さよなら命ーくつのひもが結べないー

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しかし、健一は心の病気に触れられ、毎晩のように悩んでいた時の気持ちに戻って
しまったのだ。
そんな心の背景で、恵子の胸に触れたという自己嫌悪が重なっていた。
健一は今自分が何を悩んでいるのかを恵子に打ち明けようかと考えた。
打ち明ければ恵子はきっとびっくりするだろう。
それはどうしてもできない。
よけい自分がみじめになるだけだと思った。
打ち明けられないのなら、もう恵子と会えない。会っては
ならないんだ。健一はこう考えて眠りについた。
 
  健一は決心したものの恵子に別れを告げずにいた。
 
  そして一週間後再び恵子から電話がかかってきた。
「どうしたの全然連絡くれへんやん。」
「・・・」
 健一はいつ切り出そうかと考えていた。
「明日ひま? 映画に行けへん?」
「もう会いたくない。」
 健一はおもいきって言った。
「なんて言ったの。」
「もう会いたくないんや。」
 突然の健一の言葉に恵子はうろたえていた。
「うそでしょ。どうして、どうしてなの?」
 健一の言葉が恵子の脳の一番敏感な所を突き刺し、胸にまで届いていた。
 恵子は気を失いそうな自分をやっとのことで押さえながら、震える声で続けた。
「前のこと気にしてるのね。私ちっとも怒ってないよ。
 ただあまりにも突然だったから私・・・」
「そんなことじゃないんだ。」
「それじゃ何故なの、理由は何なの、私が嫌いになったの?」
「・・・」

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「何か悩んでるんじゃないの。前会ったとき少しおかしかったけど、体のこと?
 また体が悪くなったの?」
「体はもういいんだ。心配しないでくれ。」
「じゃ何よ。ちっとも分からないじゃないの。そんなの嫌よ、このまま別れるなんて。」 恵子の心の叫びが健一の耳に残響していた。
恵子が涙をこらえている姿が目に浮かんできた。
健一の受話器を持つ手が震え、何も言えないまま受話器を降ろした。

 恵子は電話が切れた後、今のことが夢であることを確かめようと再びダイヤルを
まわした。
何度も何度もコールしたが健一は出てこなかった。
十分程たつと恵子は冷静さをとりもどし受話器を降ろし、部屋に戻った。
  
  きっと健一は私を嫌いになったのだと恵子は思った。
嫌いになったと言わなかったのは健一のやさしさからだろう。けれどもいくらショック
を受けようとも恵子ははっきり言って欲しかった。
こんなあやふやな形で別れようとする健一を初めて憎んだ。
しかし、目をつぶると健一と楽しく過ごした場面があざやかに浮かんでくる。

 

 健一との初めてのキス。
健一はとてもやさしかった。
ファーストキスの夢を健一は十分に満たしてくれた。
あの感触、あんなにやさしかった健一。
それがどうして急に変わってしまったの?
恵子の目に涙が浮かんできた。しかし、泣けなかった。
最後にデートした日、あんなに楽しかったのに、胸を触られて拒絶してから、
健一は急に変わってしまった。何もしゃべらなくなってしまった。
私が拒絶した気持ちを健一がわからないはずがない。

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きっと健一は自分を責めているのだわ。そうに違いない。
私はあの日以来今度触られても拒ままいと思っているのに。

 健一はこんな事をいつまでもくよくよ悩む人じゃないと恵子は思った。
あんなに大胆で行動力のある人だからこそ、クラスのみんなが見ている前で踊ろうと
誘ったり、初めてのデートの日から肩に手をまわしたり、それから一週間程でキスしたりできたのだ。
 そう言えばあの大胆さとやさしさとが少し不つりあいのような気がする。
どっちがあの人の本当の姿なのかしら? いやどちらかが偽りじゃなく両方ともが
本当の姿なのだ。私はそういうあの人が好きなんだもの。

 理由は何なの。やっぱり私が嫌いになったからなの。私のどこが嫌いになったの。
恵子は必死で探そうとした。けれども見当がつかなかった。
健一と会っている時、いや恵子はいつでも自分を飾ろうと振る舞ったことはなかった。
あなたに好かれたいけど、決してあなたの前でかわいくつくろうとした事はなかったわ。そんなことをすればきっとあなたは私を嫌いになったに違いない。私は自分の本当の姿
をあなたに見せてきたわ。本当の姿である自分が嫌いになったのなら私は何も言わない。そうなのねえあなた教えて。
恵子は一晩中眠れずにいた。

 その日以来、来る日も来る日も恵子は健一との楽しかった日々を思い出していた。
そして恵子はあの茶色のブーツをくつ箱の隅の方に入れてしまった。
健一と一緒に買ったあのブーツが今は健一を思い出せる唯一のものとなってしまった。
恵子はブーツを見るたびに一緒に腕を組んで歩いた事を思い出した。
それに耐えきれず目に見えないようにしたのだった。

 

 

 

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7、オンディーヌ その1

 高2になると、健一と恵子は別々のクラスになった。
教室もまったく離れてしまいほとんど顔をあわすこともなくなった。
健一は体育の授業を受けるようにした。
タンパクが降りてなかった事は健一に自信をつけさせた。
そしてもう一度初めからやり直そうと必死になって勉強した。
一学期が終わると健一の席次は112番までばん回していた。
健一は自信を持った。やればできるんだと思った。

 夏休みが始まるとすぐ1年の時同じクラスだった小林良子から電話があった。
「藤ケン、久しぶり。」
「ああ良子か、どうしたんや。」
「元気?」
「うん元気やで、そっちは?」
「私は元気よ。ところで相談があるんやけど。」
「なんや相談って?」
「私、演劇部に入ってるの知ってるでしょ。」
「そうやったかな。」
「何よ知らなかったの。1年の時演劇部に入らないかって誘ったことあったでしょ。」
「そう言えばそんな事あったな。」
「それが今度の文化祭で主役の男子を今捜してるの。3年生はもう手伝ってくれへん
 から私たち2年だけでやるんだけど、女子ばかりで今男の人を捜してるの。
 脇役ならやるっていう人が2,3人いるんやけど主役をやってくれる人がおれへん
 ねん。ねえ藤ケン、やってくれへん。」
「ちょっと待ってくれよ。そう急に言われても困るやないか。」
「主役だったらやるって1年の時言ってたじゃないの。」

 

富士 健
作家:富士 健
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