虹の無い街

第1章 米軍の街( 5 / 5 )

危険な遊び

 小学校の頃は、今のように家で遊ぶ物が乏しくていつも友達といろんな場所で

遊んでいました。友達と言うより仲間といった感じです。

年齢が様々です。上は、小学6年生に下が1年生といった年齢層で同級生だけで

遊ぶ事はありませんでした。

小学校2年位の時によく米軍基地の弾薬庫の近くに廃棄される火薬があり

大きさは粒状でストローを1センチ位に輪切りにした大きさで色は黒くて火を近づけると

凄い勢いで燃える火薬です。雨に濡れても大丈夫ですのでその火薬が捨ててある

場所に行きました。その場所は完全に基地の中ですフェンスが破れている所から入り

そのゴミ捨て場に行きます。

 

特にその火薬で何かを作るわけではなく単に火を点けて花火と同じように遊ぶだけ

今考えるとどうしてあんな無茶な遊びをしたのか判りません。

フェンスから入り約50メートル程の場所にありました。無造作に捨てられた段ボール

にいろんな戦地で使う非常食の缶詰や古ぼけたベルトそれに米軍の靴等が

捨ててありその中に混じって木箱が捨ててありその中にボール紙で出来た小さい箱が

あってそれを開けるとザーッと小さい粒状の火薬がこぼれます。

それを両手で持ちポケットに入れて早めに退散しないとまずいです。暫らくすると

案の定MPが乗ったジープが凄い勢いで向かってきます。

フェンスまで必死で逃げるのですがどうしても遅い子がいるんです。

私よりひとつ上の小学校3年生がフェンスの近くで転んで捕まりました。

 

その後その子は、夕方ごろ民間の警察署に連れて行かれて親が厳重注意され

何事もありませんでした。

私たち仲間は、空家のような古ぼけた家畜小屋のような場所に集まり

「戦利品の品評会だ」などと言いながらポケットや袋からいろんな物をだします。

例の火薬や缶詰類それに時計の壊れた物やナイフもありました。

ビックリしたのは小3の子が持っていた布袋に入ってたのが機関銃の弾でした。

しかも未使用の銃弾でベルトのような物に並んで納まっていておよそ30発位です。

当時米兵は銃弾も普通にゴミ捨て場に捨てていたんだと思うとぞっとします。

米兵に一人捕まったけどその子を深く追求する事も無く親元に帰してくれたので

一緒に基地内に侵入した私たちの事は特に何もなかったです。

翌日、そのフェンスの近くまで行くと破れた場所が補修されていて中には入れません。

仕方がないのでその機関銃の弾を紙袋に入れてフェンスから投げ入れて戻しました。

 

その頃は、いろんな場所で不発弾や未使用の銃弾が見つかりそれを子供がハンマーで

叩いて暴発させた事故がかなりありましたので銃弾で遊ぶような事はするなと親から

言われていたのでそれはしっかり守りました。ただ、自分たちのやった事は大変な事で

決して許される事ではありませんでした。それ以降は米軍基地に入る事はなかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第2章 遅れた教育( 1 / 4 )

学校給食

 最近は、学校給食の問題でいろいろ問われています。

給食費を払わない親やある地域では学校給食の業者が断ると言う地域も出ています。

私が小学校の頃は、給食がなく校内の調理場で粉のミルクを鍋にいれそこにお湯を入

れてかき混ぜながら溶かしていました。

入れている粉のミルクは(脱脂粉乳です)このミルクをどこから持ってくるのか判らない

けど、いろいろな噂がたっていました。

米軍基地から持ってくる粉ミルクでアメリカでは、豚の餌に使われているようだよとか

牛乳は栄養があるけど脱脂粉乳は、牛乳からすべての栄養価を抜いたミルクだから

ただの白い液体でしかもまずい液体だよといろんな噂が飛び交っていました。

 

給食時間は、家から持ってきたおかずだけの弁当とコッペパンにこのミルクです。

パンにおかずを挟んで食べたりミルクつけて食べたりでした。

ミルクも温かいうちはいいですけど少しでも冷えると表面に変な膜が張るので

それが何ともいえない嫌な食感でした。

 

それから、パンは多少固めでしたけど私は大好きでした。

学校を休んだり途中で早引けしたりの子がいるとその子の近くのクラスメートが

パンを届けるというシステムが普通に行われていました。

そういうシステムがあると今でもいじめとかは無くなると思うのは私だけでしょうか

家で熱出して寝ていると夕方友だちが何名かで来て「パン持ってきたよ」と家に

来るととても嬉しかったです。

さしずめ、今だと牛乳くらいかな、でもこれで同級生の輪が深まります。

学校給食が出たのは確か中学に入った頃位からです。

 

第2章 遅れた教育( 2 / 4 )

方言の禁止

まだ小学校低学年の頃、今でも覚えていますが学校では方言が禁止でした。

何の為に禁止にするか判りませんけど、本土の教育水準に合わせるのが目的?

方言を使えばすぐぶん殴られあげくに「方言札」なるものを首からぶら下げて校庭での

正座でした。

時々正門から入ったところで横一列で5人くらい方言札を首から下げて地面に正座を

させられている光景は、なんとも異様です。

ただ、当時の学校の先生もたいした教育者はいなかったと思います。

先生どうしでの方言は、普通に使っています。当然私も方言使って校庭で方言札を

つけて正座をしました。そこで、先生に「どうして先生は、職員室で方言使うの?」と

尋ねるといきなり殴られて「子供は親の言う事を聞く」「生徒は先生の言う事を聞く」

つまり、先生が決めた事はとにかく守るようにとの事でした。

信じられないのが私が2年生の頃、親が子供の面倒が見れずに祖母に預けて

逃げた家庭がありその子が祖母といつも一緒で祖母が方言しか話せずに

家でいつも方言なので学校で方言で先生の罰を受けたのが5回程あり、理由も

聞かずに当時生徒指導をしていた教師がその子のお腹に煙草の火を付けた事も

ありました。わずか2年生の子のお腹に煙草の火をつける先生がいたんです。

 

その頃は、それが普通だったんでしょうね。その子は学校で友だちと話をしなくなり

高学年になるにつれ態度が粗暴になり、中学を卒業したら暴力団にまでなりました。

これは、誰のせいか明らかに学校のせいです。教育者がいなかったせいだと

思います。

 

 

 

第2章 遅れた教育( 3 / 4 )

生活保護家庭

 今でもいろいろな面で問題になっていると思いますけど、生活保護家庭です。

当時は、(救済)とか言われていてどうしてこんなに優遇されるのと思うくらいです。

年に一度クラスに3人程いて年に一度すさまじい程の文具類が届きます。

これに関しては、沖縄だけではないと思いますけど皆さんは、不公平だと

思いませんでしたか?

 

ノートがあり筆箱があり下敷き、えんぴつ、消しゴム、絵の具類、それに画板です

何を基準に決めているのか、当時は私のように兄弟が多い家庭がほとんどで

たいてい兄や姉のお下がりを使っていました。

今は、上の兄弟から貰うのは服ぐらいでその頃は、文具類も当たり前に

お下がりでした。

でも、生活保護家庭は毎年貰っていて中にはずる賢い子がいて例えば去年貰った

筆箱や鉛筆等を同級生に「余っているから安く売るよ」と言って売っている

子がいました。

 

私は、この生活保護家庭を疑問に思い親に尋ねてみました。

「どうして、〇〇君は、いろんな物が貰えるの」と聞くと「あの家は、お父さんが体を壊して働けないから」と聞きました。

それから、家の父も体壊していたら兄弟皆貰えたのにと残酷な事を思う事もありました。

 

ただ、全然納得がいかなかった事があります。それは学校の先生に尋ねた時です

「先生、生活保護家庭は毎年あれだけの文房具類が貰えるのですか?」と聞くと

「そうだよ、あの文具類は生徒にとって必要最低限の文具類だからね。」と言われ

自分は、必要最低限の文具類も持っていないと言うよりその子の使い古しを安く

買った事さえあります(情けないです)

 

当時同級生の子が同じように思っていた事は確かです。

その時の政治家は、生徒皆が最低あれだけの道具は持っていたと思っているのか?

それとも、ただ単に教育にこれだけは必要だろうと思ったのか?

不思議なのは、鉛筆やノート類の消耗品はまだしもどうして筆箱やものさし画板等の

何年も使い回しがきく道具も毎年与えていたのかその道具の費用は、私たちの親の

税金から捻出していたと思うと腹立たしくなりました。

 

その頃不思議な事がありました。実は生活保護受けている子が普通の家庭の子に

対して経済差別をする事も、同級生の子が兄から貰った画板の内ポケットに

穴があいていてそれを見た保護家庭の子が「俺の使い古しのやつ安く売るよ」と

言ったり同じく女の子が母親が布で作った筆入れをみて保護家庭の子が

「ずいぶん古風な筆箱だな」と言って自分の筆箱自慢したりで酷かったです。

 

今の時代で言えばあれくらいは当たり前だろうと言いたいと思いますけど

一般家庭の生活レベルに合わせてほしかったとつくづく思います。

 

 

 

 

 

 

カラス
作家:カラス
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