さよなら命ーくつのひもが結べないー

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  健一はむなしかった。やはり久子は勉強のことしか言わない。
そして最近急に反抗しだした英文にもびっくりした。

 すると母の久子が英文の返事を聞いて
「なんやその言い方は。」と言って英文のももをけった。
「痛いな、もういらんわ。」
 英文はおこって、はしを投げ捨て2階へ上がっていった。
「本当にどうして最近あんなに口ごたえするようになったんやろ。」
 久子は何食わぬ顔ではしを進めた。
 健一はそこにいるのが嫌になって「もういらん。」と言って上に上がった。
 英文の部屋に入ってみると、英文は泣いていた。
「おまえがあんな言い方するからや。」と健一が言った。
「お母さんが悪いんや。いつもいつも顔見たら勉強勉強って、もう
 耳にたこができたわ。」
「でも、お母さんにあんな言い方はやめろ、分かったな。」

 健一はそれ以上言わなかった。いやそれ以上言えなかった。
 健一は自分の部屋に戻ってさっきの続きを考えた。
母はいつも英文の気持ちを考えてないじゃないか。ただ、勉強勉強というだけで
あとは何もしない。そして少し気にくわぬ事があったらあんな暴力をする。
母はそういう人間なんだ。そうだ母は頭が悪いんだ。
神のような存在だった母の偶像は崩れ去った。
母はバカなんだ。そしてその息子の僕もバカなんだ。
健一は心の中で悲鳴をあげた。

 それからというもの健一は家の中で母と弟が言い争っているのを見ると、無性に
腹が立った。そして今まで出したことのないような大きな声で
「うるさいな。」と怒鳴った。
母の久子はびっくりした。
今まで一度も口ごたえしたことのない、ましてや大声など一度も出したことのない

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健一が近所にも聞こえるほどの大きな声で怒鳴ったので、どうしたことかとぽかんと
していた。そしてやさしい声で
「健一が怒ることないやん。英文を怒っているんやから。」
「それがうるさいんや。英文も分かっているんやから、そういちいち言わんでええんや。」「健一には分かってないねん。英文は兄ちゃんと違って言わな分かれへんねんから。」
久子はひとつも分かっていない。
健一はそれ以上口を出すのが嫌になった。

 健一は悩んだ。
そして今まですばらしい成績をとってこれたのは、頭が良かったのではなく、ただ
久子に強制されて勉強ばかりやってきたからに違いない。
だから、今度280番なんて成績をとったのは勉強しなかったから、頭の程度が
そのまま出たのだと思うようになっていた。

けれども心の片隅に僕は母と違うんだと考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

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 6、ブーツと大阪城

 3学期も終わり春休みになった。
健一は自信を失ってしまっていた。
春休みになって一週間過ぎたのに、一度も恵子と連絡をとっていなかった。
そうするうちに、初めて恵子から電話があった。

「どうしたの藤ケン?全然連絡してくれへんやん。」
「ごめん、悪かった。」
「何かあったの?」
「いや別に。ただちょっと疲れてたんで家で寝てたんや。」
「また体が悪くなったの?」
「いいやそんなことはない。もうタンパクは降りてないから。
 ただ少しテスト疲れが出たんや。」
「そう、じゃもう大丈夫やねんね。」
「そうや。」
「じゃ明日どこかへ行こう。」
「うん。」と言ったものの健一は今は恵子と会いたくなかった。
「映画でもいいけど、ちょっと買いたい物があるから、つきあってくれへん。」
「うん、ええよ。」
「じゃいつものところに十時ね。」
「ちょっと待ってくれ。」
 健一は本当は今は会いたくないと言おうか考えた。
「どうしたの、早すぎる?」
 健一は恵子と会おうと決心した。
「いや十時でええよ。」
「そしたら十時ね。遅刻したら後が怖いんやから。」
「わかったわかった。必ず十時に行ってるよ。」
「必ずよ。じゃ明日バイバイ。」

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「バイバイ。」

  健一は恵子と話しているうちに、だんだんと気持ちがなごんでいく自分を感じた。
そして恵子の存在を忘れていた事を後悔した。
その夜は久しぶりに恵子のことを考えながら健一は
ぐっすりと寝た。
朝、健一は驚くほど目覚めが良かった。
こんな目覚めのいい朝はいつ以来だろうかと思った。
そして恵子が今の自分には欠くことのできない存在である
事を強く感じた。
 健一は十時十分前に梅田の歩道橋についたが、すでに恵子は来ていた。
「なかなか優秀。十分前に来るなんて新記録じゃない。」
「そう言うなよ。」
「ブーツを一緒に見てもらおうと思って。前からお父さんに買ってってねだってたの。
そうしたら1万円くれたの。足りない分は小遣いから出せって。ね、いいでしょ。
一緒に見てくれる。」
「ええけど、僕がいたって何もわからへんで。」
「いいの、藤ケンが気に入るのを買いたいのよ。」
「そうか、じゃさっそく見に行こうか。」
「うん。」

 恵子の声ははずんでいた。
そして二人は歩き始めたが、健一は恵子の肩に手をまわそうとしてためらった。
今まで一度もためらったことがなかったのに、このときは健一はできなかった。
そしてこの1ヶ月程で自分の心の中がめまぐるしく変化し、今までのように人の目を
気にしない大胆な態度がとれないでいる自分をはっきりと自覚した。
ああ自分はどうしてこんなに小心になってしまったのだろう。
健一は自己嫌悪に陥っていた。

 恵子はそんな健一の気持ちをまだ分かっていなかったが、いつものように肩を

富士 健
作家:富士 健
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