さよなら命ーくつのひもが結べないー

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16、卒業

  2学期が終わった。
健一は3年生全員が受けた公開模試で希望校の判定は不可であった。

「藤、お前阪大の建築科は無理や、他の学科にしろ。」
谷山先生は健一との懇談でそうはっきり言った。
健一は数学が平均しかとれなかった。良かったのは物理と化学だけだった。

「日本史はこれからやれば伸びるだろうが、数学はこの程度だろう。どうしても
建築科にしたいなら大学のランクを落とすしかない。どうだ変えないか?」
谷山先生の声にはいたわりがあった。
谷山先生もこの頃目立って健一が数学の授業で答えられなかったり、定期テストでも
ふるわない事を心配していた。

 谷山先生は自分の言動が生徒にどれだけ影響を与えているのかをよく知っていた。
しかし、谷山先生はお世辞や生やさしい慰めは絶対にしない性格の人であった。
そして自分の言動で自信をなくすような奴は大学に入っても社会に出てもどこかで
必ず自信を失うに決まっている。それが早いか遅いかであり、自分のとっている言動に
よって現実の社会に出ていく人間の心構えを身につけさせているのだ。
自分は間違ってないと確信しているのだった。

 谷山先生は健一がこの頃自信を無くしていることは分かっていたが、健一をその程度の人間であったのだと思うだけであった。
それでも何とかして大学には入ってもらいたいという気持ちもあり、進路指導の時には
努めていたわる口調になっていた。

「どうしても阪大の工学部建築科に行きたいです。」と、健一は言った。
健一の声は震えていた。

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健一の自信喪失は極度のものであった。
ことさら、谷山先生の前では何も言えない人間になってしまっていた。

「それほど言うなら1月最後のテストにかけてみろ。
それが良かったら受けてみ。だめだったらあきらめろ、いいな。」
谷山先生は最後のチャンスを健一に与えた。
「はい分かりました。」
健一はそう言って部屋を出て行った。


 健一は短い冬休みを寝る暇もないほど勉強した。しかし能率は上がらなかった。
起きているときは必ず机に向かうのだが頭が働くのに時間がかかった。
ようやく能率が上がりかけると難問にぶつかり、それがすぐ解けないと自分の無能さを
嘆き、ベッドに横になるのであった。

こんな自分が建築家になれるだろうか。あんな高層ビルの設計などできるのだろうか。
自分が建てたビルなんか至る所寸法違いですきまがあき、雨の日は雨漏りし、地震が
起きれば簡単に倒れてしまうのではないだろうかと思うのであった。
しかし健一は自分はどうしても建築家にならなければならないのだと思っていた。
写真でしか顔を思い出せない父浩二郎はダムをつくり発電所をつくり、新幹線の駅を
つくったのだ。
自分にはそんな父の血が流れているのだ。
健一はどうしても父と同じ道を歩みたいと思うのであった。
しかし実のところ健一は社会にでていく勇気を失っていた。
ただ、今は大学に入るという事だけしか考えていなかった。
それが自分に与えられた使命であり、それは母久子に対する最大の親孝行であると
思うのであった。

 3学期が始まり、最後の実力テストが行われた。
今度もやはり数学を平均しかとれず席次は120番であった。

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「おい藤、どうするんや。阪大は数学で決まるんや。それはお前も分かってるやろ。
今度も数学が悪いな。これじゃ通るという保証はできんぞ。」
谷山先生は健一に決断をせまった。
「どうしても受けたいです。」
健一ははっきり言った。
谷山先生は少し沈黙した後、言った。
「よし、じゃ受けてみろ。すべってもわしは知らん。」
その言葉はあまりにも冷たかった。
受けると決心したのだから頑張れと最後に言って欲しかった。

健一ははっきり自分の受験校が決まった事で気分がすっきりした。
しかし、谷山先生の最後の言葉を思い出すたびに不安を感じるのであった。

 3学期は1月いっぱい授業があっただけでもう学校には行かなくなった。
2月中旬に行われた卒業式は味気ないものだった。
式が終わったらクラスメイトたちはてんでバラバラに解散し、家路と急ぐものばかり
だった。健一もその一人だった。
家に帰り卒業写真を拡げてみても何の感動もなかった。
楽しかった1,2年の思い出はそこには1枚も残っていなかった。
すべてこの3年の暗黒の思い出がつまっているような気がした。
健一は一目見ただけで卒業写真を閉じてしまった。
そして今度は健一のクラスで作った文集を拡げてみた。
みんな高校生活を懐かしんでいる様子を書いていた。
馬鹿なことを書いて笑わせてくれる者もいた。
健一はどうしてみんなこんなに明るく書けるのだろうと思った。
健一は自分一人悩んでいるような気がした。
そして自分の文章を読んでみた。


 

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愛に飢えた男が一人 愛について考えている
過ぎ去った過去を思い出しながら
冷えた心の人間に愛を生み出すことが出来るだろうか
何かに燃えていなければ愛は芽生えまい
冷めた心の男が一人 愛について考えている
愛を生み出せないのは自分のせいなのだと思いながら

理想と現実は食い違う
人はそれでも理想に近づけようと努力する
僕は極度の理想主義者のようだ
だからあまり理想とかけはなれた現実を見ていると
現実を否定し無にしようとする傾向がある
これではこの世の中生きていけない
現実に対処していけるようにしなければならないようだ

愛についても同じ事だ
頭の中で考えている愛は理想の愛
だから現実の愛とは食い違う
僕は自分の気持ちを本当に分かってくれる人を探していた
言葉に表さなくても微妙な態度だけで僕の気持ちを分かってくれる人を探していた
なんて馬鹿げたことだろう

自分の気持ちを本当に分かっているのは自分だけなのだ
他人に自分の気持ちをすべて理解させようとしても無理なのだ。

真の自分を現さず相手を恋しても愛は生まれない
自然の姿である自分と相手の間にだけ愛は生まれる
真の自分が自然に現れるようになるにはまだ時間がかかりそうだ

                        藤 健一

富士 健
作家:富士 健
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