虹の無い街

第1章 米軍の街( 4 / 5 )

黒人街の恐怖

 中学の頃私の友達は、繁華街の近くに住んでて良く遊びに行きました。

友達の母親は近くの映画館で働いていたので遊びに行くと映画をただで見る事が

出来ました。その頃の米兵は、同じ米兵同士でも黒人差別があり

友達の家の近くの繁華街はいわゆる「黒人街」で周りはほとんど黒人です。

白人も昼間は普通に歩いていても夜の8時以降は白人はいません。

そこに行く時に着て行く服は、なんと学校の制服である学ランです。

ジーンズやTシャツとか着ると不良黒人に呼び止められます。でも、何故学ランか

不思議ですけど、不良黒人は学ランと学帽は警察の制服と間違えるようです。

つまり警察学校の生徒か何か学ラン=警察予備軍のような雰囲気ですので

特に夜の8時は学ランで堂々と繁華街を歩いた方が安全というわけです。

 

ただ、そこの治安はMPが常に廻っているのでかろうじて保たれています。

一度その近くの電気屋さんに黒人が入ってラジオを盗んで逃げた時店主が追いかけて

いたんですが、パトロール中のMPが銃を抜いて大声で何か叫んだ後何も躊躇しないで

発砲しました。見事太ももに命中しその黒人は足から血を出しながら逮捕

私はその時初めて銃声と言うのを聞きました。

 

丁度、その頃ですけど黒人の街で恐ろしい事件に遭遇しました。

私と友達そして友人の母親と3人で夜の8時にその繁華街を歩いていると、なんとそこに

1人の白人が酔っ払って気分よさそうに歌を歌いながら歩いていました。

友達の母親は「もう、夜8時半になってるけど白人が歩いているなんてめずらしいね。」と

言いながらその外人さんを見ていると大通りから路地に少し入ったら近くにいた黒人が

数名その路地になだれ込むように入って行き路地の反対側からも入っていたようで

およそ20人以上の黒人に襲われていました。

 

それを囲むように私を含め10人位で見ていました。けたたましいサイレンがなりMPが

来て車から降りて片手に警棒を持ち思い切りフエを吹きます「ピィー、ピィー」と何度も

吹きながら走ってきました。するとそこにいた黒人は、蜘蛛の子を散らすように

一気に逃げて行き、その場所に残されたのはほとんど全裸に近い状態で血まみれで

倒れている白人がいました。MPの一人が首の方に手を当てて生死を確認してすぐに

パトカーから毛布を数枚持ってきてその人の下に敷いて心臓マッサージと人口呼吸を

施していましたが、救急車を待たずして亡くなりました。

救急隊が来ていましたけど別な幌つきのトラックに乗せて連れていきました。

 

その後、友人親子と私の3人は目撃者として協力して下さいとのことで通訳の人に

説明されパトカーに乗って2・3回黒人のたむろしそうな場所をゆっくり走りながら

「面通し」のような事をしました。その頃黒人はほとんど同じ顔にしか見えず服装で

「この、赤いシャツを着たのもいた」とか「この、派手なスラックスもいた」と教えました。

幾つかのグループがやった事件ですのでそのグループの何名かが解れば後は芋づる

で捕まえる事が出来るそうです。

協力したお礼に1ドルを貰った覚えがあります。現在の1ドル=76円と違い当時は

かなり価値がありました。

「1ドルあれば映画見てソバ食べてもまだ余る」と言う程の価値観ですのでおよそ3千円

の金額に相当するお金です。

 

 

 

 

 

 

 

 

第1章 米軍の街( 5 / 5 )

危険な遊び

 小学校の頃は、今のように家で遊ぶ物が乏しくていつも友達といろんな場所で

遊んでいました。友達と言うより仲間といった感じです。

年齢が様々です。上は、小学6年生に下が1年生といった年齢層で同級生だけで

遊ぶ事はありませんでした。

小学校2年位の時によく米軍基地の弾薬庫の近くに廃棄される火薬があり

大きさは粒状でストローを1センチ位に輪切りにした大きさで色は黒くて火を近づけると

凄い勢いで燃える火薬です。雨に濡れても大丈夫ですのでその火薬が捨ててある

場所に行きました。その場所は完全に基地の中ですフェンスが破れている所から入り

そのゴミ捨て場に行きます。

 

特にその火薬で何かを作るわけではなく単に火を点けて花火と同じように遊ぶだけ

今考えるとどうしてあんな無茶な遊びをしたのか判りません。

フェンスから入り約50メートル程の場所にありました。無造作に捨てられた段ボール

にいろんな戦地で使う非常食の缶詰や古ぼけたベルトそれに米軍の靴等が

捨ててありその中に混じって木箱が捨ててありその中にボール紙で出来た小さい箱が

あってそれを開けるとザーッと小さい粒状の火薬がこぼれます。

それを両手で持ちポケットに入れて早めに退散しないとまずいです。暫らくすると

案の定MPが乗ったジープが凄い勢いで向かってきます。

フェンスまで必死で逃げるのですがどうしても遅い子がいるんです。

私よりひとつ上の小学校3年生がフェンスの近くで転んで捕まりました。

 

その後その子は、夕方ごろ民間の警察署に連れて行かれて親が厳重注意され

何事もありませんでした。

私たち仲間は、空家のような古ぼけた家畜小屋のような場所に集まり

「戦利品の品評会だ」などと言いながらポケットや袋からいろんな物をだします。

例の火薬や缶詰類それに時計の壊れた物やナイフもありました。

ビックリしたのは小3の子が持っていた布袋に入ってたのが機関銃の弾でした。

しかも未使用の銃弾でベルトのような物に並んで納まっていておよそ30発位です。

当時米兵は銃弾も普通にゴミ捨て場に捨てていたんだと思うとぞっとします。

米兵に一人捕まったけどその子を深く追求する事も無く親元に帰してくれたので

一緒に基地内に侵入した私たちの事は特に何もなかったです。

翌日、そのフェンスの近くまで行くと破れた場所が補修されていて中には入れません。

仕方がないのでその機関銃の弾を紙袋に入れてフェンスから投げ入れて戻しました。

 

その頃は、いろんな場所で不発弾や未使用の銃弾が見つかりそれを子供がハンマーで

叩いて暴発させた事故がかなりありましたので銃弾で遊ぶような事はするなと親から

言われていたのでそれはしっかり守りました。ただ、自分たちのやった事は大変な事で

決して許される事ではありませんでした。それ以降は米軍基地に入る事はなかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第2章 遅れた教育( 1 / 4 )

学校給食

 最近は、学校給食の問題でいろいろ問われています。

給食費を払わない親やある地域では学校給食の業者が断ると言う地域も出ています。

私が小学校の頃は、給食がなく校内の調理場で粉のミルクを鍋にいれそこにお湯を入

れてかき混ぜながら溶かしていました。

入れている粉のミルクは(脱脂粉乳です)このミルクをどこから持ってくるのか判らない

けど、いろいろな噂がたっていました。

米軍基地から持ってくる粉ミルクでアメリカでは、豚の餌に使われているようだよとか

牛乳は栄養があるけど脱脂粉乳は、牛乳からすべての栄養価を抜いたミルクだから

ただの白い液体でしかもまずい液体だよといろんな噂が飛び交っていました。

 

給食時間は、家から持ってきたおかずだけの弁当とコッペパンにこのミルクです。

パンにおかずを挟んで食べたりミルクつけて食べたりでした。

ミルクも温かいうちはいいですけど少しでも冷えると表面に変な膜が張るので

それが何ともいえない嫌な食感でした。

 

それから、パンは多少固めでしたけど私は大好きでした。

学校を休んだり途中で早引けしたりの子がいるとその子の近くのクラスメートが

パンを届けるというシステムが普通に行われていました。

そういうシステムがあると今でもいじめとかは無くなると思うのは私だけでしょうか

家で熱出して寝ていると夕方友だちが何名かで来て「パン持ってきたよ」と家に

来るととても嬉しかったです。

さしずめ、今だと牛乳くらいかな、でもこれで同級生の輪が深まります。

学校給食が出たのは確か中学に入った頃位からです。

 

第2章 遅れた教育( 2 / 4 )

方言の禁止

まだ小学校低学年の頃、今でも覚えていますが学校では方言が禁止でした。

何の為に禁止にするか判りませんけど、本土の教育水準に合わせるのが目的?

方言を使えばすぐぶん殴られあげくに「方言札」なるものを首からぶら下げて校庭での

正座でした。

時々正門から入ったところで横一列で5人くらい方言札を首から下げて地面に正座を

させられている光景は、なんとも異様です。

ただ、当時の学校の先生もたいした教育者はいなかったと思います。

先生どうしでの方言は、普通に使っています。当然私も方言使って校庭で方言札を

つけて正座をしました。そこで、先生に「どうして先生は、職員室で方言使うの?」と

尋ねるといきなり殴られて「子供は親の言う事を聞く」「生徒は先生の言う事を聞く」

つまり、先生が決めた事はとにかく守るようにとの事でした。

信じられないのが私が2年生の頃、親が子供の面倒が見れずに祖母に預けて

逃げた家庭がありその子が祖母といつも一緒で祖母が方言しか話せずに

家でいつも方言なので学校で方言で先生の罰を受けたのが5回程あり、理由も

聞かずに当時生徒指導をしていた教師がその子のお腹に煙草の火を付けた事も

ありました。わずか2年生の子のお腹に煙草の火をつける先生がいたんです。

 

その頃は、それが普通だったんでしょうね。その子は学校で友だちと話をしなくなり

高学年になるにつれ態度が粗暴になり、中学を卒業したら暴力団にまでなりました。

これは、誰のせいか明らかに学校のせいです。教育者がいなかったせいだと

思います。

 

 

 

カラス
作家:カラス
虹の無い街
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