さよなら命ーくつのひもが結べないー

107

「人間というものの出現は、生物学的に言うと単細胞生物から多細胞生物へ、
サルから人間へという進化論が今は信じられている。
それならば人間はこの後何になるのだろうか。
生物学的に最終産物ともいうべき完璧な一つの動物である人間がこのあとどのように
進化するのであろうか。
考えられる事は、こんな世の中に対処していけるような頭脳を持った人間、つまり
コンピュータ人間ではないかと僕は思う。
言うなれば現在、人類出現以来の人間とは違った人間にもう変わりつつあるのだ。
この事はもうすでにいろいろな学者たちによって言われている事であり、
市井三郎著の岩波新書『歴史の進歩とは何か』という本を読みながら僕はとてつもない
不安に襲われた。」

 健一はもう一冊の本を開きながら続けた。
「彼はこの本の中でこう言っている。
人間も他の動物と同じように種内攻撃において和平の儀式を一応発達させている。
しかし、人間は他の動物とは違って抽象的思考能力の進化によって、種内攻撃の能率が
高い武器をも発達させたのだ。
つまり人間の文明は、まさに人類の絶滅の現実的な可能性を目の前にぶらさげるにいたったのだ。
つまり、この高度社会において、脳が発達し、抽象的思考能力だけが発達した人間は
もう人間ではなくなってしまうと言っているのだ。
そしてこの世の中をつぶそうと思えば、ボタン一つで人類は滅びてしまうという現実が
今僕たちの目の前にあるのだ。
誰がそのボタンを押すような人間はいないと言い切ることができよう。
僕は人類の文明の進歩というものが、どういうものであるのか分からなくなってしまった。
いっそのこと文明などなくなってしまった方がいいとまで考えるのだ。

 僕はこの問題のただ一つの解決策として教育方法を改良したらいいと思う。
人間的情緒を養う教育をしたらいいと思う。

108

今の日本は何かと言えば勉強、勉強といって勉強だけできさえすればそれでいいという
風潮があるが、それは間違っているという事を国民全体に知らせる事が必要だと思う。
しかし、ここで一つ問題が出てくる。さっき言ったように現在のように高度な社会に
なってしまったものを破壊することは出来ない。少なくとも今の世の中を維持していける人材が必要となる。その人材は高度な教育を身につけた人間でなければならない。
つまり、一方では人間的情緒を教育し、一方では高度な教育を
しなければならないのだ。両方両立できるのにこしたことはない
が、それはむずかしい。その矛盾をどのように克服していくのか
これが、これからの僕たちの問題だと思う。」

 健一は話を終えて席に戻った。
クラスの中が重苦しい雰囲気に包まれた。

「とてもむずかしい問題だと思うけど、どう思いますか?」
阿藤先生がきいた。すぐに手を上げる者はいなかった。

「藤君、君は最初に自分の話など聞かなくていいと言ったけど、こんな重大な話を
どうして聞かなくていいと言ったのですか?」
阿藤先生は健一の失言にこだわっていた。

「僕は何もみんなに問題提起をしたかったわけじゃないんです。ただ、今僕はこんな事
を考えているという事だけをしゃべりたかったからです。」と、健一は返答した。

 いつもならすぐに手を上げて発言する宮脇も黙って座っていた。
阿藤先生は仕方なく出席簿を開けてあてることにした。
「石川君、何かありませんか。」
石川は立ち上がって少し考えていた。

「僕が小さい頃は遊んでばかりいたけれど、今の小学生や中学生は塾に行っている人が
多いという話を聞いてびっくりしています。とてもかわいそうな気がします。

109

今の小中学生なんて植物の名前は知ってるけども見たことがないという人が多いのと
違うかな。そんなところに問題があると思う。」

健一は石川の意見を聞いて、彼は自分の言いたい事が少し分かってくれていると思った。

「確かにそうね。もっと自然に接しなければならないと思います。」
と阿藤先生が言うと、
「はい、ちょっと言わせて下さい。」と武居が手をあげた。

「僕は地球は必ず滅びると思っています。まあ藤君が言うように世界大戦が起こり
あっという間に地球は丸焦げになるでしょう。藤君はどうにかしようと思っているようだけど僕はどうにもならないと思う。つまり滅びてしまう運命なのだからそんな事は
考える必要ないと思う。滅びる日まで楽しく生きていけばいいと思う。」

 武居は健一にとって理解しがたい面を持った人間であった。
勉強がよくできると思えばみんなの前でバカな事をしたり、どういう神経
の持ち主なのか健一はいつも不思議に思っていた。
しかし彼の意見を聞いて何か自分と共通点を持っている人間だと思った。
だが、自分と違うのは自分にはどうしても楽しく生きて滅びるのを待つと
いう事はできないという点であった。
 その日の政経の授業は最後まで重苦しい雰囲気のままで終わった。

 健一の本当に言いたかった事は勉強だけしかやらない人間が増えつつあるという事、
さらに社会が本当に頭のいい有望な人材を必要としている中、自分のように頭の悪い
人間は必ずや社会に矛盾を感じ、こんな社会から逃げようと考えるようになるという事
だった。

 健一の本当の気持ちを察した人間はいたのだろうか。
いや、一人いたのだった。
それが誰であるかは健一はのちのちまでわからなかった。

110

16、卒業

  2学期が終わった。
健一は3年生全員が受けた公開模試で希望校の判定は不可であった。

「藤、お前阪大の建築科は無理や、他の学科にしろ。」
谷山先生は健一との懇談でそうはっきり言った。
健一は数学が平均しかとれなかった。良かったのは物理と化学だけだった。

「日本史はこれからやれば伸びるだろうが、数学はこの程度だろう。どうしても
建築科にしたいなら大学のランクを落とすしかない。どうだ変えないか?」
谷山先生の声にはいたわりがあった。
谷山先生もこの頃目立って健一が数学の授業で答えられなかったり、定期テストでも
ふるわない事を心配していた。

 谷山先生は自分の言動が生徒にどれだけ影響を与えているのかをよく知っていた。
しかし、谷山先生はお世辞や生やさしい慰めは絶対にしない性格の人であった。
そして自分の言動で自信をなくすような奴は大学に入っても社会に出てもどこかで
必ず自信を失うに決まっている。それが早いか遅いかであり、自分のとっている言動に
よって現実の社会に出ていく人間の心構えを身につけさせているのだ。
自分は間違ってないと確信しているのだった。

 谷山先生は健一がこの頃自信を無くしていることは分かっていたが、健一をその程度の人間であったのだと思うだけであった。
それでも何とかして大学には入ってもらいたいという気持ちもあり、進路指導の時には
努めていたわる口調になっていた。

「どうしても阪大の工学部建築科に行きたいです。」と、健一は言った。
健一の声は震えていた。

富士 健
作家:富士 健
さよなら命ーくつのひもが結べないー
10
  • 0円
  • ダウンロード

107 / 133

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント