さよなら命ーくつのひもが結べないー

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被支配階級を生み出し、貧富の差が出現したのだ。
人間は生まれたときから平等であると言えたのは、文明を作り出す以前の事なのだ。
また、文明の発達に伴い医学が進歩し、人間は長生きできるようになった。
けれども現在この限られた地球という住みかにおいて、人間の数が増えすぎ、人口制限
まで言われるようになってしまった。
つまり医学は人間の寿命を伸ばしたが、人間の数を増やしすぎたのだ。
さらに、文明の発達と共に、人間の生活は裕福になっていった。
衣食住においてなんでも金さえあればすぐ手に入るようになった。
しかしそれらすべてが平等に分配されてはいない。
文明が発達するにつれ、貧富の差が大きくなっていったのだ。
また、戦後日本は急激に産業が発達し、世界に並ぶまでになった。
しかし、その反面公害で苦しむ国民が急増したのだ。
さらにアメリカ、ソ連など各国で行われている核実験は物理学という学問の発達によっって、人類を滅亡に追い込もうというものである。
もしや、今世界大戦が行われたら必ずや人類は滅亡するであろう。

 僕はこんな事を考えるにつれて、文明の発達に伴い人間はだんだんとこの世を住みにくくしてきたような気がする。
複雑な経済社会、高度な技術を要する産業界と、今の世の中はあまりにも文明が発達し
すぎたのだ。
こんな複雑怪奇な社会において必要とされる人材は頭のいい人間であろう。
こんな世の中についていける人間が必要なのだ。」

 

 

 


 

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「人間というものの出現は、生物学的に言うと単細胞生物から多細胞生物へ、
サルから人間へという進化論が今は信じられている。
それならば人間はこの後何になるのだろうか。
生物学的に最終産物ともいうべき完璧な一つの動物である人間がこのあとどのように
進化するのであろうか。
考えられる事は、こんな世の中に対処していけるような頭脳を持った人間、つまり
コンピュータ人間ではないかと僕は思う。
言うなれば現在、人類出現以来の人間とは違った人間にもう変わりつつあるのだ。
この事はもうすでにいろいろな学者たちによって言われている事であり、
市井三郎著の岩波新書『歴史の進歩とは何か』という本を読みながら僕はとてつもない
不安に襲われた。」

 健一はもう一冊の本を開きながら続けた。
「彼はこの本の中でこう言っている。
人間も他の動物と同じように種内攻撃において和平の儀式を一応発達させている。
しかし、人間は他の動物とは違って抽象的思考能力の進化によって、種内攻撃の能率が
高い武器をも発達させたのだ。
つまり人間の文明は、まさに人類の絶滅の現実的な可能性を目の前にぶらさげるにいたったのだ。
つまり、この高度社会において、脳が発達し、抽象的思考能力だけが発達した人間は
もう人間ではなくなってしまうと言っているのだ。
そしてこの世の中をつぶそうと思えば、ボタン一つで人類は滅びてしまうという現実が
今僕たちの目の前にあるのだ。
誰がそのボタンを押すような人間はいないと言い切ることができよう。
僕は人類の文明の進歩というものが、どういうものであるのか分からなくなってしまった。
いっそのこと文明などなくなってしまった方がいいとまで考えるのだ。

 僕はこの問題のただ一つの解決策として教育方法を改良したらいいと思う。
人間的情緒を養う教育をしたらいいと思う。

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今の日本は何かと言えば勉強、勉強といって勉強だけできさえすればそれでいいという
風潮があるが、それは間違っているという事を国民全体に知らせる事が必要だと思う。
しかし、ここで一つ問題が出てくる。さっき言ったように現在のように高度な社会に
なってしまったものを破壊することは出来ない。少なくとも今の世の中を維持していける人材が必要となる。その人材は高度な教育を身につけた人間でなければならない。
つまり、一方では人間的情緒を教育し、一方では高度な教育を
しなければならないのだ。両方両立できるのにこしたことはない
が、それはむずかしい。その矛盾をどのように克服していくのか
これが、これからの僕たちの問題だと思う。」

 健一は話を終えて席に戻った。
クラスの中が重苦しい雰囲気に包まれた。

「とてもむずかしい問題だと思うけど、どう思いますか?」
阿藤先生がきいた。すぐに手を上げる者はいなかった。

「藤君、君は最初に自分の話など聞かなくていいと言ったけど、こんな重大な話を
どうして聞かなくていいと言ったのですか?」
阿藤先生は健一の失言にこだわっていた。

「僕は何もみんなに問題提起をしたかったわけじゃないんです。ただ、今僕はこんな事
を考えているという事だけをしゃべりたかったからです。」と、健一は返答した。

 いつもならすぐに手を上げて発言する宮脇も黙って座っていた。
阿藤先生は仕方なく出席簿を開けてあてることにした。
「石川君、何かありませんか。」
石川は立ち上がって少し考えていた。

「僕が小さい頃は遊んでばかりいたけれど、今の小学生や中学生は塾に行っている人が
多いという話を聞いてびっくりしています。とてもかわいそうな気がします。

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今の小中学生なんて植物の名前は知ってるけども見たことがないという人が多いのと
違うかな。そんなところに問題があると思う。」

健一は石川の意見を聞いて、彼は自分の言いたい事が少し分かってくれていると思った。

「確かにそうね。もっと自然に接しなければならないと思います。」
と阿藤先生が言うと、
「はい、ちょっと言わせて下さい。」と武居が手をあげた。

「僕は地球は必ず滅びると思っています。まあ藤君が言うように世界大戦が起こり
あっという間に地球は丸焦げになるでしょう。藤君はどうにかしようと思っているようだけど僕はどうにもならないと思う。つまり滅びてしまう運命なのだからそんな事は
考える必要ないと思う。滅びる日まで楽しく生きていけばいいと思う。」

 武居は健一にとって理解しがたい面を持った人間であった。
勉強がよくできると思えばみんなの前でバカな事をしたり、どういう神経
の持ち主なのか健一はいつも不思議に思っていた。
しかし彼の意見を聞いて何か自分と共通点を持っている人間だと思った。
だが、自分と違うのは自分にはどうしても楽しく生きて滅びるのを待つと
いう事はできないという点であった。
 その日の政経の授業は最後まで重苦しい雰囲気のままで終わった。

 健一の本当に言いたかった事は勉強だけしかやらない人間が増えつつあるという事、
さらに社会が本当に頭のいい有望な人材を必要としている中、自分のように頭の悪い
人間は必ずや社会に矛盾を感じ、こんな社会から逃げようと考えるようになるという事
だった。

 健一の本当の気持ちを察した人間はいたのだろうか。
いや、一人いたのだった。
それが誰であるかは健一はのちのちまでわからなかった。

富士 健
作家:富士 健
さよなら命ーくつのひもが結べないー
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