さよなら命ーくつのひもが結べないー

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「あほやな、へたくそなくせして、ええカッコするからバチがあたったんや。」
 と恵子も健一の背中をはたきながら言った。
「そうやな。」と健一は言いながら笑った。恵子も笑った。

 二人は西の丸庭園を出ると、大阪城の内堀を一周した。
「大阪にこんな広い所があったんやね。」と恵子が言った。
「今歩いてるのは内堀で、この外側に外堀があったんやから実際にはもっと広いんやで。」「大阪城ができたころは、何重もの外堀があったんでしょ。」
「うん、そうらしいな。今は埋められて家が建ってるんや。僕らの学校もそうらしいで。」
「私の家もそうやって言ってた。」
「ほんまかいな。そしたら今の何倍もの大きさやったんやな。」

 健一は大阪城ができた頃の様子を頭に浮かべた。
そして、今にもちょんまげをした侍が出てきそうな錯覚を
おこしバカバカしくてひとり含み笑いを浮かべた。

「何を笑ってるの?」と恵子が言った。
「いや、なんか桃山時代にいる気分になったんや。」

「おもしろい。藤ケンがこの城の殿、豊臣秀吉で、私がその妻ねねというところかしら。」
「いや、腰元や。」
「ふん、いじわる。」
 健一は恵子の肩を抱いて「ウソ、今のはウソや。」と言った。
「わかってる。」と恵子は健一にもたれながら言った。

 西の空はもう真っ赤に染まっていた。
夕日が大阪城に反射して、その雄大さを強調していた。
こんなアングルで写真を撮ったらさぞかしきれいだろうなと健一は思った。

「もう、帰ろうか。」

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「いや、もう少し一緒にいたい。」
 いつになく恵子が甘えた声を出して言った。
二人は内堀を見下ろす藤棚の下のベンチに腰をかけた。
二人はもうあまりしゃべらなかった。
健一は恵子にキスした。
唇に触れるだけのキスだった。
恵子は泣いてはいなかった。

「今度のテストどうやった?」と恵子が切り出した。
 健一はどう答えようかとためらった。
 今までの成績はためらわずに言えたのに今回はそうはいかなかった。
「あんまり良くなかった。」
「そう、でも藤ケンの良くないはどうかわからへんもん。」
 健一は恵子の誤解をときたかったがそれができないでいた。
 二人はそれ以上何もしゃべらなかった。

 健一は腕を組んだ時にあたる恵子の胸の感触を呼び起こしていた。
そしてそれを自分の手で確かめたくなった。
健一はもう一度キスした。
恵子は目を閉じていたが、健一は恵子を見つめていた。
そして右手で恵子の左胸をそっと触れた。
まるでゴムまりのようにはじけそうな感触に健一はときめきをおぼえたが、
恵子は反射的に健一の右手を押さえた。
健一はどうしたらよいかわからず戸惑っていた。
恵子は健一とキスする場面を頭に描きはしたが、
それ以上のことは考えたことがなかったのだ。
健一は右手を離した。
そして恵子の純粋な気持ちと、今の自分の気持ちとを
比べて自己嫌悪におちいった。
 それを察した恵子は

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「私の胸小さいでしょ。」と言った。
 健一は何も言わなかった。
「帰ろうか。」
 健一は恵子の前から早く去りたかった。

健一は恵子の手もつなげないでいた。
恵子も今日はこのまま別れたほうがいいような気がしたので黙って歩いた。
別れ際に恵子は「今日はありがとう。」とブーツの入った紙袋を上げて言った。
健一は恵子の心配りに驚いた。
普通ならそんな恵子を手放しで喜ぶのに、今はそんな恵子と自分を比較して
自分の醜さを痛感していた。
健一は何も言えなかった。
ただ一言「バイバイ。」と言って、来た道を足早に戻っていった。

 健一は家に戻ると自分の部屋に入り、ベッドに横たわってどうしてこんな事に
なったのか考えていた。
藤棚のベンチに座るまでは今までと同じように二人の気持ちは一つになっていた。
恵子の勝ち気さとやさしさとかわいらしさに健一は魅了されていた。
それが、恵子の胸に触れそれを恵子に止められてから、健一の心は坂道を転げ落ちる
ように深く深く沈み込んでいった。
健一の気持ちが沈みこむのは恵子がテストの結果を聞いたことから始まっていた。
健一は成績のことで悩んでいた。初めて深刻に悩んでいた。
それに対して自分なりに結論を出し、気持ちが整理できたものと思っていた。
でも健一の心は人にそこを探られるとたちまちに
平衡を失うほどに鋭敏になっていたのだ。
そして初めて健一のそんな心に触れたのが恵子の
「今度のテストどうやった。」というただ一言だった。
恵子はこの一ヶ月程でどれだけ健一が変わったかに気づいていなかった。
健一の体のことはいつでも心配していたが、精密検査の結果を聞いてその心配はもう
なくなっていたのだ。

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しかし、健一は心の病気に触れられ、毎晩のように悩んでいた時の気持ちに戻って
しまったのだ。
そんな心の背景で、恵子の胸に触れたという自己嫌悪が重なっていた。
健一は今自分が何を悩んでいるのかを恵子に打ち明けようかと考えた。
打ち明ければ恵子はきっとびっくりするだろう。
それはどうしてもできない。
よけい自分がみじめになるだけだと思った。
打ち明けられないのなら、もう恵子と会えない。会っては
ならないんだ。健一はこう考えて眠りについた。
 
  健一は決心したものの恵子に別れを告げずにいた。
 
  そして一週間後再び恵子から電話がかかってきた。
「どうしたの全然連絡くれへんやん。」
「・・・」
 健一はいつ切り出そうかと考えていた。
「明日ひま? 映画に行けへん?」
「もう会いたくない。」
 健一はおもいきって言った。
「なんて言ったの。」
「もう会いたくないんや。」
 突然の健一の言葉に恵子はうろたえていた。
「うそでしょ。どうして、どうしてなの?」
 健一の言葉が恵子の脳の一番敏感な所を突き刺し、胸にまで届いていた。
 恵子は気を失いそうな自分をやっとのことで押さえながら、震える声で続けた。
「前のこと気にしてるのね。私ちっとも怒ってないよ。
 ただあまりにも突然だったから私・・・」
「そんなことじゃないんだ。」
「それじゃ何故なの、理由は何なの、私が嫌いになったの?」
「・・・」
富士 健
作家:富士 健
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