さよなら命ーくつのひもが結べないー

31

健一が近所にも聞こえるほどの大きな声で怒鳴ったので、どうしたことかとぽかんと
していた。そしてやさしい声で
「健一が怒ることないやん。英文を怒っているんやから。」
「それがうるさいんや。英文も分かっているんやから、そういちいち言わんでええんや。」「健一には分かってないねん。英文は兄ちゃんと違って言わな分かれへんねんから。」
久子はひとつも分かっていない。
健一はそれ以上口を出すのが嫌になった。

 健一は悩んだ。
そして今まですばらしい成績をとってこれたのは、頭が良かったのではなく、ただ
久子に強制されて勉強ばかりやってきたからに違いない。
だから、今度280番なんて成績をとったのは勉強しなかったから、頭の程度が
そのまま出たのだと思うようになっていた。

けれども心の片隅に僕は母と違うんだと考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

32

 6、ブーツと大阪城

 3学期も終わり春休みになった。
健一は自信を失ってしまっていた。
春休みになって一週間過ぎたのに、一度も恵子と連絡をとっていなかった。
そうするうちに、初めて恵子から電話があった。

「どうしたの藤ケン?全然連絡してくれへんやん。」
「ごめん、悪かった。」
「何かあったの?」
「いや別に。ただちょっと疲れてたんで家で寝てたんや。」
「また体が悪くなったの?」
「いいやそんなことはない。もうタンパクは降りてないから。
 ただ少しテスト疲れが出たんや。」
「そう、じゃもう大丈夫やねんね。」
「そうや。」
「じゃ明日どこかへ行こう。」
「うん。」と言ったものの健一は今は恵子と会いたくなかった。
「映画でもいいけど、ちょっと買いたい物があるから、つきあってくれへん。」
「うん、ええよ。」
「じゃいつものところに十時ね。」
「ちょっと待ってくれ。」
 健一は本当は今は会いたくないと言おうか考えた。
「どうしたの、早すぎる?」
 健一は恵子と会おうと決心した。
「いや十時でええよ。」
「そしたら十時ね。遅刻したら後が怖いんやから。」
「わかったわかった。必ず十時に行ってるよ。」
「必ずよ。じゃ明日バイバイ。」

33

「バイバイ。」

  健一は恵子と話しているうちに、だんだんと気持ちがなごんでいく自分を感じた。
そして恵子の存在を忘れていた事を後悔した。
その夜は久しぶりに恵子のことを考えながら健一は
ぐっすりと寝た。
朝、健一は驚くほど目覚めが良かった。
こんな目覚めのいい朝はいつ以来だろうかと思った。
そして恵子が今の自分には欠くことのできない存在である
事を強く感じた。
 健一は十時十分前に梅田の歩道橋についたが、すでに恵子は来ていた。
「なかなか優秀。十分前に来るなんて新記録じゃない。」
「そう言うなよ。」
「ブーツを一緒に見てもらおうと思って。前からお父さんに買ってってねだってたの。
そうしたら1万円くれたの。足りない分は小遣いから出せって。ね、いいでしょ。
一緒に見てくれる。」
「ええけど、僕がいたって何もわからへんで。」
「いいの、藤ケンが気に入るのを買いたいのよ。」
「そうか、じゃさっそく見に行こうか。」
「うん。」

 恵子の声ははずんでいた。
そして二人は歩き始めたが、健一は恵子の肩に手をまわそうとしてためらった。
今まで一度もためらったことがなかったのに、このときは健一はできなかった。
そしてこの1ヶ月程で自分の心の中がめまぐるしく変化し、今までのように人の目を
気にしない大胆な態度がとれないでいる自分をはっきりと自覚した。
ああ自分はどうしてこんなに小心になってしまったのだろう。
健一は自己嫌悪に陥っていた。

 恵子はそんな健一の気持ちをまだ分かっていなかったが、いつものように肩を

34

抱いてくれないばかりか、手もつないでくれない健一に少し不安になり。その不安を
うち消そうと自分から腕を組んだ。
腕を組んだ拍子に恵子の胸が健一の腕に当たり、健一はとまどいを感じた。
二人は腕を組んだまま梅田のショッピングタウンを歩いた。
婦人靴の専門店の前に来ると恵子は組んでいた腕を離した。

「ねえ何色がいい?」
「そうやなやっぱり黒か茶色やろな。」
「黒はありきたりやから、茶の方がええんとちがう?」
「そしたら、茶にしたら。」
「何よもっと真剣に考えてよ。」
「そしたらこんなんどうや。」
 健一は明るい茶色のブーツを指さして言った。
「どれ、あ、あそこのやつ。すごくいい色。」
 恵子はそのブーツを手にとってみた。
「でもちょっとそれ足に合うかな?」と健一が言った。
「大丈夫よ、サイズはいろいろあるやろうから。」
「恵子の大根足が入るのあるのかな?」
「何よ失礼ね。」

 恵子の足は決して太くはなかったのだが、健一はわざとそう言って
恵子がおこるのを見たかったのだ。
恵子は少し口をとがらせ、おこった表情をしていた。
でもそれが健一にはとても愛らしく写った。
「冗談だよ。」
「女の子の気持ち考えてよ。」
すぐにいつもの恵子に戻っていた。

「1万6千円もするのこれ。ちょっと高すぎるわ。」
「いくら持ってきたんや?」

富士 健
作家:富士 健
さよなら命ーくつのひもが結べないー
10
  • 0円
  • ダウンロード

31 / 133

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント