尼寺

 尼さんは、ゆう子の表情を確認し、話を続けた。「忘れられない元カレに引きずられるということは、よくある悩みです。おそらく、ほとんどの女性にとって、一度は、経験ある悩みではないでしょうか?でも、ほとんどの女性は、新しい彼氏を見つけ、幸運をつかんでいます。それには、過去にこだわる気持ちを捨てなければなりません。どうやって、こだわる気持ちを捨てればいいでしょう。その人なりの方法はあるでしょうが、やはり、今、あなたを必要としてくれている男性を大切に思うことではないでしょうか。確かに、過去の彼氏が、心から消え去ることはないでしょう。でも、幸せになるということは、未来の生活から生まれるのです。未来の幸せを一緒に作ってくれる人は、あなたを大切にしてくれる男性以外、いないのです。きっと、あなたを必要とする男性が、身の周りにいるはずです。あなたが、気づいていないだけなのです」

 

 気づいていないといわれ、ハッとした。その時、鳥羽の笑顔が脳裏に浮かんだ。「今も、元カレを引きずっています。周りに素晴らしい男性がいるかも知れないのですが、それが見えません。ダメな女ということでしょうか?」尼さんは、低い声で諭すように話し始めた。「ダメな女というのはいません。誰しも、決断するということが、難しいだけなのです。だから、誰かの後押しが必要なのです。私が、あなたの後押しの役割を果たせれば、幸いです。過去には、幸せはないのです。幸せは、未来にあるのです。このことを心に留めて、新しい、自分を作っていかれてはどうでしょう。人は、変わっていくものです。過去の自分を否定するのではなく、新しい自分を創造するのです。その時、きっと、あなたを幸せにしてくれる男性が現れるはずです」

 

 確かに、過去のことをどんなに考えても、幸せになるとは思えなかった。勇樹のことをどんなに思っても、生き返るわけではない。悲しみが消え去るわけでもない。ゆう子は、うなだれていた。尼さんは、かなりの重傷と思い、傷つけないように、やさしい声で話を続けた。「ゆう子さん、過去は、決して消え去りません。でも、幸せとは、未来に、作り出すものなのです。元カレは、過去の宝物として、そっと、心にしまっておけば、いいのではないでしょうか。大切なことは、悩み続けることではなく、新しい自分をつくるための行動です。さあ、勇気を出して、未来に向けての行動を、起こしてみてはどうでしょう。私は、尼です。女としての欲も夢も捨てた尼です。決して、女の幸福とか夢を語る資格はありません。でも、尼としての幸せをつかんだからこそ、女として生きる意義を語れるのかもしれません」

 

 

 ゆう子は、目の前の尼に興味がわいた。なぜ、女の幸せを捨てて、尼の幸せを求めたのか?彼女も男性の悩みはあったはず。失恋からか?離婚からか?悩んだ挙句、尼の道を選んだのだろうか?なぜ、尼になったのか、質問したくなってしまった。失礼だとは思ったが、彼女の回答は、これからの人生において参考になるような気がした。ゆう子は、気まずそうな表情で尋ねた。「ちょっと、質問していいでしょうか?」尼さんは、笑顔で返事した。「いいですよ。遠慮なく質問してください」ちょっと躊躇したが、しっかり尼さんの瞳を見つめ、質問した。「尼さんに、なられたのは、なぜですか?ぶしつけな質問で、申し訳ありません。参考までに、お聞きしたいんです」

 

 尼さんは、笑顔でうなずいた。「いいえ、いい質問です。女であれば、誰しも、尼に興味があるはずです。女の幸せを捨ててまで、なぜ、尼になったのか?その理由を知りたいと思うのは、当然でしょう」ゆう子は、小さくうなずき静かに聞き入っていた。尼さんは、淡々と話を続けた。「尼になる前は、私も、女でした。恋愛し、結婚し、子供に恵まれ、育児もしました。でも、母親としてやって行くことができず、尼になりました」ゆう子は、意味がわからなかった。母親としてやっていけなくなるとは、離婚かと思ったが、離婚しても、子供を引き取れば、母親となれると思えた。「母親になれなかったとは、離婚されたんですか?」尼は、小さくうなずき、返事した。「育児ができなかったのです。だから、子供のため、夫のために、離婚しました」

 

 さらに、ますます、訳が分からなくなった。育児ができないとは、いったいどういうことか?大きな病気にでもなられたのかと思えたが、目の前にいる尼さんは、いたって健康そうに見えた。首をかしげたゆう子は、さらに、質問した。「育児ができなかったとは、ご病気を、なされたのですか?」尼は、小さく首を左右に振り、返事した。「私には、育児をする母性がなかったのです。育児をする愛情がなかったのです」ゆう子は、全く意味が分からず、目を丸くした。母性がない母親がいるのだろうかと不思議だった。まして、愛情がない母親がいるとは、到底考えられなかった。「それって、育児がワンオペで、大変だったということですか?」

 肩を落とした尼さんは、さみしそうな表情で話し始めた。「育児ができるのであれば、どんなに大変でも、やっていたでしょう。でも、育児そのものができなかったのです。ちょっと、信じられないかもしれませんね。当初、主人も私の言っていることを理解できませんでした。私は、子供を愛せない女だったのです」子供を愛せない女、いったいどういうことかさっぱりわからなかった。他人の子供であれば、そのようなことはあると思えたが、自分の子供を愛せないってことがあるのだろうかと思えた。「おっしゃってることが、よくわからないのですが。女は、子供が生まれると、母性本能が働くのではないですか?母は、そのようなことを言っていましたが」

 

 尼さんは、もっと、具体的に話すことにした。「一般的には、そうですね。私の場合は、違っていました。子供を愛せないとは、子供を虐待するということです。信じられないかもしれませんね。自分自身、子供を持って初めて、自分の本性がわかったのです」虐待と聞いて、悲惨なニュースのことを思い出した。親が、しつけと称して、虐待し、死に至らしめた極悪非道なニュース。でも、目の前にいる尼さんは、極悪非道な女性には、全く、見えなかった。

 

 尼さんは、怪訝な顔つきのゆう子を見つめ、ニコッと笑顔を作り、話を続けた。「理解できないのは、当然です。こういう母親は、めったに、いないでしょう。でも、例外の女性はいるということです。私自身、自分が信じられませんでした。自分の子供が愛せないだけでなく、知らず知らずに、子供を虐待していました。そのことにも、私は、気づけませんでした。ある日、子供が大声で泣きだした時、ふと、子供のころの私が泣いている姿が脳裏に浮かび上がってきました。私は、母親に愛された記憶が全くないのです。いつも、ボッチで、人気のない家にこもっていた記憶しかないのです。母は、いつも家にはいませんでした。おそらく、子供時代の悲しみが、母親としての愛を消し去ったのかもしれません。それは、単に、私の憶測なのですが」

 あまりピンとこなかったが、ゆう子は小さくうなずいた。でも、今は、幸福そうに見えるため、尼になることも幸せになる方法の一つだと納得した。「私は、彼氏もいないし、結婚もしていません。ましてや、出産の経験もありません。だから、よく理解できません。でも、尼さんは、幸せそうに見えます。人には、それぞれの幸せがあるんですね。私も、未来に向かって、幸せを作っていきたいと思います。お話を伺って、少しは、前進できるような心持になってきました。曇り空の隙間から、太陽の光が差し込んできたみたいです。相談に伺って、本当に、よかったです」ゆう子は、尼さんが誰かに似ていると思っていた。今、だれだかわかった。あの、どんだけ~、のイッコ~に似ていることに気づいた。口に出すと失礼になると思い、心でクスクス笑った。

 

 ゆう子は、尼さんの話に心を奪われ、鳥羽を待たせていることをすっかり忘れていた。腕時計を見ると3時近くになっていた。「あ、こんな時間。本当に、今日は、ありがとうございました。連れを待たせていますので、この辺で、失礼します。些少ですが、お納めください」ゆう子は、用意していたお布施を尼さんに差し出した。尼さんは、笑顔で受け取り、挨拶をした。「お若いのに、礼儀正しいこと。お気をつけて、おかえりください」ゆう子は、両手を前にそろえ、尼さんに頭を深々と下げた。門を出るときも、深々と頭を下げて、尼寺を後にした。鳥羽は、退屈のあまり、尼寺の周辺を散歩していた。ゆう子は、鳥羽に声をかけた。「ごめんね。もっと早くに、切り上げるつもりだったんだけど、話が長引いちゃって。寒くない。大丈夫?」鳥羽は、トレーニングを兼ねて、そこら辺を歩き回っていたため、体は温まっていた。

 

 鳥羽は、笑顔で返事した。「別に。このくらいの寒さは、何ともないさ。姫、何か、いいことでもあったのですか?目が、輝いていますよ」照れくさそうにゆう子は、返事した。「ま~ね。なんだか、未来が、パ~~~と、開けた感じ。鳥羽君が、連れてきてくれたおかげ。ありがとう」鳥羽は、改まってお礼を言われると、照れくさくなった。「姫のためなら、何のこれしき。それでは、まいりましょう」ゆう子がスクーターにまたがると鳥羽はアクセルをゆっくりふかした。下り坂は、登りよりも不安定に感じた。鳥羽は、運転に集中していたが、ゆう子は、鳥羽の背中のぬくもりを夢心地で感じ取っていた。もしかしたら、幸せって、今のような気持じゃないかと思えた。そして、今の時間が、永遠に続きますように、と神にお願いした。

 

 

 

春日信彦
作家:春日信彦
尼寺
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