さよなら命ーくつのひもが結べないー

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きっと健一は自分を責めているのだわ。そうに違いない。
私はあの日以来今度触られても拒ままいと思っているのに。

 健一はこんな事をいつまでもくよくよ悩む人じゃないと恵子は思った。
あんなに大胆で行動力のある人だからこそ、クラスのみんなが見ている前で踊ろうと
誘ったり、初めてのデートの日から肩に手をまわしたり、それから一週間程でキスしたりできたのだ。
 そう言えばあの大胆さとやさしさとが少し不つりあいのような気がする。
どっちがあの人の本当の姿なのかしら? いやどちらかが偽りじゃなく両方ともが
本当の姿なのだ。私はそういうあの人が好きなんだもの。

 理由は何なの。やっぱり私が嫌いになったからなの。私のどこが嫌いになったの。
恵子は必死で探そうとした。けれども見当がつかなかった。
健一と会っている時、いや恵子はいつでも自分を飾ろうと振る舞ったことはなかった。
あなたに好かれたいけど、決してあなたの前でかわいくつくろうとした事はなかったわ。そんなことをすればきっとあなたは私を嫌いになったに違いない。私は自分の本当の姿
をあなたに見せてきたわ。本当の姿である自分が嫌いになったのなら私は何も言わない。そうなのねえあなた教えて。
恵子は一晩中眠れずにいた。

 その日以来、来る日も来る日も恵子は健一との楽しかった日々を思い出していた。
そして恵子はあの茶色のブーツをくつ箱の隅の方に入れてしまった。
健一と一緒に買ったあのブーツが今は健一を思い出せる唯一のものとなってしまった。
恵子はブーツを見るたびに一緒に腕を組んで歩いた事を思い出した。
それに耐えきれず目に見えないようにしたのだった。

 

 

 

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7、オンディーヌ その1

 高2になると、健一と恵子は別々のクラスになった。
教室もまったく離れてしまいほとんど顔をあわすこともなくなった。
健一は体育の授業を受けるようにした。
タンパクが降りてなかった事は健一に自信をつけさせた。
そしてもう一度初めからやり直そうと必死になって勉強した。
一学期が終わると健一の席次は112番までばん回していた。
健一は自信を持った。やればできるんだと思った。

 夏休みが始まるとすぐ1年の時同じクラスだった小林良子から電話があった。
「藤ケン、久しぶり。」
「ああ良子か、どうしたんや。」
「元気?」
「うん元気やで、そっちは?」
「私は元気よ。ところで相談があるんやけど。」
「なんや相談って?」
「私、演劇部に入ってるの知ってるでしょ。」
「そうやったかな。」
「何よ知らなかったの。1年の時演劇部に入らないかって誘ったことあったでしょ。」
「そう言えばそんな事あったな。」
「それが今度の文化祭で主役の男子を今捜してるの。3年生はもう手伝ってくれへん
 から私たち2年だけでやるんだけど、女子ばかりで今男の人を捜してるの。
 脇役ならやるっていう人が2,3人いるんやけど主役をやってくれる人がおれへん
 ねん。ねえ藤ケン、やってくれへん。」
「ちょっと待ってくれよ。そう急に言われても困るやないか。」
「主役だったらやるって1年の時言ってたじゃないの。」

 

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  健一は戸惑っていた。
1年の時、確かに良子とそういう会話をしたことがあった。
それはほんのはずみで言った言葉だった。
はずみであろうとあの頃はそんな事が平気で言える程健一の神経は、ず太かった。
しかし今の健一はもうあの頃とは考えもつかぬ程
変わっていたのだ。
文化祭の演劇部の発表となると大きな会場を借りて
全校生徒の前でやるのだ。
そんな事今の自分にできるはずがないと健一は思った。


「とにかく明日学校に来てくれへん。演劇部の部室知ってる?」
「本館の3階の左端にあるやつやろ。」
「そう、じゃそこに明日1時。待ってるから、きっと来てね。じゃバイバイ。」

 健一は中学校時代に学年代表を2度やっていたので人前に出ることには慣れていた。
だから、大きな会場で演技すること自体はあがらないでやれる自信はあった。
しかし、その自信は高一の終わりにくずれてしまったのだ。

今の自分はあの頃の自分ではないのだ。そんな事もう今の自分にはできない。
しかし、なんと言って断ったらいいのだろう。
「主役だったらやるわ。」いかにもあの当時の自分だったら言いそうな言葉だ。
良子は今でも自分をそういう人間だと思っているに違いない。
もし明日断ったら良子はびっくりするだろう。藤ケンのいくじなし。あれはウソだった
のと軽蔑するだろう。いったいどうしたらいいんだ。

 健一は悩んだ。そして結論が出せないまま次の日部室に行ってみた。

 そこには良子の他に女子が5人、男子が1人いた。
 そこは一種異様な雰囲気に包まれていた。

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「藤ケンこれ。」
 良子は健一にきれいに閉じられた印刷物を渡した。それは台本であった。
「私が部長です、よろしく。」
 健一は髪の長い女子をみた。彼女は確かに美しかったがその目はみつめたものを
飲み込んでしまいそうな鋭さがあった。
そして彼女がこの雰囲気をつくっている張本人だと気づいた。
健一は本能的にこの雰囲気にのまれまいと身構えた。
彼女は部員一人一人を紹介した。部員はみんな美しかった。
しかし、健一には彼女たちの目が自分の正体をあばこうとしているかのように思えた。

 みんなの紹介が終わると、
「じゃ、さっそく読み始めようか。」と言って部長は台本を広げた。
「藤君、あなたはハンス。最初からあなたのセリフよ。」
「ちょっと待ってくれ、まだ僕は引き受けたわけじゃないんや。」
「こっちも主役をやってもらうんだから、全然大根じゃ
 困るのよ。だから少しやってみて欲しいの。」
 健一は強制的なのに反発を感じた。
 よしじゃやってやる。
 健一は読み始めた。

「私の名はハンス・フォン・ビッテントウビッテンシュタイン。」
「私はこの馬小屋の番人をしているものです。」

  教室の隅にいた小柄な青木美智代が続けた。
 彼女は老婆の役なのだろう。その口調でそれが分かる。

「久しぶりに狩りに来たのだが、ちょっとここで休ませてくれないか。」
「どうぞ、ここにおかけ下さい。」

 ハンスと老婆の会話がしばらく続いた。

富士 健
作家:富士 健
さよなら命ーくつのひもが結べないー
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