士 健
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