さよなら命ーくつのひもが結べないー

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 久子は二十九歳であった。葬儀は愛媛の実家で行われた。
浩二郎の親戚はそこで初めて久子と二人の子供を見たのである。

 弔いが終わった後、久子は子供二人を連れて大阪に戻り、就職先を見つけ、新しい
生活を始めたのである。
 久子は毎晩のように泣いた。最愛の夫が急死した悲しみは言葉では言い尽くせない程
で、後から後から涙が出てきた。
これからの生活のことを考えると、子供と共に死のうと考えたこともあった。しかし、
久子は強く生きてこの子供たちをりっぱに育てるのだと心に誓ったのである。
久子の実家から子供を連れて山梨に戻るようにすすめられたが、久子は戻らなかった。
親子3人の暮らしは楽ではなかった。

  久子は子供の教育には熱心であった。
久子は毎日の宿題を必ず点検した。
ある日、見落としてやっていない宿題があった時、朝食を食べさせないで宿題をさせて
から学校へ行かせた。健一は泣きながら学校へ行ったことを今でも覚えている。
それでも、健一が小学校の高学年になり、父と母の出会いから今までの事情を久子から
聞かされる頃になると、健一はそんな久子を憎めなかった。
かえって、よし、僕がしっかりしなくてはならないんだと思ったのである。
一方小さい英文は勉強にうるさい久子を憎んでいた。

 健一が中学を卒業して、高校に入学が決まった春、久子は子供二人を連れて、
浩二郎の実家に出向いた。
9年ぶりのことである。
浩二郎の親戚は久子たちをあつく歓迎してくれた。
健一の成績優秀なのをとてもほめた。
久子は泣いた。
泣いている久子を見て、健一も涙があふれそうになった。

  健一が高校に入ると久子はもう健一には干渉しなくなった。

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その分、英文に強く言うようになった。
英文も成績は良かったが、兄の健一ほどではなかったので、久子はいつも健一を例に
あげて「兄ちゃんはこうだったよ。」と言っていた。
英文はその言葉を聞くのが嫌だった。
「僕は兄ちゃんとは違うんだ。」といつも心の中で反発していた。
英文も、もう中学生になっていた。

  健一は成績において今まで完璧だった。完璧すぎたのだ。
だから1年の最後に280番という席次をもらって初めて悩んだ。
そしてその理由を勉強不足にもっていった。
この3ヶ月程、健一は病気を治すために十二時には寝るようにしたので、それまでの
半分程の量しかこなせなかった。
けれども今までのように夜中の2時、3時まで勉強するということは、やっと治りかけた腎炎をまた悪くすることになってしまうと健一は思った。
睡眠時間を増やせば勉強する時間が少なくなり、睡眠時間をさいて勉強すれば体が
また悪くなる。
健一はどうしたらよいのか途方にくれた。

 ある日久しぶりに夜中の3時まで勉強して学校へ行くと、一日中眠たくて今まで
一度も授業中に寝たことのない健一が居眠りをして先生にしかられた。
 健一は急激に疲れを感じ始めた。
そして学校から帰ると必ず2時間は寝るようになっていた。
目が覚めても眠気は残り、いざ勉強を始めようとしても頭がさえなかった。
どうしてこんなになってしまったのだろうかと考える時間がますます増える一方に
なっていった。

 ある日健一は学校から帰るといつものようにベッドに入った。
そして、今日生物の先生が授業中に言った言葉を思い出した。

「つまり遺伝というのは、親の生殖細胞にある染色体の遺伝子が減数分裂してかけ合わ

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され、その優劣の関係によりその形質が子供に現れるというわけだ。だから、頭の良い
親からは頭の良い子供ができ、頭の悪い親からは頭の悪い子供ができるという事だ。これは単なる偶然ではなく、染色体に書き込まれた遺伝子というものによって決められた必然的な現象というわけだ。私の息子は高校時代、ラグビーを3年間やっていたが、現役で京大に入ったし、娘も楽々京大の文学部に入ったんや。まあこれも遺伝学的に見て必然的なことしかりなわけだが、まあ自分がどれだけ頭がいいかは親を見たらすぐわかるのであって、自分の頭の悪さは親の責任だとはやくあきらめるんやな。」
 
 その生物の先生は六十過ぎの白髪の老教師で、自分は医学博士だとか言って、いつも
自分の自慢話ばかりしていたので、生徒たちには評判が良くなかった。
けれども彼の口調には説得力があり、健一はこの老教師の話を聞いて両親の事を頭に
浮かべた。
父の浩二郎は勉強は非常によくできたらしい。一方母の久子は中学出であるが、今まで
一度も健一は久子を頭の悪い人だと思ったことはなかった。いつでも久子は健一にとって神のような存在だった。しかし、よく考えてみると一度も久子は健一に勉強を教えたことはなかった。「勉強しなさい。」とは言っても、内容まで教えてもらったことがないのに初めて気がついた。

 健一は、頭が良いという事と勉強が良くできるという事がイコールであるのかないのかと考えた。

「健一起きや。」と下で久子の呼ぶ声がした。
時計を見るともう2時間もたっていた。
健一は下へ降りると英文はクラブからちょうど帰ってきたところで学生服のまま夕食を
食べ始めていた。
「英文、もうそろそろ3学期末テストやな、今度こそ国語と英語が5になるようにせな
あかんで、分かってるんかいな。」
「分かってるわ、いちいちうるさいな。」
「分かってるんやったら、一度くらいとってみいや。」
「分かってるって言うてるやろ。」

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  健一はむなしかった。やはり久子は勉強のことしか言わない。
そして最近急に反抗しだした英文にもびっくりした。

 すると母の久子が英文の返事を聞いて
「なんやその言い方は。」と言って英文のももをけった。
「痛いな、もういらんわ。」
 英文はおこって、はしを投げ捨て2階へ上がっていった。
「本当にどうして最近あんなに口ごたえするようになったんやろ。」
 久子は何食わぬ顔ではしを進めた。
 健一はそこにいるのが嫌になって「もういらん。」と言って上に上がった。
 英文の部屋に入ってみると、英文は泣いていた。
「おまえがあんな言い方するからや。」と健一が言った。
「お母さんが悪いんや。いつもいつも顔見たら勉強勉強って、もう
 耳にたこができたわ。」
「でも、お母さんにあんな言い方はやめろ、分かったな。」

 健一はそれ以上言わなかった。いやそれ以上言えなかった。
 健一は自分の部屋に戻ってさっきの続きを考えた。
母はいつも英文の気持ちを考えてないじゃないか。ただ、勉強勉強というだけで
あとは何もしない。そして少し気にくわぬ事があったらあんな暴力をする。
母はそういう人間なんだ。そうだ母は頭が悪いんだ。
神のような存在だった母の偶像は崩れ去った。
母はバカなんだ。そしてその息子の僕もバカなんだ。
健一は心の中で悲鳴をあげた。

 それからというもの健一は家の中で母と弟が言い争っているのを見ると、無性に
腹が立った。そして今まで出したことのないような大きな声で
「うるさいな。」と怒鳴った。
母の久子はびっくりした。
今まで一度も口ごたえしたことのない、ましてや大声など一度も出したことのない

富士 健
作家:富士 健
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