さよなら命ーくつのひもが結べないー

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「バイバイ。」

  健一は恵子と話しているうちに、だんだんと気持ちがなごんでいく自分を感じた。
そして恵子の存在を忘れていた事を後悔した。
その夜は久しぶりに恵子のことを考えながら健一は
ぐっすりと寝た。
朝、健一は驚くほど目覚めが良かった。
こんな目覚めのいい朝はいつ以来だろうかと思った。
そして恵子が今の自分には欠くことのできない存在である
事を強く感じた。
 健一は十時十分前に梅田の歩道橋についたが、すでに恵子は来ていた。
「なかなか優秀。十分前に来るなんて新記録じゃない。」
「そう言うなよ。」
「ブーツを一緒に見てもらおうと思って。前からお父さんに買ってってねだってたの。
そうしたら1万円くれたの。足りない分は小遣いから出せって。ね、いいでしょ。
一緒に見てくれる。」
「ええけど、僕がいたって何もわからへんで。」
「いいの、藤ケンが気に入るのを買いたいのよ。」
「そうか、じゃさっそく見に行こうか。」
「うん。」

 恵子の声ははずんでいた。
そして二人は歩き始めたが、健一は恵子の肩に手をまわそうとしてためらった。
今まで一度もためらったことがなかったのに、このときは健一はできなかった。
そしてこの1ヶ月程で自分の心の中がめまぐるしく変化し、今までのように人の目を
気にしない大胆な態度がとれないでいる自分をはっきりと自覚した。
ああ自分はどうしてこんなに小心になってしまったのだろう。
健一は自己嫌悪に陥っていた。

 恵子はそんな健一の気持ちをまだ分かっていなかったが、いつものように肩を

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抱いてくれないばかりか、手もつないでくれない健一に少し不安になり。その不安を
うち消そうと自分から腕を組んだ。
腕を組んだ拍子に恵子の胸が健一の腕に当たり、健一はとまどいを感じた。
二人は腕を組んだまま梅田のショッピングタウンを歩いた。
婦人靴の専門店の前に来ると恵子は組んでいた腕を離した。

「ねえ何色がいい?」
「そうやなやっぱり黒か茶色やろな。」
「黒はありきたりやから、茶の方がええんとちがう?」
「そしたら、茶にしたら。」
「何よもっと真剣に考えてよ。」
「そしたらこんなんどうや。」
 健一は明るい茶色のブーツを指さして言った。
「どれ、あ、あそこのやつ。すごくいい色。」
 恵子はそのブーツを手にとってみた。
「でもちょっとそれ足に合うかな?」と健一が言った。
「大丈夫よ、サイズはいろいろあるやろうから。」
「恵子の大根足が入るのあるのかな?」
「何よ失礼ね。」

 恵子の足は決して太くはなかったのだが、健一はわざとそう言って
恵子がおこるのを見たかったのだ。
恵子は少し口をとがらせ、おこった表情をしていた。
でもそれが健一にはとても愛らしく写った。
「冗談だよ。」
「女の子の気持ち考えてよ。」
すぐにいつもの恵子に戻っていた。

「1万6千円もするのこれ。ちょっと高すぎるわ。」
「いくら持ってきたんや?」

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「もらった1万円と5千円ちょっと。」
「じゃ僕が3千円だけ出したるわ。」
「悪いわそんなの。」
「かまへん。」
「そんなつもりで誘ったんじゃないのに。」
「わかってる、そんなこと。今まで何も買ってあげたことなかったやろ。
 だから出してやりたいねん。」
「本当にいいの? じゃこれにする。」
 恵子は店員を呼んで23㎝のサイズを出してもらうと、さっそくはいてみた。
それは恵子にあつらえたようにぴったりだった。
「どう?」健一が聞いた。
「うん、ぴったり。」
「すみませんこれ下さい。」
健一が出した3千円をたして恵子は1万6千円払った。
しばらくして店員は大きな紙袋を持ってきた。
「どうもありがとうございます。」
恵子はその紙袋を持って店を出ると健一の腕にしがみついてきた。
「ありがとう、本当にありがとう。」
「いいよ、たった3千円じゃないか。」
「本当はきついんじゃないの?」
「みやぶられたか。」
 二人は笑った。

  二人は映画を見るのをやめて大阪城へ行くことにした。
北天門高校は大阪城のすぐ横にあるので、教室の窓から
大阪城をいつも眺めていたが、まだ入ったことがなかった。
梅田から地下鉄に乗って天満橋で降りて、歩いていくと
大阪城が左に、学校が右に見えてきた。

「なんか学校へ行くみたいやな。」と健一が言った。

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「そうやね。」
 二人はわざと学校の前を通ることにした。
「改めて見るときたない学校やね。」と恵子が言った。
「きたないんじゃなくて、伝統がにじみ出てるって言うんや。」
「ああ、そういうの。」
 恵子はわざと感心したような顔をしてみせた。
健一はその顔を見て笑った。恵子も一緒に笑った。

 大阪城の内堀の公園に入った時、健一はためらいもなく恵子の肩を抱いた。
恵子は健一に寄り添うようにして歩いた。

 公園の木々はようやく緑が濃くなり始めていた。
桜のつぼみはかたくしばらく咲きそうになかった。
空は青く、白い雲も浮かんでいた。

「西の丸庭園にでも行こか。」と健一が言った。
「うん。」

 西の丸庭園は大阪城内にある芝生が一面に植えられているだけの大きな庭園である。
西の丸庭園に入ると、健一はでんと大の字になって寝ころんで青空を見上げた。
恵子はスカートをはいていたのですこしためらいながら、健一の横に同じようにして
あお向けに寝ころんだ。

「小さい頃、家の前がどこかの会社のグランドやったから、こんなふうに青空を
 よく見上げたもんや。」
「ああそう、私は初めて。」
「どうや、気持ちいいやろ。」
「うん、でもちょっとこわいわ。」
「どうして?」
「あまりにも空が大きすぎるもん。」

富士 健
作家:富士 健
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