父さんは、足の短いミラネーゼ

アメリカでの遭遇( 2 / 8 )

ニューヨーク州

 

ニューヨーク州

 

道は歩けない

 

初めて僕がアメリカに足をふみいれたのは、ニューヨークのジョンFケネディ空港だった。初めてヨーロッパにいった時に比べると、僕の心のときめきは、そんなに高くはなかった。時は9月。ニューヨークに着く前、アラスカやカナダの上を飛んでいるとき見えた地面は、さいしょは真っ白な氷の原っぱ、それが深い赤の地面、さらにだんだん明るい赤に移っていった。ニユーヨーク州の上空では、紅葉が緑と赤の混ぜ模様でとてもきれいで印象的だった。1973年から5年間の、大変なプロジェクトの始まりだった。

 

その頃、ニューヨークはとても怖いところだと聞かされていたから、僕たちはシティには泊まらず、頼んであったリモでニュージャージー州のラムゼーのモテール・ホリディインに入った。みんなで10人ぐらいのグループだった。全員が自分の車を借りることはできなくて、数台の車でのグループ行動だった。

 

モーテルのすぐ目の前に大きなショピング・モールがあったが、ちょっと買い物ものに行きたいなと思っても、しかし、前は歩いては渡れないディバイデッド・フリーウエイだ。しょうがない。車に乗って次の町の出口まで行って、一度フリーウエイを降り、逆方向に走ってやっと目の前のショッピング・モールにたどり着く。人間が歩くことをとんでもなく拒否した世界だった。車が大前提の世界だった。こんなわけだから、一人で歩いてどこかへ行くということはできなくて、グループで車を使って動くことになる。これがみんなにとっては凄いストレスとなった。

 

僕たちが詰めるオフイスは、ルート17をさらに北に上がって山の中、スターリング・フォレストという湖のある自然公園の中にある、人里はなれたソフトウエア開発センターだった。なにしろ「人間は車に乗って移動する」という前提で町ができているから、住宅地の中以外では人が歩く歩道がない。そんな所のふつうの道を、ちょっと近くのレストランまで、5分ぐらいの距離をてくてく歩いて、7、8人もの人が移動すると、次の日にはオフイス中の人が心配して「何かあったのか?」と聞いてくる。親切なのだけれど「ちょっとわずらわしいな」ってな感じになる。それほど人が徒歩で歩くのが、不思議にみえる土地柄のニューヨーク郊外だった。

 

道に沿って家が建っているが、それがまるで芝居の書き割りのように薄っぺらい。一列に並んだと家の裏は、もう森だ、林だ、何にもないだ。リスがぴょこぴょこ遊んでいる。やっぱり地べただなあ、と思う。西部劇なんかで、町の通りや商店とかがあって、その裏はもう原野ってのが出てきたけど、そのまんまがニューヨーク州やニュージャージー州の大部分の感じだった。

 

いろんな人種が一緒に暮らしているからだろうけど、ちょっとした注意書きも、僕たちからすると「きっちり書いてあるな!」ってな感じを受ける。公園に「ごみを捨てるな!」と書くところを「ここにごみを捨てると、あなたは120ドルの罰金を払うことになります」と書いてある。正確ではあるし、明文化してあるから、曖昧さは残らないが、ここまで書くのが誤解を生まない知恵なのだと感心したり、ちょっと考えちゃうなと思ったりもした。

 

家だって自分で作るんだ!

 

友達ができて彼のうちに呼ばれた。とても広い家で、周りは芝生と畑になってる。

彼の住んでいる家は、彼が全部自分自身で、一部屋ずつ次々に作っていているというのにはたまげた。もちろん、建物本体、屋根、外壁は最初に造ってしまう。最初は居間と食堂を完成させ、それから夫婦の寝室がちょうど今完成したばかりだという。DIYがマジで行われているのだ。子供たちの部屋は、今度君たちがくる頃には、完成しているだろうと言っていた。地下は彼の大きな工作室で、電動の大きなツールが完備している。ここで彼は休みになればこつこつと部品を作り、家具を作り、壁材を切り出しているのだ。僕が行った時には、子供達のベッドの骨格が出来上がっていた。その馬力に感心した。

 

アメリカの男性諸君には、まだまだ西部開拓時代の、自分で何とかするという精神が、脈々と生きて、動いていることが印象深かった。その後、何年もの間、彼の家を訪ねることになるのだが、その度に少しずつ彼の家が完成に向かっていくのを確認することになった。彼にとって家を造るってのは、金を払ってぽんと造って終わりというのではないのだと納得した。彼に言わせると、ほんとうは凄い人種差別がアメリカはあるという。彼はドイツ系で、順番から言うと、プロテスタントでもどちらかというと中くらいらしい。なにしろ「WASP」が幅を利かせているらしい。白人、アングロサクソンで、プロテスタントがそれらの意味だ。そんな中で彼は努力してアメリカの代表的な会社、I社で、それなりの地位にいる。しかし、彼に言わせると彼の生活レベルが普通だという。確かに考えようによってはかなり地味で質素かもしれない。日本では自分で部屋を造るなんてのは、どちらかというと地味な感じだ。しかし彼らの考え方からするとまったく普通なことだという。彼にとって家は彼の手作りなのだ。

 

冬の間の食べる野菜類は、みなすべてが自家製だという。もちろん千坪もある家のまわりは、いくらでも畑にすることができる。奥さんの仕事だといっていたが、もちろん彼も休みには収穫なんかを手伝う。そして夏の間に、大きな冷凍庫をいくつもいくつもいっぱいにしておくのだと言っていた。半地下には、そんな野菜のストックがいっぱいだった。自給自足に近いベースができているのには驚かされた。彼の住んでいるところはニューヨークから車で1時間ぐらいの郊外で、いわゆる田舎ではない。こんな生活が実質的なアメリカ人の生活だと驚いた。

 

働き者たち

 

日本人は働き者だといわれているけど、アメリカ人の働きぶりには驚いた。彼らは、定時に退社するのが普通だと思っていたけれど、僕たちの相手達はなかなかタフで、時間なんかあまり気にしないで、やる時はやるって感じだった。

 

前の夜(朝?)に、仲間と朝の1時、2時まで飲んで騒いでいても、翌日は眠い感じも出さずに、朝7時の会議なんかも平気でやってくる。どちらかというと体力のない日本人のほうがオタオタしていることだってある。夜も仕事の進み具合では、夜の10時だって11時だってがんばってやっている。SEという特殊な世界だからかもしれないが、本当によく集中して働く仲間だった。

 

時間をも無視して、ちゃんと期限にまで仕事を上げるということよりも、もっと驚いたことは、彼らの自分自身の仕事に対する誇りと情熱だ。今回導入するシステムを、日本の実情に合わせてデザインを変更することが必要になった。そんな時、僕たち日本人たちもSEだから「ここをこんなふうにこう変更したい」と提案した場合、返ってくる答えは常にこうだった。「希望する機能を決めるのが君たちで、どのようにその要求を満たすかは僕、システム・デザイナーの問題だから、変更のデザインまで言う必要は無い」と。確かにオリジナルのデザインに責任を持ち、全体の姿を含めて彼の持つオーナーシップを考えればこの言葉はあたりまえだ。ところが僕たちも難しい変更を次から次にだしていく時、こうしたら簡単だなあなんて思って、解をつけて出していくと必ず反論が来る。「それは君たちの考えで、僕には解は不要だ。本当の解は僕の仕事だ。」とくる。最初の頃は、こんなことが積み重なると、感情が波立ってきて、いい関係とはいえない空気ができてきたこともある。

 

しかし、一緒になって、デザインを検証していく日々が何日も続くと、いつのまにか彼の言うことの正しさがわかってくる。部分しか知らない僕の考えは、思いもかけないところで使われているそのデザインに対して、もっと大きなミスを起こすような変更だったりする。

 

そして、彼が本当の解決策として構築したデザインは、徹底して明確に文書化され、関連システムのデザイナー達の出席する検証会議の「ウオーク・スルー」にかけられて擦り合わされる。こうしてデザインの正当性と透明性が徹底されて保たれる。その後やっとプログラムのスペックの作成にはいる。こうやって徹底したデザインの保証性が保たれてくのだ。感服した。そうでなくては、デザイナーの頭の中にのみ、全くの「ブラックボックス」としてデザインが閉じ込められてしまうことになる。この方法は、その後日本で、システム・メインテナンスを担当する我々にとって、大変重要な技術となった。彼らは「ホワイトボックス」化のノウハウを、具体的に我々に教えてくれた。そしてこの手法は、単にシステム・デザインの領域だけではなく、プログラミングの方法だとか、はたまたシステムオペレーションの組み方までに及んだ。こうして、彼らは自分たちが作り上げてちゃんと運用しているシステムについて、絶対的な自信と誇りを持っていた。

 

そんなふうに時間が過ぎて、いつか僕たち日本人チームは「問題を解決する提案」よりも「解くべき問題をきちんと定義する」こと、そして「新しい彼らの変更が、本当に我々の問題を解決したか?」の検証に、自分達の役割を変更していった。それがオーナーシップを持った彼らに対するベストのアプローチになった。物の考え方が、一ヶ月も共にやっていると見えてきた。それがとてもいい信頼を生んでいった。最初のデザインが完成した3ヵ月後には、日本人もアメリカ人もすっかり一つのチームに変身していた。

 

ニューヨークの郊外

 

ハドソン川を東から西に渡る橋の一つに僕たちがよく使ったタッパンジー橋がある。ニューヨークステート・ハイウエイの3マイルにもおよぶ有料橋だ。最初びっくりした。トルゲートが東向きにしかないのだ。西へ向う車は通行料を払う必要がない。聞いてみると「どうせ奴らは、またきっと西から東へ帰って来るんだから、その時にもらおう」って言うのだ。いかにも大らかなアメリカらしい発想だと感心してしまった。3マイルは本当に長い。

 

少し行くとセブンレーク・パークウエイへの出口になる。ここには一人で、時にはみんなで、よく気楽にドライブに出かけたものだ。ハリマン・ベアー・マウンテン州立公園の中を走る。小さな湖がいっぱいあって、森の中にキャンプ場やバーベキューサイトが散在している。秋の紅葉は本当に素晴らしかった。日本では奥入瀬渓谷とか奥日光とか紅葉の名所がいっぱいあるが、あえて言えばここセブンレークの紅葉のほうがもっともっと美しいと思った。寒暖の気温差が大きい大陸だから、9月の最初は緑と黄色のコントラスト、その後、赤と黄色と緑のない交ぜになって、最後は暗褐色とくすんだ紅葉色と黄色の病葉の組み合わせになる。その組み合わせが本当にきれいで何回も見に出かけた。ベアー・マウンテンにはスキー場がいくつもある。小規模のものだけど十分楽しめそうだった。夏には、湖で泳いだり、釣りをしたり、ボート遊びをしたり、ゆっくり時間を過ごす。ニューヨークの中心から一時間ちょっとでこんな自然いっぱいの世界に入っていける。

 

僕たちが詰めていたサイトは、冬には湖が凍ってスケートの名所になる。そんな所に雪が降った朝など、町から車で通勤するのはかなり大変だ。凍てついた細い道を登っていくことになる。大きな道はきちんと除雪もしてあるが、大きな道を離れて山に向かって細い道にはいっていくと、もうそこは大変。途中に小さな丘がある。平地から登っていって頂上。そこから一気に下る。この丘が難所だった。タイヤはスノーだから結構すべる。丘の向うからの対向車のことはよくわからないが、同じ方向に向かっていく車たちは、先で何がおきているか丘の斜面だから良く見える。皆、前の車がその丘を越えていくのを下で順番待をしている。

 

前の車が、滑りながらでもうまく斜面の上がりきって峠の向うに消えると、次の車が、やおらスピードを上げてその登りを攻める。時にはうまく路面をつかめないで、途中で止まってしまって、ずるりと下がってくる車もある。そんな時のために、車は、かなり坂の手前で、前の車のチャレンジを見守っているのだ。やっと前がクリアーされて自分の番になる。滑らないようにゆっくりとスピードを上げて坂に向う。登れそうかな、上がれるかなという自問自答が続く。何とか頂上にたどり着いたら、後はブレーキを踏まないで、何とかうまく転がして坂の底にたどり着く。これで、やっと会社に着くことができる。雪の季節は、こんなことの朝の繰り返しが続く。

 

このスターリングフォーレストには、この他にユニークな、ここでしか味わえない道の状況がある。「鹿に注意!」の看板が道に出ている。結構狭い道だから、こんなのを見るとブレーキに足が行く。それはでも本当に大切なことだったのだ。イギリスから来ていたアサイニーが、あるとき突然現れた鹿に衝突してしまった。車は大破して、大鹿は即死。そして彼は全治3ヶ月の大けがをしたのだ。動物が住んでいる領域に人が入り込んだ結果だった。だからここにアサインされると、オリエンテーションで必ず「鹿に注意!」ということになる。

アメリカでの遭遇( 3 / 8 )

ホワイトプレーンの冬

ホワイトプレーンの冬

 

ニューヨークのダウンタウンから北へ1時間ほど走ると、もうそこはニューヨークの喧騒とは無関係な、自然の真っ只中に広がる住宅地だ。ウエストチェスター郡のホワイトプレーンという小さな町だ。もともとはニューヨークの街中を離れたニューヨーカー達が自分らしい住まいを求めてやって来たところだ。緑が多くて、なだらかな丘陵地でもある。

 

僕の会社のアジア・オセアニア本部は、あの大金持ち、ロックフェラー氏の持つ広大な林と住宅の散在する地域の中、池の辺に建てられていた。建物自体は結構でかいのだが、木々の間でこぢんまりと見える。環境協定がきっちり出来ていて、建物は周りの木立の中に、すっぽりと隠れることが条件。結果として、たったの2階建てしか認められなかった。もちろん自然だらけで、ちょっと足を伸ばすと、ハドソン川の川面が、ロックフェラー庭園の先に広がっていた。いろんな季節に訪れたが、冬には建物のすぐ側にある、小さな池に鴨たちがいっぱいやって来た。

 

こんな田舎にも、ちゃんとメーシーなんかがあって、いろんなブティックも結構あり、生活レベルは高いところだった。どうしてだったか忘れてしまったが、こんな田舎に極寒の2月のさなか、2、3週間も滞在することになってしまった。日本の冬の感覚で、トレンチコートとマフラー、それに現地で買った手袋で、この日々を過ごす羽目になった。

 

僕が滞在するホテルはちゃんとしたホテルで、モーテルではなかった。そのホテルは町中にあったが、ショッピングや食事にはどうしても外に出る。しかもこの年はやけに雪が多かった。町の中も雪だらけで、車は狭くなった道をすれ違うのにとても苦労していた。もちろん歩きだって大変だ。薄い防寒着のために、僕の体は零下20度以下の寒さでこちこちになってしまった。ちょっと建物や車の外に出ると、背中がドンと押されるように寒さに押し上げられる。そうかといって、こちらの人たちが着ているような分厚い毛皮やキルティングのコートは買うのには抵抗がある。日本に持って帰っても、北海道かどこかの雪国に行かなくっちゃ、とても着られものじゃない。飛行機に乗っける荷物だって空気を運んでいるみたいになる。そんなわけで薄っぺらいトレンチコートでもって、その3週間ぐらいを我慢して過ごした。

 

その年は何時になく寒く、しかも雪が多かった。車を運転するのも大変。自分で運転して郊外のサイトまで通うのは危険だと思って、毎朝タクシーを頼む。日本でいうと函館ぐらいのニューヨークの北だから、車は当然チェーンを巻いて、スパイクだと思うのに、簡単なスノータイヤのまんま走っていく。前の方に車が止まっていようものなら、遠くからポンピングしながら、すべるの計算しながら近づいていく。心のなかで「止まれ、止まれ!」と叫びはするが、自分でブレーキを踏んでいるわけではないから車は滑っていく。テカテカのアイスバーンのうえでは、こんな冷や汗も出るのだ。

 

田舎町でもやはり交通量が少ないと、森の中は深閑とした感じになる。鹿や熊も出て来るという所だから、公共交通機関はタクシー以外にはなんにもない。この冬は、僕のいた2、3週間の間に、そのサイトは何度か、急に雪のために閉鎖されることとなった。働いていたり、会議をしたりしていると、サイト全体に急に放送が流れる。「このサイトは午後3時を持って閉鎖されます。全員、退去してください。」という具合だ。僕は短期滞在者だから、そんなに知人はいない。町まで乗っけてもらう人を探すのが大変だ。みんな、あせっているから、人はどんどんいなくなってしまう。とにかく、町の方向へ帰る人を見つけるのが一苦労だ。いつもは一冬でこんなことが、繰り返されることはあまりない、ひどい冬だった。

 

ホワイトプレーンズ・ホテルは、とても静でしかも町中にあって、食事に出かけるのも便利だった。行きつけは、いつのまにか僕の古い思いがそうさせたのだろうが、イタリアンレストランだった。ホテルから歩いて5分ぐらいの所にあった。僕が入っていくのは、いつもその店の裏口からだった。表にはかなり遠回りしていかないと辿りつけない。雪道で遠回りすることは無い。だから裏口専門だ。

 

凍てついた氷の世界から裏口に飛び込んだものだ。他に行く所があまりないから、いつのまにか、常連さんになってしまった。味はいいのだが、何しろグニャグニャの茹で過ぎスパゲティは、とてもたまらない。とっかえひっかえして、レストランのメニューをほとんど食べ尽くしてしまった。薄暗いランプにてらされた、木造小屋の雰囲気は懐かしい思い出になった。

 

寝るまでには、もっと大変な苦労がある。ホテルの部屋のドアを開けるのは、本当に恐怖だ。静電気がバチンと襲ってくる。廊下は乾燥の局だからだ。悪いことに絨毯が電気を盛大に起こしてくれる。どんなにすり足を避けて歩いても、静電気は待っている。

 

ホテルの部屋でも大変なことが起きていた。空気が乾燥して、喉がガラガラ。風邪はなかなか治らない。仕方がないから、バスタブにお湯を落としてバスルームの扉を開け放して湿度を部屋に補給する。それでも足りないから、バスタオルをびしょびしょに濡らして、イスとかスタンドとかにかけておく。最後には床のカーペットに水を播く羽目になる。それでも空気はカラカラに乾燥していく。そんな日々が続き、ある日とんでもないことが起こった。僕の部屋の窓がどんどん見えなくなっていった。気がつくと、何時の間にか、僕の部屋の窓という窓は、全て天井から下の窓枠まで、ギッシリと厚いツララのような、氷で覆われてしまった。棒状の氷が窓のガラスに凍りつき、デコボコもできて氷柱そのものだ。もう透明なところはなくて、外はまったく見えない。厚いデコボコの曇りガラスの中に、いつか僕は閉じ込められてしまっていた。おかげで、僕の部屋はいつも薄暗くて、外のクリヤーな世界が見えてこない。何度か融かそうとして、手で撫でてみたのだが、とても間尺に会わない。手が冷たくなって、ちょっとだけ氷が手のなかで溶けるくらいのものだ。

 

そんな部屋に、メイドもあきれてはいたのだろうが、文句も言われず、僕はそのホテルで極寒の2月を過ごした。僕がその部屋を出た後に、その氷たちはどうなったのだろうかといつも思った。その後、僕はそのホテルに泊まるのをためらった。零下20度の冬は得難い思い出だ。

アメリカでの遭遇( 4 / 8 )

怖かったフライト

怖かったフライト

 

日本からのフライトでは、JFK(ジョン・F・ケネディ空港)への着陸は、遠くロングアイランドの沖の方まで、うんと迂回して大西洋の方から、陸に向かってアプローチするのが普通だ。しかし僕たちは、マンハッタンの高層ビル群をかすめながら、北のほうから直接、JFKに近づいたことがある。しかもふらつきながら。

 

僕たちはその日、ニューヨーク発・東京直行便を、出発ゲートでもう4時間以上も待っていた。メカニカル・トラブルという奴で、いつになったら直るのかな、と恨めしそうに鼻先のあたりのペンキがはがれた、ちょっと疲れたような感じのその機体を見ていた。飛行機に乗り込むアナウンスを待っていた。やっと搭乗開始で、その時点で東京に着くのはいつになるのかな、なんて考えていた。とにかく待ち疲れていた。

 

水平飛行に移るとすぐ食事になった。五大湖あたりを飛んでいる時にはもうコニャックなんかをなめていた。カナダ上空に入ったなと思っていると、急に大きく機体が揺れた。別に音はしない。しばらくしても機体の揺れは落ち着かない。どうしたんだろうと思って外を見ていた。主翼の上についている、機体を安定させる小さな板が、小刻みに動いて機体の左右への揺れを防いでいる。しかし、いつもと安定度が違う。ちょっと変だなと思った。

 

どのぐらいそんな状態が続いたのかよく覚えていないが、アメリカ人機長のアナウンスがあった。この飛行機は、オイル圧力コントロールの機能が正常に働いていないので、機体を安定がうまく保て無い状態にある。そのため手動で、機体の安定を保って飛んでいるとのことのように理解した。乗客の間にざわめきが起こった。確かに機体は左右のバランスのとり方がスムーズではなくて、怖くはないのだが、一方の翼が反対側の翼より上に行ったり、逆に下に行ったりして水平が安定して保れていない。少し皆の間に動揺が広がった。

 

しばらくそのままのフライトが続き、機長から改めてアナウンスがあった。この飛行機は、安全のためJFKに引き返すとのことだった。太平洋を横断するのだから、安全は最重要だ。でもこの時から、僕たちの異常な経験が始まった。大きく片方の翼を上げてUターン。着陸時の安全のため、太平洋を横断するために積み込んだ満タンの燃料を空中放出するという。主翼の先から霧になって燃料が空中にばら撒かれていく。もちろん禁煙のサインは出ているのだが、雷かなんかで引火したらひとたまりもない。空は曇りだ。白く燃料のガスが流れ出て行くのを見ていた。その間も機体は小刻みに左右にゆれている。しかし直接的な危険は感じていなかった。とにかく早くJFKに戻ってくれと願っていた。カナダの、どこかの飛行場でもいいじゃないかとも考えた。

 

 

とても長くかんじられた時間が過ぎて飛行機は、ニューヨークに近づいた。その時だ。JFKに着陸するのに、その飛行機は、まさにマンハッタンの上空を低空で、しかも低速で飛行しているのを知ったのは…。機体はいぜんとして、チャリンコがふらつくように、左右にゆれて安定しない。高層ビルが、すぐ目の下にある。こんなところはふつう、飛べないなあと思った。いつものロングアイランドの姿はない。太西洋に出るようなそぶりはない。ああ、真っすぐに入っていくんだなと思った。

 

着陸用の大きなフラップが、ゴリゴリと音を立てて主翼から出て行く。それが風圧でゆれている。アナウンスがあって、僕たちは眼鏡をはずし、時計とか腕輪とか、身につけた金属という金属をはずし、すべての手荷物を格納した。そして、みんな自分のひざの上に上半身を突っ伏し、防御の姿勢をとった。エンジン音が大きく聞こえる。突っ伏しているのだから外の様子は見えない。音と振動だけが僕たちへのフェードバックだ。高度を下げていくのが分かる。エンジン音が急に小さくなる。ゴゴゴオーンと振動がきた。着地だ。エンジンの逆噴射が異常に大きく響く。機体が滑走しているのが、とても長い時間に感じた。止まった!突然、皆が拍手した。よかったなーと、やっと顔をあげた。

 

窓の外を見ると、消防車が何台も我々の飛行機を取り囲んでいる。化学消防車やアンビュランスも何台もやって来ている。消防車たちは放水銃をすべて我々の方に向けていつでも放水するぞ、と待ち構えているのが見える。すべての緊急車両が赤と青のランプを回転させている。非常事態なのだ。僕たちはすっかり取り囲まれている。その時、僕は始めて怖さを感じた。僕たちは本当に危険なのだ!エンジンは滑走路の真ん中で、シャットダウンされたままだ。自分でタクシーをして、ターミナルには行けない。空港は閉鎖されているようだ。

 

タグの車が来るのが見える。曇り空のJFKは、僕たちの飛行機を取り囲んで静かなように見える。静まり返っているように見える、何かが起こることを予想して?

恐怖だ。やっとタグがやって来て、僕たちは彼に引かれてターミナルに向う。ゆっくりと機体が動いた。ほっとする。これでやっと休めるぞ、と。ところがだ、僕たちの機体がゆっくりとターミナルに向かう間も、緊急自動車たちは、僕たちに放水銃の銃口を向けたまま、そのままの陣形で、僕たちを取り囲んだまま飛行機について来るのだ。機体が発火する危険はまだ消えてはいないのだ。ゆっくりゆっくり僕の飛行機は、タグに引かれてターミナルに近づいて行った。

 

僕たちは、それからもまだ待たされた。すぐに変わりの飛行機が準備され、それに乗り換えて日本へ飛び立てると思っていた。ところが、航空会社は代替の機体は準備できないので、同じ機体を修理して日本まで飛ぶというのだ。「ちょっと待ってくれよ!」ってことになる。何人かはキャンセルして、その日、飛ぶのをやめたり、他の航空会社に便を変更したりしていた。僕たちはそれもできず、ロビーでぐったり疲れて、修理が終わるのを待っていた。おいおい、またこんなボロ飛行機で12時間も太平洋を越えるのかよって思いながら。どんどん僕たちを追い越して、日本に向けて飛び立つ、ほかの航空会社の飛行機を見上げながら、僕たちは待ちつづけた。

 

僕たちが、その同じ飛行機に乗って東京に到着したのは予定の20時間遅れ。

最悪のフライトだった。

 

アメリカでの遭遇( 5 / 8 )

合衆国国道一号線

合衆国国道一号線

 

アメリカのルート001は何処から始まっているかご存じだろうか?フロリダ半島の南端から、さらにメキシコ湾に向かって小島が転々とつながった、もうキューバに近いさんご礁の島々の終点、キーウエストからだ。その町から、ルート001はアメリカ大陸の東海岸をドンドンと、ニューヨークに向かって北上していくのだ。

 

キーウエストは、マイアミから海上250キロは離れているのだろうか。僕達はそんな町に向かってマイアミから車にのって海の上を走っていった。キーウエストからキューバのハバナまで200キロ弱で、キューバは本当に目と鼻の先と言うことになる。

 

キーズというのは、片方がメキシコ湾、片方が大西洋の島々のつながりだ。さんご礁の小島たちが集まって、この海の上に陸地が点々とする構造を作ったようだ。キューバ危機の時に、これらの小島伝いにアメリカ軍が軍用道路を兼ねてつくった高速道路の橋が架かっている。ほとんど海の上にかかる橋だから、車の中からだと、窓の外は右も左もそのまま海。走っていると言うより、感覚的には自分が海の上を超低空で飛んでいるようだ。

 

そして行き止まりがキーウエストだ。一年中観光客が多くて、ヘミングウエィが好んで過ごした町でもある。南の花がいっぱい咲いていて、もちろんシーフードがとびきり安くておいしい。僕達はルート001の基点を確認してから食事をした。緑いっぱいの庭に並べられたテーブルで、南海の光を浴びてゆっくりと昼飯をとった。

 

行きも帰りも、車は海の上を飛んでいく。軽飛行機に乗って低空を飛んでいくみたいな感覚で、早く、しかし非常にゆっくりした感覚にもなる。対向車が視界に入ってくると、相対的なスピード感が急に戻ってくるのだが、そうでなければ単調な時間が過ぎていく。

 

ほんとうの楽しみ方は、どれか小さな島のひとつに泊まって、ゆっくりとメキシコ湾でヨットをやったり、海に潜ったり、釣りをしたり、美味いものを食ったり、冷え切ったヴェルモットでもなめているのだろうが、旅人の我々にはとどまる島はない。すっ飛んでいくだけだ。せめてキーウエストでゆったりと昼飯して、ショッピングを楽しんで、とんぼ返りでこのルート001を飛ばしてマイアミまで戻る。

 

海の上の島々ハイウエイが終わって、ワニのうじゃうじゃ住んでいる沼地に戻ると、もうそこはマイアミに近い。フロリダにはいっぱいワニが自生している。実はフロリダは湿地帯が多いのだ。僕の友達にフォート・ローダーデールに住んでいた奴が言っていたが、日本から連れていった芝犬が、家の前の沼でワニに襲われそうになったそうだ。気味の悪いところでもある。確かに沼地を覗き込んでみると、いるわ、いるわ。あまりかわいらしいとは思わない。

 

マイアミは大西洋に面した避寒地だ。何にもない。ハイ・シーズンは冬だ。冬はコンドミニアムもホテルも、部屋代がとっても高くなるって聞いた。僕達のホテルは浜辺に面している。フロリダ半島から見る大西洋から昇る太陽はでかくて壮観だった。特別に太平洋に昇る朝日と変りないはずだが、感覚的にはとても新鮮な感じだ。すごく早く目が覚めたからだろうか。浜へ出てみる。真東が浜の正面だ。広い砂浜は確かにきれいだ。日本で、ちんまりと切り取られた海岸を見慣れた僕には、広い広いと感じた。早朝は風も軽やかで、人々がジョギングで浜を遠くまで動いていく。

 

マイアミって特別どうってことはなく、日本で言えばいえば熱海みたいだ。古くからの湯治場のホテルをいっぱいいっぱい集めて、そして大きくしたような感じのところだ。リタイアメントのお年寄りが日がな一日、いろんなことで時間を過ごすことができるように配慮されている。ダンスをしたり、バンドで音楽を聞いたり、カジノをやってみたり、泳いで見たり、適当な運動ができたり、もちろんうまい食事もできて、ダイエット食もあって、何でもお好み次第だ。ゆったりと、しかしちょっとむなしい日々の連続だともいえるような感じだ。要はお年寄り中心の町で、若者は海でがんばるしかないような感じのところだ。フロリダは、退職したみんなが余生を過ごしたいと希望する特異な州だと聞いた。

 

フロリダでは、やはりシーフードが僕たち日本人には大受けだ。けっこう足繁く通うことになる。日本に比べると、ロブスターなんか安くて、びっくりするほどでかく、でもほんとうにおいしい。なかなか刺身ではだしてはくれないが、軽くボイルしたロブスターを、店が出すバターソースを断って、レモンと塩で食べる。こうすると日本人の味覚にぴったりだ。

 

フロリダでの大発見は、ストーンクラブと言う蟹だ。鮮やかなオレンジ色と、黒と白のペイントで色付けしたような、きれいな大きな爪がでてくる。しかも爪ばかりが出てくる。店で聞いた話では、このストーンクラブは非常に貴重な蟹で乱獲はできない。漁師は捕まえても、サイズを測り、小さいものは海に戻す。さらに立派に大きく蟹でも、両方の爪を一度に取ってしまってはいけないという規則があるそうだ。必ず一本の爪を残したまま海に放してやるのだそうだ。蟹はその残りの爪で漁をして生き延びる。そうするうちに、もう一度立派な爪が再生してくるのだそうだ。このアイデアには感心した。

 

石のように硬い殻を、道具を使って壊して爪を取り出すと、もうこれは二杯酢を作って食べるしかない。身が締まっていて、ほんとうにうまかった。この蟹を絶やさないために、手間ひまかかる漁をやっている漁師さん達に感謝だった。食べ終わって、フィンガーボールで手を洗って、白のワインに手を伸ばすとき、幸せの一語だ。

 

フロリダ東海岸には、フォート・ローダーデールとか、パームビーチとか素晴らしい町がいっぱいあるが、アメリカ人が言う、リタイアしたらフロリダに住みたい、と言う気持は、僕のものではないと言うのが感想だ。なんだか、あまりにもぐうたらな生活にどっぷり浸かってしまいそうだと思ったからだ。

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
父さんは、足の短いミラネーゼ
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