さよなら命ーくつのひもが結べないー

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され、その優劣の関係によりその形質が子供に現れるというわけだ。だから、頭の良い
親からは頭の良い子供ができ、頭の悪い親からは頭の悪い子供ができるという事だ。これは単なる偶然ではなく、染色体に書き込まれた遺伝子というものによって決められた必然的な現象というわけだ。私の息子は高校時代、ラグビーを3年間やっていたが、現役で京大に入ったし、娘も楽々京大の文学部に入ったんや。まあこれも遺伝学的に見て必然的なことしかりなわけだが、まあ自分がどれだけ頭がいいかは親を見たらすぐわかるのであって、自分の頭の悪さは親の責任だとはやくあきらめるんやな。」
 
 その生物の先生は六十過ぎの白髪の老教師で、自分は医学博士だとか言って、いつも
自分の自慢話ばかりしていたので、生徒たちには評判が良くなかった。
けれども彼の口調には説得力があり、健一はこの老教師の話を聞いて両親の事を頭に
浮かべた。
父の浩二郎は勉強は非常によくできたらしい。一方母の久子は中学出であるが、今まで
一度も健一は久子を頭の悪い人だと思ったことはなかった。いつでも久子は健一にとって神のような存在だった。しかし、よく考えてみると一度も久子は健一に勉強を教えたことはなかった。「勉強しなさい。」とは言っても、内容まで教えてもらったことがないのに初めて気がついた。

 健一は、頭が良いという事と勉強が良くできるという事がイコールであるのかないのかと考えた。

「健一起きや。」と下で久子の呼ぶ声がした。
時計を見るともう2時間もたっていた。
健一は下へ降りると英文はクラブからちょうど帰ってきたところで学生服のまま夕食を
食べ始めていた。
「英文、もうそろそろ3学期末テストやな、今度こそ国語と英語が5になるようにせな
あかんで、分かってるんかいな。」
「分かってるわ、いちいちうるさいな。」
「分かってるんやったら、一度くらいとってみいや。」
「分かってるって言うてるやろ。」

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  健一はむなしかった。やはり久子は勉強のことしか言わない。
そして最近急に反抗しだした英文にもびっくりした。

 すると母の久子が英文の返事を聞いて
「なんやその言い方は。」と言って英文のももをけった。
「痛いな、もういらんわ。」
 英文はおこって、はしを投げ捨て2階へ上がっていった。
「本当にどうして最近あんなに口ごたえするようになったんやろ。」
 久子は何食わぬ顔ではしを進めた。
 健一はそこにいるのが嫌になって「もういらん。」と言って上に上がった。
 英文の部屋に入ってみると、英文は泣いていた。
「おまえがあんな言い方するからや。」と健一が言った。
「お母さんが悪いんや。いつもいつも顔見たら勉強勉強って、もう
 耳にたこができたわ。」
「でも、お母さんにあんな言い方はやめろ、分かったな。」

 健一はそれ以上言わなかった。いやそれ以上言えなかった。
 健一は自分の部屋に戻ってさっきの続きを考えた。
母はいつも英文の気持ちを考えてないじゃないか。ただ、勉強勉強というだけで
あとは何もしない。そして少し気にくわぬ事があったらあんな暴力をする。
母はそういう人間なんだ。そうだ母は頭が悪いんだ。
神のような存在だった母の偶像は崩れ去った。
母はバカなんだ。そしてその息子の僕もバカなんだ。
健一は心の中で悲鳴をあげた。

 それからというもの健一は家の中で母と弟が言い争っているのを見ると、無性に
腹が立った。そして今まで出したことのないような大きな声で
「うるさいな。」と怒鳴った。
母の久子はびっくりした。
今まで一度も口ごたえしたことのない、ましてや大声など一度も出したことのない

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健一が近所にも聞こえるほどの大きな声で怒鳴ったので、どうしたことかとぽかんと
していた。そしてやさしい声で
「健一が怒ることないやん。英文を怒っているんやから。」
「それがうるさいんや。英文も分かっているんやから、そういちいち言わんでええんや。」「健一には分かってないねん。英文は兄ちゃんと違って言わな分かれへんねんから。」
久子はひとつも分かっていない。
健一はそれ以上口を出すのが嫌になった。

 健一は悩んだ。
そして今まですばらしい成績をとってこれたのは、頭が良かったのではなく、ただ
久子に強制されて勉強ばかりやってきたからに違いない。
だから、今度280番なんて成績をとったのは勉強しなかったから、頭の程度が
そのまま出たのだと思うようになっていた。

けれども心の片隅に僕は母と違うんだと考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

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 6、ブーツと大阪城

 3学期も終わり春休みになった。
健一は自信を失ってしまっていた。
春休みになって一週間過ぎたのに、一度も恵子と連絡をとっていなかった。
そうするうちに、初めて恵子から電話があった。

「どうしたの藤ケン?全然連絡してくれへんやん。」
「ごめん、悪かった。」
「何かあったの?」
「いや別に。ただちょっと疲れてたんで家で寝てたんや。」
「また体が悪くなったの?」
「いいやそんなことはない。もうタンパクは降りてないから。
 ただ少しテスト疲れが出たんや。」
「そう、じゃもう大丈夫やねんね。」
「そうや。」
「じゃ明日どこかへ行こう。」
「うん。」と言ったものの健一は今は恵子と会いたくなかった。
「映画でもいいけど、ちょっと買いたい物があるから、つきあってくれへん。」
「うん、ええよ。」
「じゃいつものところに十時ね。」
「ちょっと待ってくれ。」
 健一は本当は今は会いたくないと言おうか考えた。
「どうしたの、早すぎる?」
 健一は恵子と会おうと決心した。
「いや十時でええよ。」
「そしたら十時ね。遅刻したら後が怖いんやから。」
「わかったわかった。必ず十時に行ってるよ。」
「必ずよ。じゃ明日バイバイ。」

富士 健
作家:富士 健
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