さよなら命ーくつのひもが結べないー

113

愛に飢えた男が一人 愛について考えている
過ぎ去った過去を思い出しながら
冷えた心の人間に愛を生み出すことが出来るだろうか
何かに燃えていなければ愛は芽生えまい
冷めた心の男が一人 愛について考えている
愛を生み出せないのは自分のせいなのだと思いながら

理想と現実は食い違う
人はそれでも理想に近づけようと努力する
僕は極度の理想主義者のようだ
だからあまり理想とかけはなれた現実を見ていると
現実を否定し無にしようとする傾向がある
これではこの世の中生きていけない
現実に対処していけるようにしなければならないようだ

愛についても同じ事だ
頭の中で考えている愛は理想の愛
だから現実の愛とは食い違う
僕は自分の気持ちを本当に分かってくれる人を探していた
言葉に表さなくても微妙な態度だけで僕の気持ちを分かってくれる人を探していた
なんて馬鹿げたことだろう

自分の気持ちを本当に分かっているのは自分だけなのだ
他人に自分の気持ちをすべて理解させようとしても無理なのだ。

真の自分を現さず相手を恋しても愛は生まれない
自然の姿である自分と相手の間にだけ愛は生まれる
真の自分が自然に現れるようになるにはまだ時間がかかりそうだ

                        藤 健一

114

 健一は自分の気持ちを素直に表していた。
今自分は何について悩んでいるのかを表し、そして過ぎ去った恵子との恋を懐かしんでいるのであった。
健一が何となくページをめくると、一つの文章に目を見張った。

夕陽でキラキラ金色の空
いたずらに風が木の葉を踊らせてdancing dancing
風のリズムに落ち葉のささやき やさしい秋のハーモニー
たそがれ色の思い出は
うすいベールに包まれたいつも遠くを見ていた人

                Keiko Yano

 健一は文集を持つ手がふるえた。
恵子も僕を懐かしんでいる。
こんな僕を恵子は今でも忘れていないんだ。
健一はうれしかった。
しかし恵子の文の雰囲気は健一にとってはあまりにも明るすぎた。
健一はそのまぶしさに心の瞳を閉じた。
あぁ恵子はまだあの純粋さのままなんだ。
恵子の思い出の中に存在する健一は今の自分ではない。
健一は改めて恵子との隔たりを感じずにはいられなかった。
それでもその純粋さを健一はどうしようもなく恋しく思うのであった。

 

 

 

 

115

17、受験

 3月3日、4日と入学試験が行われた。
健一は一日目、国語、英語、物理、化学と無難にこなした。
二日目、一時間目は数学だった。
健一は五問中一問しか完答出来なかった。
あとは全然手がつかなかった。
健一はもうだめだと思った。
健一は焦った。あぁ落ちる、落ちる。
健一の思考回路は切断してしまった。
それはもう健一の習慣となっていた。
二時間目は日本史だった。
問題を解いている最中にチャイムが鳴った。
健一は何のチャイムなのかと思い顔を上げるとみんな鉛筆を片づけている。
今のが終わりのチャイムなのか。
健一は時間を間違えていたのに気づいた。
答案用紙の半分しか埋められていなかった。

 発表の日、張り出された紙に健一の受験番号はなかった。
健一はそのまま家に帰る気がしなかった。
あぁどこかへ行きたい。人目のつかない所へ。
健一は駅前の映画館に入った。
館内は十人ほどしか入っていなかった。
健一は一番後ろに座った。
スクリーンを見ていても何も聞こえない。
段々とスクリーンの映像がゆがんでくる。
健一は目をつむると一筋の涙が頬を伝わった。
すべっていることは分かっていた。
しかし通っていて欲しかった。

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やはり谷山先生の言うとおりの結果になってしまった。
健一はそれが残念だった。
谷山先生を見返してやりたいという気持ちがあった。
谷山先生の言っていることはすべて正しくはないんだと
健一は証明してやりたかった。
しかし、谷山先生は正しかった。
健一の目からとめどなく涙があふれた。

 母の久子も泣いた。
谷山先生からも危ないと言われていたので不安であったが
どうしても健一に通って欲しかった。
健一が阪大に入ったと親戚の者に告げる事だけを考えていた久子にとって、
健一が落ちたことは自分の生きがいをなくしたようなものだった。

 健一はベッドに入ると、すべって安心している自分に気づき驚いた。
谷山先生を見返してやれなかった事は残念だったが、
自分は建築家には向いていないんだという事がはっきりわかったような気がした。

 そして健一はその夜ぐっすりと何もかも忘れて寝ることができた。
健一はその日以来寝てばかりいた。
寝ても寝ても寝たらなかった。
そしてこうして寝ていられることが一番幸福だと思った。

 健一は予備校に入る余裕が自分の家にない事が分かっていたので
予備校の試験は受けなかった。
すべれば宅浪するつもりであった。
母の久子が寝てばかりいないで図書館にでも行きなさいとうるさく言うので
健一は図書館へ通うようにした。
健一は数学の問題がすらすらと解けるのに驚いた。
そしてよく寝てよく勉強した。

富士 健
作家:富士 健
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