さよなら命ーくつのひもが結べないー

114

 健一は自分の気持ちを素直に表していた。
今自分は何について悩んでいるのかを表し、そして過ぎ去った恵子との恋を懐かしんでいるのであった。
健一が何となくページをめくると、一つの文章に目を見張った。

夕陽でキラキラ金色の空
いたずらに風が木の葉を踊らせてdancing dancing
風のリズムに落ち葉のささやき やさしい秋のハーモニー
たそがれ色の思い出は
うすいベールに包まれたいつも遠くを見ていた人

                Keiko Yano

 健一は文集を持つ手がふるえた。
恵子も僕を懐かしんでいる。
こんな僕を恵子は今でも忘れていないんだ。
健一はうれしかった。
しかし恵子の文の雰囲気は健一にとってはあまりにも明るすぎた。
健一はそのまぶしさに心の瞳を閉じた。
あぁ恵子はまだあの純粋さのままなんだ。
恵子の思い出の中に存在する健一は今の自分ではない。
健一は改めて恵子との隔たりを感じずにはいられなかった。
それでもその純粋さを健一はどうしようもなく恋しく思うのであった。

 

 

 

 

115

17、受験

 3月3日、4日と入学試験が行われた。
健一は一日目、国語、英語、物理、化学と無難にこなした。
二日目、一時間目は数学だった。
健一は五問中一問しか完答出来なかった。
あとは全然手がつかなかった。
健一はもうだめだと思った。
健一は焦った。あぁ落ちる、落ちる。
健一の思考回路は切断してしまった。
それはもう健一の習慣となっていた。
二時間目は日本史だった。
問題を解いている最中にチャイムが鳴った。
健一は何のチャイムなのかと思い顔を上げるとみんな鉛筆を片づけている。
今のが終わりのチャイムなのか。
健一は時間を間違えていたのに気づいた。
答案用紙の半分しか埋められていなかった。

 発表の日、張り出された紙に健一の受験番号はなかった。
健一はそのまま家に帰る気がしなかった。
あぁどこかへ行きたい。人目のつかない所へ。
健一は駅前の映画館に入った。
館内は十人ほどしか入っていなかった。
健一は一番後ろに座った。
スクリーンを見ていても何も聞こえない。
段々とスクリーンの映像がゆがんでくる。
健一は目をつむると一筋の涙が頬を伝わった。
すべっていることは分かっていた。
しかし通っていて欲しかった。

116

やはり谷山先生の言うとおりの結果になってしまった。
健一はそれが残念だった。
谷山先生を見返してやりたいという気持ちがあった。
谷山先生の言っていることはすべて正しくはないんだと
健一は証明してやりたかった。
しかし、谷山先生は正しかった。
健一の目からとめどなく涙があふれた。

 母の久子も泣いた。
谷山先生からも危ないと言われていたので不安であったが
どうしても健一に通って欲しかった。
健一が阪大に入ったと親戚の者に告げる事だけを考えていた久子にとって、
健一が落ちたことは自分の生きがいをなくしたようなものだった。

 健一はベッドに入ると、すべって安心している自分に気づき驚いた。
谷山先生を見返してやれなかった事は残念だったが、
自分は建築家には向いていないんだという事がはっきりわかったような気がした。

 そして健一はその夜ぐっすりと何もかも忘れて寝ることができた。
健一はその日以来寝てばかりいた。
寝ても寝ても寝たらなかった。
そしてこうして寝ていられることが一番幸福だと思った。

 健一は予備校に入る余裕が自分の家にない事が分かっていたので
予備校の試験は受けなかった。
すべれば宅浪するつもりであった。
母の久子が寝てばかりいないで図書館にでも行きなさいとうるさく言うので
健一は図書館へ通うようにした。
健一は数学の問題がすらすらと解けるのに驚いた。
そしてよく寝てよく勉強した。

117

健一は自分にはこういう生活があっているのかもしれないと思った。
そして静かな空気のおいしい山奥で一人、何か本を読むか、小説を書いたりする生活が
できればなあと健一は思うのであった。
そしてそんな事を考える自分はやはりこの世の中では生きていけない人間なのだろうかとも思うのであった。

 4月が終わる頃、突然健一に電話があった。
「もしもし、藤君。」
 その声はどこかで聞いた声だった。
「誰?」
「森村です。」
 健一はその声の主が意外であったので驚いた。
「君か。」
「驚いた。そりゃ驚くでしょうね。私から電話がかかってくる
 なんて思わないでしょうから。」
  その声はいつもの森村の口調ではなくかわいらしかった。


「藤ケン、今宅浪してるんですって。」
「そうや毎日、中之島の図書館へ行ってる。」
「そう私もだめだったの。」
「どこを受けたんや?」
「いいやんそんなの。」
「それでどこか予備校へ行ってるのか?」
「うん、昨日さっそくテストがあってん。ほんまに気が休まれへんわ。」
「たいへんやな。」
「うん。藤ケン、明日の日曜日一緒に映画行けへん?」
  健一は森村の言葉が信じられなかった。
 彼女が自分と映画に生きたいという気持ちが分からなかった。
 健一はためらった。

富士 健
作家:富士 健
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