尼寺

 ゆう子は、目の前の尼に興味がわいた。なぜ、女の幸せを捨てて、尼の幸せを求めたのか?彼女も男性の悩みはあったはず。失恋からか?離婚からか?悩んだ挙句、尼の道を選んだのだろうか?なぜ、尼になったのか、質問したくなってしまった。失礼だとは思ったが、彼女の回答は、これからの人生において参考になるような気がした。ゆう子は、気まずそうな表情で尋ねた。「ちょっと、質問していいでしょうか?」尼さんは、笑顔で返事した。「いいですよ。遠慮なく質問してください」ちょっと躊躇したが、しっかり尼さんの瞳を見つめ、質問した。「尼さんに、なられたのは、なぜですか?ぶしつけな質問で、申し訳ありません。参考までに、お聞きしたいんです」

 

 尼さんは、笑顔でうなずいた。「いいえ、いい質問です。女であれば、誰しも、尼に興味があるはずです。女の幸せを捨ててまで、なぜ、尼になったのか?その理由を知りたいと思うのは、当然でしょう」ゆう子は、小さくうなずき静かに聞き入っていた。尼さんは、淡々と話を続けた。「尼になる前は、私も、女でした。恋愛し、結婚し、子供に恵まれ、育児もしました。でも、母親としてやって行くことができず、尼になりました」ゆう子は、意味がわからなかった。母親としてやっていけなくなるとは、離婚かと思ったが、離婚しても、子供を引き取れば、母親となれると思えた。「母親になれなかったとは、離婚されたんですか?」尼は、小さくうなずき、返事した。「育児ができなかったのです。だから、子供のため、夫のために、離婚しました」

 

 さらに、ますます、訳が分からなくなった。育児ができないとは、いったいどういうことか?大きな病気にでもなられたのかと思えたが、目の前にいる尼さんは、いたって健康そうに見えた。首をかしげたゆう子は、さらに、質問した。「育児ができなかったとは、ご病気を、なされたのですか?」尼は、小さく首を左右に振り、返事した。「私には、育児をする母性がなかったのです。育児をする愛情がなかったのです」ゆう子は、全く意味が分からず、目を丸くした。母性がない母親がいるのだろうかと不思議だった。まして、愛情がない母親がいるとは、到底考えられなかった。「それって、育児がワンオペで、大変だったということですか?」

 肩を落とした尼さんは、さみしそうな表情で話し始めた。「育児ができるのであれば、どんなに大変でも、やっていたでしょう。でも、育児そのものができなかったのです。ちょっと、信じられないかもしれませんね。当初、主人も私の言っていることを理解できませんでした。私は、子供を愛せない女だったのです」子供を愛せない女、いったいどういうことかさっぱりわからなかった。他人の子供であれば、そのようなことはあると思えたが、自分の子供を愛せないってことがあるのだろうかと思えた。「おっしゃってることが、よくわからないのですが。女は、子供が生まれると、母性本能が働くのではないですか?母は、そのようなことを言っていましたが」

 

 尼さんは、もっと、具体的に話すことにした。「一般的には、そうですね。私の場合は、違っていました。子供を愛せないとは、子供を虐待するということです。信じられないかもしれませんね。自分自身、子供を持って初めて、自分の本性がわかったのです」虐待と聞いて、悲惨なニュースのことを思い出した。親が、しつけと称して、虐待し、死に至らしめた極悪非道なニュース。でも、目の前にいる尼さんは、極悪非道な女性には、全く、見えなかった。

 

 尼さんは、怪訝な顔つきのゆう子を見つめ、ニコッと笑顔を作り、話を続けた。「理解できないのは、当然です。こういう母親は、めったに、いないでしょう。でも、例外の女性はいるということです。私自身、自分が信じられませんでした。自分の子供が愛せないだけでなく、知らず知らずに、子供を虐待していました。そのことにも、私は、気づけませんでした。ある日、子供が大声で泣きだした時、ふと、子供のころの私が泣いている姿が脳裏に浮かび上がってきました。私は、母親に愛された記憶が全くないのです。いつも、ボッチで、人気のない家にこもっていた記憶しかないのです。母は、いつも家にはいませんでした。おそらく、子供時代の悲しみが、母親としての愛を消し去ったのかもしれません。それは、単に、私の憶測なのですが」

 あまりピンとこなかったが、ゆう子は小さくうなずいた。でも、今は、幸福そうに見えるため、尼になることも幸せになる方法の一つだと納得した。「私は、彼氏もいないし、結婚もしていません。ましてや、出産の経験もありません。だから、よく理解できません。でも、尼さんは、幸せそうに見えます。人には、それぞれの幸せがあるんですね。私も、未来に向かって、幸せを作っていきたいと思います。お話を伺って、少しは、前進できるような心持になってきました。曇り空の隙間から、太陽の光が差し込んできたみたいです。相談に伺って、本当に、よかったです」ゆう子は、尼さんが誰かに似ていると思っていた。今、だれだかわかった。あの、どんだけ~、のイッコ~に似ていることに気づいた。口に出すと失礼になると思い、心でクスクス笑った。

 

 ゆう子は、尼さんの話に心を奪われ、鳥羽を待たせていることをすっかり忘れていた。腕時計を見ると3時近くになっていた。「あ、こんな時間。本当に、今日は、ありがとうございました。連れを待たせていますので、この辺で、失礼します。些少ですが、お納めください」ゆう子は、用意していたお布施を尼さんに差し出した。尼さんは、笑顔で受け取り、挨拶をした。「お若いのに、礼儀正しいこと。お気をつけて、おかえりください」ゆう子は、両手を前にそろえ、尼さんに頭を深々と下げた。門を出るときも、深々と頭を下げて、尼寺を後にした。鳥羽は、退屈のあまり、尼寺の周辺を散歩していた。ゆう子は、鳥羽に声をかけた。「ごめんね。もっと早くに、切り上げるつもりだったんだけど、話が長引いちゃって。寒くない。大丈夫?」鳥羽は、トレーニングを兼ねて、そこら辺を歩き回っていたため、体は温まっていた。

 

 鳥羽は、笑顔で返事した。「別に。このくらいの寒さは、何ともないさ。姫、何か、いいことでもあったのですか?目が、輝いていますよ」照れくさそうにゆう子は、返事した。「ま~ね。なんだか、未来が、パ~~~と、開けた感じ。鳥羽君が、連れてきてくれたおかげ。ありがとう」鳥羽は、改まってお礼を言われると、照れくさくなった。「姫のためなら、何のこれしき。それでは、まいりましょう」ゆう子がスクーターにまたがると鳥羽はアクセルをゆっくりふかした。下り坂は、登りよりも不安定に感じた。鳥羽は、運転に集中していたが、ゆう子は、鳥羽の背中のぬくもりを夢心地で感じ取っていた。もしかしたら、幸せって、今のような気持じゃないかと思えた。そして、今の時間が、永遠に続きますように、と神にお願いした。

 

 

 

 

 なんだか、不思議な幸せを感じていたゆう子は、ふと、鳥羽の気持ちに疑問を感じてしまった。なぜ、こんなにまで親切にしてくれるのか?「鳥羽君~~、こんな山奥まで、連れまわして、ごめんね。いやなときは、いやだといっていいのよ。鳥羽君は、ちょっと、人が良すぎるんじゃない。私なんかにかまっていたら、彼女が、できないわよ」鳥羽は、嫌われたのではないかと勘違いした。「え、僕が、うっとおしいんですか?なんだか、がっかりだな~~。こんなにお仕えしてるのに」ゆう子は、誤解を招いたと思い、弁解した。「そうじゃなくて、あまりにも、親切にしてくれるから、気の毒なだけよ。とっても、感謝してるんだから。でも、どうして、こんなに親切にしてくれるの?」鳥羽は、即座に、大声で返事した。「当然のことをしてるだけです。姫をお守りすることは、神勅なんです。感謝なんって、もったいない」

 

 やはり、鳥羽は、かなりの変人だと確信した。どんな根拠で言っているのかさっぱりわからなかった。「え、どんな神様から任命されたの?鳥羽君、ちょっと変じゃない。私を守る神勅なんて、ないと思うんだけど」変人といわれた鳥羽は、春日神からの神勅を話すことにした。「姫、何をおっしゃるんですか。藤原氏の氏神である春日神の神勅です。姫こそ、日本の守護神になられる方んです。僕は、姫をお守りするために、現世に降臨させられた日本武尊なんです。これからも、命を懸けて、お守りいたします。ご安心ください」マジ、ますます、頭がいかれていると確信した。バカと天才は紙一重、とは、このことだと思った。これ以上話しても、理解しあえないと思い、話を変えることにした。「鳥羽君は、世界一、お人よしってことね。いつもありがとう。もう、登山口についちゃった。下りは、やっぱ、早いね」

 

 登りは、目的地までの道のりがわからず、とても長く時間が感じられたが、下りは、思っていたより、早く登山口に到着した気がした。ゆう子は、鳥羽にお礼をしなくてはと思い、食事に誘った。「鳥羽君、おなか、すいたでしょ。どこかで、食事しない?」道中でのサンドイッチぐらいでは、おなかが満たされていなかった。鳥羽のお腹は、グ~~グ~~なっていた。「待ってる時、おなかが、すきすぎて、倒れそうでした。何を食べますか?」ゆう子は、鳥羽の好物の牛丼を提案した。「すき屋に行ってみない?特盛り、おごるわよ」牛丼が頭に浮かぶとよだれが出そうになった。「牛丼、いいですね。卵をかけて食べると、最高です」楽しそうな二人を乗せたスクーターは、フードウェイ横にあるすき屋に向かって走り続けた。

春日信彦
作家:春日信彦
尼寺
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