虹の無い街

第1章 米軍の街( 1 / 5 )

戦争の名残

昭和30年代に私は生まれました。

場所は、沖縄県の中部でコザ市(現在の沖縄市)です。

周りは、ところどころ米兵とかも住んでて1950年代のフォードが普通に狭い道を

我が物顔で走っています。

 

それとは、対照的に馬車が普通に道を走っていました。

道は、アスファルトが敷かれてなく晴れの日はほこりが舞い雨の日はぬかるんで

歩きにくい状態です。

その頃は、保育園と言うのが無く私がやっと幼稚園に入った頃父と母は米軍基地で

軍雇用員として働いていました。

 

家に帰ると冷蔵庫も無くとにかく食べるものを探しまわったのを覚えています。

家中探しても何もなく3時過ぎまでお腹すかせてまってると兄が帰ってきて学校で貰う

コッペパンの切れ端をわら半紙に包んでありそれをちぎった切れ端を食べたのを

今でも覚えています。

その時期は、皆同じ境遇だったのか同級生で太っている子がいませんでした。

そして学校の登下校も怖かったです。外人の運転する車には気を付けないと

現在と違いクラクション鳴らすだけで減速もしない車がほとんどでした。

そんな車を見て幼稚園の頃は「車は、走り出したらなかなか止まらないんだ」と

子供心に思うようになりました。

 

そして、ある日そんな米兵が運転する車にはねられて命を落とした同級生もいます。

その子を跳ねた米兵は何の罪にもならない葬儀に普通に誤って終わりです。

良く知らないけど、確か当時50ドル程封筒に入れて持ってきたようだ(1ドル=360円)

私の両親も「車には近づくな、轢かれたら轢かれ損だから」と言われました。

学校でも先生が言う事は「車には気を付けるように」と言うだけです。

巷では、東京オリンピックで盛り上がっている頃でした。

 

その年のクリスマスの時に学校にサンタさんがきました。

サンタは、米軍の軍用ヘリに乗って学校に降り立ちました。

今のご時世だと大変な事件ですけど当時は学校のグラウンドに軍用ヘリが降り立っても

特に大騒ぎする事でもありませんでした。

ヘリから降りたサンタさんは「メリークリスマス」と叫んでお菓子をばらまきます。

そのお菓子を貰い友達と軍用ヘリを見ていました。

中にいるパイロットもカッコよくヘリには脱着式の機関銃とバルカン砲と言って

一分間でおよそ2000発も発射出来る機銃が装備されていて思わず「かっこいい」と

思ってしまう子供心です。

この銃で何名のベトナム人が命を落としたかも考える術はありませんでした。

 

第1章 米軍の街( 2 / 5 )

悲しい出来ごと

 その頃は我が家にやっと白黒のテレビが入りました。

それでもまだまだ普通に全世帯にテレビが入るのはまだまだ先でした。

父も少し無理をしてテレビを入れたと思います。

でも、この街に平和が来るのはもっと先の事です。

 

コザ市は当時米軍基地のおかげでいろんな恩恵を得ていました。

我が家も共働きの親は、米軍基地で勤めて収入を得ています。

ただ、その頃沖縄に入ってくる米兵は、ベトナムに派兵される兵隊です。

当然何時戦死するか解らないような連中です。

米兵による強盗事件や暴行事件等きりがない位起きていました。

私が幼稚園の時2・3度くらいしかお会いした事がない親戚の女性がいました。

当時25歳位だと記憶しています。

 

とっても綺麗な人で初めてお会いしたのが私が幼稚園の頃学校から帰ってきて

一人でいつものようにお腹を空かしている時に我が家に訪ねてきた時です。

「お腹すいてるでしょう」と当時あまり口にする事も無かったジャムパンをくれました。

私は、相手の素性も知らないままそのパンを全部食べました。

その女性は優しそうな目で私を見ながら「おばちゃんの事わかる?」と聞くと

私が首を横に振るとバッグからハンカチを出して私の顔についたジャムを拭きながら

ニコッと笑い「そう、〇〇のおばちゃんだよ、よろしくね」と言い

「お母さんに言っといてね。」と言って私の手の平に5セント玉を握らせて帰りました。

後で、母が帰った時に聞いたら親戚の人みたいで母とはいとこのようでした。

その女性とは正月か何かの時に2度程お会いしました。

ところが、小2位からぴたりと見なくなって母に聞いてもはっきりとした事を

言ってくれないし誰に聞いても小学生の私には誰も話してくれませんでした。

 

その人が亡くなったと言う事を聞かされたのはそれから3年後の小学校5年生の頃です

そしてその女性がどうして亡くなったかを聞かされたのは中学に入った頃でした。

私にパンをくれたあの優しい女性は米兵3人に拉致され強姦されてあげくの果てに

ボロ雑巾のように全裸にされてサトウキビ畑に捨てられていたそうです。

その遺体は、見るも無残で顔は殴られたあざがあり両腕は抵抗出来ないように

折られていてそれでもその女性は最後の力を振り絞って一人の腕の皮膚を

食いちぎったみたいで、口の中にはその米兵の皮膚が入っていたそうです。

 

その女性の母親は頭がおかしくなり精神病院のような施設に入っていたんですが5年後に

亡くなり、翌年父親も後を追うように亡くなりました。

そして衝撃なことがありました。その犯人は事件の2日後にすぐ捕まったみたいですけど

軍の規定か何かでそのまま本国に送られたそうです。

米兵は、当時は何をしても罪にはならなかったのが現実です。

多分逆な事をすると銃殺刑にでもなるんじゃないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1章 米軍の街( 3 / 5 )

米兵に対する怒り

 幼稚園の時に腹を空かした私にパンをくれた優しいおねえさんが米兵に殺された

事実を知った時、米兵3人に連れて行かれて暴行されてとても怖かっただろうなとか

とても痛かっただろう悔しかっただろうと思いながら涙が止まりませんでした。

どうして、殺されなければならなかったのか戦争が終結した時には8歳か9歳位で

とても怖い思いしながら生き延びてきたのに戦後にこんな事で命を落とすなんて沖縄は

まだ戦争が終わってないのかと思いました。

 

その後米兵に対して怒りを覚えるようになり確か中学に入りたての頃の出来事です。

大阪万博があり同じ年の暮に「コザ暴動」が起きました。

日曜日の未明だったと思いますけど、その現場まで見に行きました。

その頃の米兵の車は黄色のナンバープレートだったので良く覚えています。

そのプレートがついた車を何十名の大人が火を放ち燃やしていました。

中には車に乗っている米兵を車から引きずり出した後米兵が何か叫んでいるのに無視して

ガソリンをまいて火を放っている光景を見ながら私は、心の中で「どうして車から引きずりだすの

米兵が乗ったまま火を点けたらいいのに」と中学生ながら恐ろしい事を描いています。

その日一旦自宅に帰りその事を母に言うと「そんなところ行かないで」と言われましたけど

また友達誘ってその現場に向かいます。

 

焼け焦げた高級外車やスポーツカーを見ながら「車って結構燃えるものだな」と友達と

笑いながら見ていました。

そして、米軍基地のゲートのポリスボックスまで焼かれていました。

友達とそれを見ながら「ポリスボックスまで焼かれているぜ」等と話しながらしばらくその焼け跡を

見ていると後ろの方で人の気配を感じ振り向いたら米兵がカービン銃を向けて立っていました。

その数5人です。5つの銃口が自分の方に向いていました。

びっくりして思わず手を上げると通訳の人が「あなた達は、軍の敷地内に立ちいっているので直

ちに出なさい。撃たれても文句いえないよ」と言って外に出るよう手で合図します。

そこから出る時に周りにいた野次馬が、「あぶないよ、早くでないと」と言うと「あっ、はい」と

言いそこから出ると米兵が何名かですかさずロープをはり(立ち入り禁止)のような札を下げまし

た。だけどいくらなんでも子供に銃を向けるなんてといまさらながらに思います。

それから10名ほどの兵隊が銃を持って横一列の並びます。

野次馬の中から「今度は米軍基地全体を焼き尽くしたいな~。」との声に

周りから一斉に拍手と歓喜の声があがりました。

 

この街は、ほんとにいろんな事がある街だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

第1章 米軍の街( 4 / 5 )

黒人街の恐怖

 中学の頃私の友達は、繁華街の近くに住んでて良く遊びに行きました。

友達の母親は近くの映画館で働いていたので遊びに行くと映画をただで見る事が

出来ました。その頃の米兵は、同じ米兵同士でも黒人差別があり

友達の家の近くの繁華街はいわゆる「黒人街」で周りはほとんど黒人です。

白人も昼間は普通に歩いていても夜の8時以降は白人はいません。

そこに行く時に着て行く服は、なんと学校の制服である学ランです。

ジーンズやTシャツとか着ると不良黒人に呼び止められます。でも、何故学ランか

不思議ですけど、不良黒人は学ランと学帽は警察の制服と間違えるようです。

つまり警察学校の生徒か何か学ラン=警察予備軍のような雰囲気ですので

特に夜の8時は学ランで堂々と繁華街を歩いた方が安全というわけです。

 

ただ、そこの治安はMPが常に廻っているのでかろうじて保たれています。

一度その近くの電気屋さんに黒人が入ってラジオを盗んで逃げた時店主が追いかけて

いたんですが、パトロール中のMPが銃を抜いて大声で何か叫んだ後何も躊躇しないで

発砲しました。見事太ももに命中しその黒人は足から血を出しながら逮捕

私はその時初めて銃声と言うのを聞きました。

 

丁度、その頃ですけど黒人の街で恐ろしい事件に遭遇しました。

私と友達そして友人の母親と3人で夜の8時にその繁華街を歩いていると、なんとそこに

1人の白人が酔っ払って気分よさそうに歌を歌いながら歩いていました。

友達の母親は「もう、夜8時半になってるけど白人が歩いているなんてめずらしいね。」と

言いながらその外人さんを見ていると大通りから路地に少し入ったら近くにいた黒人が

数名その路地になだれ込むように入って行き路地の反対側からも入っていたようで

およそ20人以上の黒人に襲われていました。

 

それを囲むように私を含め10人位で見ていました。けたたましいサイレンがなりMPが

来て車から降りて片手に警棒を持ち思い切りフエを吹きます「ピィー、ピィー」と何度も

吹きながら走ってきました。するとそこにいた黒人は、蜘蛛の子を散らすように

一気に逃げて行き、その場所に残されたのはほとんど全裸に近い状態で血まみれで

倒れている白人がいました。MPの一人が首の方に手を当てて生死を確認してすぐに

パトカーから毛布を数枚持ってきてその人の下に敷いて心臓マッサージと人口呼吸を

施していましたが、救急車を待たずして亡くなりました。

救急隊が来ていましたけど別な幌つきのトラックに乗せて連れていきました。

 

その後、友人親子と私の3人は目撃者として協力して下さいとのことで通訳の人に

説明されパトカーに乗って2・3回黒人のたむろしそうな場所をゆっくり走りながら

「面通し」のような事をしました。その頃黒人はほとんど同じ顔にしか見えず服装で

「この、赤いシャツを着たのもいた」とか「この、派手なスラックスもいた」と教えました。

幾つかのグループがやった事件ですのでそのグループの何名かが解れば後は芋づる

で捕まえる事が出来るそうです。

協力したお礼に1ドルを貰った覚えがあります。現在の1ドル=76円と違い当時は

かなり価値がありました。

「1ドルあれば映画見てソバ食べてもまだ余る」と言う程の価値観ですのでおよそ3千円

の金額に相当するお金です。

 

 

 

 

 

 

 

 

カラス
作家:カラス
虹の無い街
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