父さんは、足の短いミラネーゼ

フランスの風と香りを吸って( 3 / 4 )

パリ、初めての

 

コンシェルジェ

 

あこがれのパリの日々はフォーブル・サントノレから始まった。初めての僕のパリ滞在にあったって、フランスのI社はホテルを、こともあろうにフォーブル・サントノレのど真ん中、エリゼー宮のはす向かいのクラシックなホテルにとってくれた。

もともとフランス本社はこの近くのパレス・ヴァンンドームにあったのだから、彼らからすればフォーブル・サントノレにホテルをとっても不思議ではない。しかし、初めての旅人からすれば、アメリカ風な近代的なホテルしか想像していなかったから、とてもフランス、フランスした世界に偶然入り込んでしまったことになる。

 

四つ星のこのホテルのエレベーターは古く、ガラスと鉄柵に囲まれた優雅な乗り物だ。クラシックなロビーの真ん中から静静と上っていく。建物全体が、どこか、かすかに古き時代の匂いを送ってくる。部屋は通りに面した古い色調で、バスタブはなくてシャワーだけだった。古い、古い匂いが染み付いているようだ。もちろん臭いわけではなくて、空気そのものがオーデコロンのような、遠い時の匂いがする。

 

ホテルを一歩外に出ると、そこはもう有名な店の並ぶフォーブル・サントノレそのものだ。ついたときはもう夕暮れだったから、店のショウウインドは灯が入って、きらきらと、とても優雅だ。ステンドグラスのような、光の屈折がとても店を美しく見せている。コンシェルジェと言う存在を知ったのもこのホテルだった。なんでも相談役で、コンシェルジェが紹介してくれたガイドと会うことになる。こちらの希望を聞いて、それに見合った良い店を一緒に付き合ってくれる。僕のフランス語は大学の第三外国語で1年やっただけだから、まったく駄目。そういう中での、このサービスは本当に助かった。

 

何が食べたいかといって、まずはうまいワインと牡蠣と言うことになる。重い夕食は、いつでもどこでも取れるから、旅人にはちょっとというところ行ってみることになる。白ワインがとてもよくて、牡蠣はいろんな種類が出てきて、どんどん食べられる。生臭さはまったくない。トッピングもいろいろ試してみる。何の脈絡も無く、パリにきたらエスカルゴを、ということになって、その店に連れて行ってもらう。ガーリックトーストとの相性が抜群。やっぱり、ちりちりに冷えた白ワインと言うことになる。あこがれのパリの夜は、ハッピィな夜になった。コンシェルジェのおかげだ。

 

モンマルトル

 

パリはメトロでどこにでも気軽に行ける。モンマルトルは親父の心のふるさと。ピガールで降りて、ゆっくりゆっくり丘を登っていくと、いっぱい、いっぱい懐かしい風景が現れてくる。もちろん物理的には初めてでも、どこかで見たユトリロだったり、ロートレックだったり、佐伯や荻須の世界であったりする。デ・ジャヴというのが本当にいっぱい現れてくるのだ。

 

パリの建物は古くて、味がいっぱい染み込んでいる、という感じがする。坂道に広がる狭い小道を行くと、日本の焼鳥屋みたいな、串焼きを食べさせてくれる屋台みたいな店に出っくわす。串に刺した肉をワインで食べて、さらに歩く。パン屋さんから、長いフランスパンを小脇に抱えた、中年の男性が出てきたり、おじいさんが人力で木の荷車を引っ張っていたり、いたるところに生活が匂う。店の前の清掃もダイナミックだ。水道の蛇口を盛大にあけて、歩道側の側溝に水をザーッと流すと、どんどんごみが坂を水といっしょに下っていって、最後にマンホールの口のなかに吸い込まれておしまいだ。

 

モンマルトルの丘の上から見ると、建物の屋根の煙突たちがとてもいい。いろんな形の、いろんな色の煙突たちが、一軒一軒のアパルトマンを代表しているかのようだ。モルタルの四角い煙突のてっぺんは、たいていオレンジ色の土管のようなパイプ状になっている。煤けて時間を感じさせてくれるものや、ちょっと割れて中の煤が真っ黒に見えたりする。そればかりをカメラで狙って見る。望遠で見ると、ずっと、ずっと、そんな煙突たちが果てしなくパリの町全体に広がっている。街に高低差がこれほどないと、ちょっと気がつかない風景だ。そんな発見が、うんと得をした気分にしてくれる。

 

オランジュリーからマルモッタン

 

パリには、その後何回か滞在することになったが、たくさんあるパリの思い出の中で、やはり一番呆然と立ち尽くしたのは、オランジュリーで始めてモネの大作にとり囲まれたれた時だった。普通の展示室から階段を下りて、一階のちょっと薄暗い部屋に入ったときだった。僕は言葉も感覚も失って立ちすくんでいた。動けなかった。すごかった。少々薄暗い、オーバルな部屋に、モネの睡蓮の連作が置かれていた。

 

僕がやっと気がついて、中央においてあるイスに座り込んでしまったのはどのくらい経ってからだったろうか。とにかく長い長い時間がそこで流れた。MOMAで初めてモネを見たときも、やはりそうだったけれど、瞬間、どこか異次元の世界に自分が取り込まれた感じになる。この2部屋が、もう僕にとってパリでの一番の場所になっていた。

 

ブーロニュの森に近くにマルモッタンを訪ねる。メトロをミュエットで降りて、ラヌラグの庭を横切って歩いていると、僕の大好きな犬、黒いシュナウツァーが颯爽と散歩している。ぼくはフランス語を話せないけれど、身振り手振りで飼主の女性の許可をえてカメラを取り出し、シャッターを切った。僕の家にいるのはミニチュアだけれど、やはり感じは同じだ。子供たちにいい土産ができた。その後、日本に帰って下のちびがスタンダード・シュナウツァーを飼いたいと言って困ったことになったのを思いだす。印象派がスタートする由縁の「日の出」をみてモネ三昧は終わった。

 

パリでは色んな美術館を見たが、僕にとってはモネと、ポンピドウ・センターのシャガールに尽きる。

 

ラ・デファンス

 

僕の仕事でのパリはラ・デファンスだ。最初に行ったときにはI社のヨーロッパ本部は確か、タワー・ノベルにあったと記憶しているが、その後はデファンスに自分の社屋、タワー・パスカルを建てて移ったので、ほとんどがタワー・パスカルの思い出だ。

 

パリに高層ビルができ始めたのはモンパルナスが最初だと思うが、本格的に高層ビル群が作られ始めたのは、パリの旧市街を離れ、セーヌを渡ったすぐのラ・デファンスだ。初めてセーヌを越えてタワー・ノベルの高みからパリを見たとき、「わー」と歓声を上げたのを覚えている。旧市内には基本的に高層ビルはなく、大体4,5階までの建物に統一されて作られているから、タワーから見るとモンマルトルの丘までずっと見通せた。足元がセーヌ川まで鋭角に抉り取られているような錯覚に陥って、立ちすくんだ。

 

オペラから高速電車ですぐだが、ラ・デファンスはパリとは思えない。でも新宿の高層ビル群と違って、職住混在。人の住む沢山のアパートメントが、ビシネスタワーとうまく調和して建てられていて、単なる無機質な町になるのを防いでくれている。またタワーを含めた建物たちが、まるでデザイン・コンクールでもやっているかのように各々が個性的だ。それでいて全体の雰囲気を壊している物はないのがうらやましい。

 

I社の連中もやはりフランス仕込みで、食べものには目がない。自分のビルには勿論立派なカフェテリアがあるのだが、「タワー・パスカルより、フランスI社の入っているタワー・フランクリンのカフェテリアの方が味がいい」と言って、昼休みにタワーの間の連絡通路をぞろぞろ、ぞろぞろかなりの社員が賑やかに移動する。もちろん僕も皆についていった。IDカードを見せれば自由にフランスI社に入ることができた。しかし、突然うまい昼飯をもとめての社員の大移動はできなくなった。僕のいた間に、会社は「フランスI社とヨーロッパI社は別会社。各々のカフェテリアへの補助金の支出も別々。だから、ヨーロッパI社の社員はタワー・フランクリンのカフェテリアを使用しないように」との通達が出た。その後、社員の間で当分ブツブツと不満の言葉が続いたのを覚えている。僕達は残念ながら、タワー・パスカルで食事するしかなくなった。

 

ラ・デファンスでの思い出のなかには、ちょっと苦い思い出がある。ラ・デファンスのヨーロッパI社ではしょっちゅう、各国の人が集まって会議が行われる。その際もちろん公用語は英語だ。

 

会議で本当に悔しい思いを何回もした。例えば、20人位のいろいろな国の人たちが集まっての会議だとする。アメリカ人、イギリス人の英語はまあ何とか分かる。イタリア人、スペイン人、ドイツ人の英語は一度、頭のなかでちょっと考えと分ったりする。だが、僕がいくら頑張ってもフランス語圏の人の英語はもういけない。特にフランス語のイントネーション、アクセントで英語を話されるともういけない。

 

僕の耳はアイウエオを聞くようにできていて、アルファベットをそのまま聞き取れるようには残念ながらできていない。習い覚えた通りの発音とイントネーションで、英語が話されると何とかなるのだが、フランス訛りの発音、イントネーション、アクセントで話されると、それは僕の英語プロセッサーの能力を超えているのだ。会議で何回も聞き返して、理解しようとするのだが、僕一人のために、会議は待っていてはくれない。会議はドンドン先にいってしまうことがある。特にフランス人が議長だったりするともうお手上げ、最悪だ。残念、困った、悔しいと何度思ったことか。

 

アルファベットを聞いて育った人たち、アルファベットを聞く耳をもった人たち、すなわち僕以外の全ての出席者は皆、フランス人の英語を完全に理解しているのだ。後になって少し慣れてくると、フランス訛の英語も耳に入ってくるようになったけれど、短期決戦の会議ではとても太刀打ちできない。「・・・アグレマンってなんだっけ? アグリ-メントなんだ」なんて考えているうちに会議は進む。その後、友達と話して分ったことだけれど、アルファベットをベースとする言語を話す人たちは100パーセント、その子音の発音を聞き取っているのだ。それは例えば、いくら強いインド訛で話されても、子音の多い北欧の国々の人たちの特有の発音も例外ではない。

 

後になって本で読んで分ったのだが、日本人以外の人は、子音のプロセスと母音のプロセスを、脳のなかで分離して行っているようだ。すなわち、子音は右脳、母音は左脳だそうだ。一方、日本人は、言語が身に着く3歳から4、5歳頃までに、子音を右脳でプロセスするように訓練されないと、子音も本来母音プロセッサーである左脳によって、母音と一緒くたに処理されてしまうとのことだ。この幼児期の時機を逃がすと、その後いくら努力、訓練しても左脳の呪縛からは解き放たれない。結果として大部分の日本人は子音のプロセスが基本的に苦手なのだ。

 

原因は日本語。日本語では、子音が単独で存在することはほとんどなく、必ずと言っていいくらい、後ろに母音がくっついてくる。それで子音は右脳でプロセスされることなく、全て左脳にまとめて処理させていることになっているようだ。この現象は、日本語を話す日本人だけに、確認されている事象のようだ。バイリンガルと言われる人たちは3、4歳まで外国で暮らして、子音のプロセスが母音と無関係に聞き取れるらしい。僕のようにカタカナで英語を始めた人間にとってはまったくまったく、うらやましい限りだ。

 

でも、ラ・デファンスで、誰にも分らない英語をしゃべる人達いたのを述べておこう。それはれっきとした英国国民、スコットランド人の一部だった。彼らの発音は、同じイングランドの人たちにも分らないそうだ。とても妙な話ではある。

フランスの風と香りを吸って( 4 / 4 )

モスクワ・シェレメチボ空港

モスクワ・シェレメチボ空港

 

ヨーロッパへ飛ぶのに、昔はとてつもない遠回りをしていた。一番昔はアラスカ経由だった。しかもアンカレッジはまだ良いほうで、ひどい時はフェアバンクスなんて、アメリカ軍の北極基地があるような、氷の真ん中に飛んでから、パリとかロンドンに飛んだものだ。売店以外なんにも無いターミナルで1、2時間も待たされて、とにかく無駄だった。その後、やっとモスクワ経由で飛べるようになった。そのおかげでモスクワのシェレメチボなんて飛行場に何回か降りるはめになった。

 

ある時、大発見をした。滑走路の全体が、着陸する前にどういう加減か非常に良く見えた。びっくりした。一本の滑走路が、平らではないのだ。波打っていて、水平が出てはいないのだ。ちょうど雪が積もっていて、それで白い地面が起伏が起伏でグラデーションになっていて、はっきりその起伏が見えた。一本の滑走路が途中で二回も三回も、緩やかだけれど、丘になったり、下りになったりしているのだ。本当に驚いた。そこに、僕達の飛行機は、降りて行くのだ。着陸して、逆噴射をして、確かに停止するまで、機体がふわふわするのを感じてしまった。ロシア、その頃はまだソヴィエト連邦だったけど、やっぱり大まかなのかなと思った。

 

シェレメチボでは色んな物を買った。マトリョーシュカ、バラライカ、アルメニアのコニャックだとか、キャビアだったりした。そんな売店とか食堂で見たのは、ロシヤ・スタイルの算盤だった。二段になっているのは日本の算盤と同じだが、五の位が五つ玉になっているのだ。どうやって繰り上がるのよく分からなかったけれど、とにかく太ったお婆さんがぱちぱちとそれで外国為替の計算して、それで金を払ったものだ。交換レートは、お婆さんにお任せで、信じるしかほかない。

 

よほどの事が無ければソヴィエトの飛行機には乗るな、という会社の指示があったが、やむをえず、何回か使ったことがある。ヨーロッパに向かう時に何時間も、シェレメチボ空港で待たされた事がある。きちっとした理由説明があるわけでもなく、狭く暗いターミナルで代替の飛行機が来るまで待たされた。まったくサービス精神は見られなかった。スチュワーデスは太ったおばさん。にこりともしない。飛行中は乗客と同じ座席に座って眠り込む。ワゴンがしまってあるギャレットの留め金がちゃんとかかっていなくて、ちょっとした振動で扉が開いて中のプレートやなんかが飛びだしてきても、我、関せずだ。これもびっくりだ。通路に食器なんかが転がっていてもそのまま次のサービスを始めるまで置いておかれる。日本の飛行機に乗ったら、その違いに大感激だった。もちろんチョットやり過ぎのところもあると思うけど。

 

いつだったか、オランダの大学生たちと、東京行に乗り合わせたことがある。彼らは団体旅行で、半ばそのセクションは貸し切りになっていて、賑やかだった。酒が入っていて、たまたま近くに座っていた僕にもグラスを差し出してくれた。もちろん彼らの持ち込みのボトルで、強い酒だった。それはぼくが始めって知った「ジュニーブラ」と彼らの発音していたオランダ・ジンだった。ちょっと独特の匂いがするが、いい酒だった。またジュニーブラの入っていた、素焼きの、ちょっと茶っぽい、背の高いストレートなボトルがとても良くて、まだ半分以上も残っているボトルを、彼らから譲ってもらって、持って帰ったものだ。その後、僕の好きなジンの定番になった。

 

窓の下にはうねうねとシベリアの原野が川のうねりを見せているだけだから、他にすることもない。6時間以上も彼らと飲み続けた。全く修学旅行のノリだった。びっくりしたことが起こったのは、飛行機が日本海に出るとあっと言う間に本州の山々を飛び越えて、太平洋に出た時だった。飛行機が銚子沖の九十九里浜の上空を旋回し着陸のために高度を下げて、片方の翼を上げて機体を傾け、回転し始めた時だ。突然ざーっと、水が天井から窓をつたって、頭の上に降ってきた。右へ傾けば右側に、左へ傾けば今度は左側の窓を水が滴った。

 

あれは真夏だったのだ。軍用飛行機を改造したような代物だから、機体の気密性が弱くて、空気中の水分が、冷たい機体にふれて水滴に化けて天井一面に付いてしまっていたのだ。それが機体のバランスが崩れるたびに水の滝となって落ち込んで来たのだ。何しろ湿度の高い東京だから。悲鳴があがった。皆びっくりした。なかなか体験できない、希有な思い出だ。

 

それ以後は、再びソヴィエトの飛行機に乗る気はなくなった。

 

アメリカでの遭遇( 2 / 8 )

ニューヨーク州

 

ニューヨーク州

 

道は歩けない

 

初めて僕がアメリカに足をふみいれたのは、ニューヨークのジョンFケネディ空港だった。初めてヨーロッパにいった時に比べると、僕の心のときめきは、そんなに高くはなかった。時は9月。ニューヨークに着く前、アラスカやカナダの上を飛んでいるとき見えた地面は、さいしょは真っ白な氷の原っぱ、それが深い赤の地面、さらにだんだん明るい赤に移っていった。ニユーヨーク州の上空では、紅葉が緑と赤の混ぜ模様でとてもきれいで印象的だった。1973年から5年間の、大変なプロジェクトの始まりだった。

 

その頃、ニューヨークはとても怖いところだと聞かされていたから、僕たちはシティには泊まらず、頼んであったリモでニュージャージー州のラムゼーのモテール・ホリディインに入った。みんなで10人ぐらいのグループだった。全員が自分の車を借りることはできなくて、数台の車でのグループ行動だった。

 

モーテルのすぐ目の前に大きなショピング・モールがあったが、ちょっと買い物ものに行きたいなと思っても、しかし、前は歩いては渡れないディバイデッド・フリーウエイだ。しょうがない。車に乗って次の町の出口まで行って、一度フリーウエイを降り、逆方向に走ってやっと目の前のショッピング・モールにたどり着く。人間が歩くことをとんでもなく拒否した世界だった。車が大前提の世界だった。こんなわけだから、一人で歩いてどこかへ行くということはできなくて、グループで車を使って動くことになる。これがみんなにとっては凄いストレスとなった。

 

僕たちが詰めるオフイスは、ルート17をさらに北に上がって山の中、スターリング・フォレストという湖のある自然公園の中にある、人里はなれたソフトウエア開発センターだった。なにしろ「人間は車に乗って移動する」という前提で町ができているから、住宅地の中以外では人が歩く歩道がない。そんな所のふつうの道を、ちょっと近くのレストランまで、5分ぐらいの距離をてくてく歩いて、7、8人もの人が移動すると、次の日にはオフイス中の人が心配して「何かあったのか?」と聞いてくる。親切なのだけれど「ちょっとわずらわしいな」ってな感じになる。それほど人が徒歩で歩くのが、不思議にみえる土地柄のニューヨーク郊外だった。

 

道に沿って家が建っているが、それがまるで芝居の書き割りのように薄っぺらい。一列に並んだと家の裏は、もう森だ、林だ、何にもないだ。リスがぴょこぴょこ遊んでいる。やっぱり地べただなあ、と思う。西部劇なんかで、町の通りや商店とかがあって、その裏はもう原野ってのが出てきたけど、そのまんまがニューヨーク州やニュージャージー州の大部分の感じだった。

 

いろんな人種が一緒に暮らしているからだろうけど、ちょっとした注意書きも、僕たちからすると「きっちり書いてあるな!」ってな感じを受ける。公園に「ごみを捨てるな!」と書くところを「ここにごみを捨てると、あなたは120ドルの罰金を払うことになります」と書いてある。正確ではあるし、明文化してあるから、曖昧さは残らないが、ここまで書くのが誤解を生まない知恵なのだと感心したり、ちょっと考えちゃうなと思ったりもした。

 

家だって自分で作るんだ!

 

友達ができて彼のうちに呼ばれた。とても広い家で、周りは芝生と畑になってる。

彼の住んでいる家は、彼が全部自分自身で、一部屋ずつ次々に作っていているというのにはたまげた。もちろん、建物本体、屋根、外壁は最初に造ってしまう。最初は居間と食堂を完成させ、それから夫婦の寝室がちょうど今完成したばかりだという。DIYがマジで行われているのだ。子供たちの部屋は、今度君たちがくる頃には、完成しているだろうと言っていた。地下は彼の大きな工作室で、電動の大きなツールが完備している。ここで彼は休みになればこつこつと部品を作り、家具を作り、壁材を切り出しているのだ。僕が行った時には、子供達のベッドの骨格が出来上がっていた。その馬力に感心した。

 

アメリカの男性諸君には、まだまだ西部開拓時代の、自分で何とかするという精神が、脈々と生きて、動いていることが印象深かった。その後、何年もの間、彼の家を訪ねることになるのだが、その度に少しずつ彼の家が完成に向かっていくのを確認することになった。彼にとって家を造るってのは、金を払ってぽんと造って終わりというのではないのだと納得した。彼に言わせると、ほんとうは凄い人種差別がアメリカはあるという。彼はドイツ系で、順番から言うと、プロテスタントでもどちらかというと中くらいらしい。なにしろ「WASP」が幅を利かせているらしい。白人、アングロサクソンで、プロテスタントがそれらの意味だ。そんな中で彼は努力してアメリカの代表的な会社、I社で、それなりの地位にいる。しかし、彼に言わせると彼の生活レベルが普通だという。確かに考えようによってはかなり地味で質素かもしれない。日本では自分で部屋を造るなんてのは、どちらかというと地味な感じだ。しかし彼らの考え方からするとまったく普通なことだという。彼にとって家は彼の手作りなのだ。

 

冬の間の食べる野菜類は、みなすべてが自家製だという。もちろん千坪もある家のまわりは、いくらでも畑にすることができる。奥さんの仕事だといっていたが、もちろん彼も休みには収穫なんかを手伝う。そして夏の間に、大きな冷凍庫をいくつもいくつもいっぱいにしておくのだと言っていた。半地下には、そんな野菜のストックがいっぱいだった。自給自足に近いベースができているのには驚かされた。彼の住んでいるところはニューヨークから車で1時間ぐらいの郊外で、いわゆる田舎ではない。こんな生活が実質的なアメリカ人の生活だと驚いた。

 

働き者たち

 

日本人は働き者だといわれているけど、アメリカ人の働きぶりには驚いた。彼らは、定時に退社するのが普通だと思っていたけれど、僕たちの相手達はなかなかタフで、時間なんかあまり気にしないで、やる時はやるって感じだった。

 

前の夜(朝?)に、仲間と朝の1時、2時まで飲んで騒いでいても、翌日は眠い感じも出さずに、朝7時の会議なんかも平気でやってくる。どちらかというと体力のない日本人のほうがオタオタしていることだってある。夜も仕事の進み具合では、夜の10時だって11時だってがんばってやっている。SEという特殊な世界だからかもしれないが、本当によく集中して働く仲間だった。

 

時間をも無視して、ちゃんと期限にまで仕事を上げるということよりも、もっと驚いたことは、彼らの自分自身の仕事に対する誇りと情熱だ。今回導入するシステムを、日本の実情に合わせてデザインを変更することが必要になった。そんな時、僕たち日本人たちもSEだから「ここをこんなふうにこう変更したい」と提案した場合、返ってくる答えは常にこうだった。「希望する機能を決めるのが君たちで、どのようにその要求を満たすかは僕、システム・デザイナーの問題だから、変更のデザインまで言う必要は無い」と。確かにオリジナルのデザインに責任を持ち、全体の姿を含めて彼の持つオーナーシップを考えればこの言葉はあたりまえだ。ところが僕たちも難しい変更を次から次にだしていく時、こうしたら簡単だなあなんて思って、解をつけて出していくと必ず反論が来る。「それは君たちの考えで、僕には解は不要だ。本当の解は僕の仕事だ。」とくる。最初の頃は、こんなことが積み重なると、感情が波立ってきて、いい関係とはいえない空気ができてきたこともある。

 

しかし、一緒になって、デザインを検証していく日々が何日も続くと、いつのまにか彼の言うことの正しさがわかってくる。部分しか知らない僕の考えは、思いもかけないところで使われているそのデザインに対して、もっと大きなミスを起こすような変更だったりする。

 

そして、彼が本当の解決策として構築したデザインは、徹底して明確に文書化され、関連システムのデザイナー達の出席する検証会議の「ウオーク・スルー」にかけられて擦り合わされる。こうしてデザインの正当性と透明性が徹底されて保たれる。その後やっとプログラムのスペックの作成にはいる。こうやって徹底したデザインの保証性が保たれてくのだ。感服した。そうでなくては、デザイナーの頭の中にのみ、全くの「ブラックボックス」としてデザインが閉じ込められてしまうことになる。この方法は、その後日本で、システム・メインテナンスを担当する我々にとって、大変重要な技術となった。彼らは「ホワイトボックス」化のノウハウを、具体的に我々に教えてくれた。そしてこの手法は、単にシステム・デザインの領域だけではなく、プログラミングの方法だとか、はたまたシステムオペレーションの組み方までに及んだ。こうして、彼らは自分たちが作り上げてちゃんと運用しているシステムについて、絶対的な自信と誇りを持っていた。

 

そんなふうに時間が過ぎて、いつか僕たち日本人チームは「問題を解決する提案」よりも「解くべき問題をきちんと定義する」こと、そして「新しい彼らの変更が、本当に我々の問題を解決したか?」の検証に、自分達の役割を変更していった。それがオーナーシップを持った彼らに対するベストのアプローチになった。物の考え方が、一ヶ月も共にやっていると見えてきた。それがとてもいい信頼を生んでいった。最初のデザインが完成した3ヵ月後には、日本人もアメリカ人もすっかり一つのチームに変身していた。

 

ニューヨークの郊外

 

ハドソン川を東から西に渡る橋の一つに僕たちがよく使ったタッパンジー橋がある。ニューヨークステート・ハイウエイの3マイルにもおよぶ有料橋だ。最初びっくりした。トルゲートが東向きにしかないのだ。西へ向う車は通行料を払う必要がない。聞いてみると「どうせ奴らは、またきっと西から東へ帰って来るんだから、その時にもらおう」って言うのだ。いかにも大らかなアメリカらしい発想だと感心してしまった。3マイルは本当に長い。

 

少し行くとセブンレーク・パークウエイへの出口になる。ここには一人で、時にはみんなで、よく気楽にドライブに出かけたものだ。ハリマン・ベアー・マウンテン州立公園の中を走る。小さな湖がいっぱいあって、森の中にキャンプ場やバーベキューサイトが散在している。秋の紅葉は本当に素晴らしかった。日本では奥入瀬渓谷とか奥日光とか紅葉の名所がいっぱいあるが、あえて言えばここセブンレークの紅葉のほうがもっともっと美しいと思った。寒暖の気温差が大きい大陸だから、9月の最初は緑と黄色のコントラスト、その後、赤と黄色と緑のない交ぜになって、最後は暗褐色とくすんだ紅葉色と黄色の病葉の組み合わせになる。その組み合わせが本当にきれいで何回も見に出かけた。ベアー・マウンテンにはスキー場がいくつもある。小規模のものだけど十分楽しめそうだった。夏には、湖で泳いだり、釣りをしたり、ボート遊びをしたり、ゆっくり時間を過ごす。ニューヨークの中心から一時間ちょっとでこんな自然いっぱいの世界に入っていける。

 

僕たちが詰めていたサイトは、冬には湖が凍ってスケートの名所になる。そんな所に雪が降った朝など、町から車で通勤するのはかなり大変だ。凍てついた細い道を登っていくことになる。大きな道はきちんと除雪もしてあるが、大きな道を離れて山に向かって細い道にはいっていくと、もうそこは大変。途中に小さな丘がある。平地から登っていって頂上。そこから一気に下る。この丘が難所だった。タイヤはスノーだから結構すべる。丘の向うからの対向車のことはよくわからないが、同じ方向に向かっていく車たちは、先で何がおきているか丘の斜面だから良く見える。皆、前の車がその丘を越えていくのを下で順番待をしている。

 

前の車が、滑りながらでもうまく斜面の上がりきって峠の向うに消えると、次の車が、やおらスピードを上げてその登りを攻める。時にはうまく路面をつかめないで、途中で止まってしまって、ずるりと下がってくる車もある。そんな時のために、車は、かなり坂の手前で、前の車のチャレンジを見守っているのだ。やっと前がクリアーされて自分の番になる。滑らないようにゆっくりとスピードを上げて坂に向う。登れそうかな、上がれるかなという自問自答が続く。何とか頂上にたどり着いたら、後はブレーキを踏まないで、何とかうまく転がして坂の底にたどり着く。これで、やっと会社に着くことができる。雪の季節は、こんなことの朝の繰り返しが続く。

 

このスターリングフォーレストには、この他にユニークな、ここでしか味わえない道の状況がある。「鹿に注意!」の看板が道に出ている。結構狭い道だから、こんなのを見るとブレーキに足が行く。それはでも本当に大切なことだったのだ。イギリスから来ていたアサイニーが、あるとき突然現れた鹿に衝突してしまった。車は大破して、大鹿は即死。そして彼は全治3ヶ月の大けがをしたのだ。動物が住んでいる領域に人が入り込んだ結果だった。だからここにアサインされると、オリエンテーションで必ず「鹿に注意!」ということになる。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
父さんは、足の短いミラネーゼ
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