尼寺

                相談

 

 どうか、やさしい尼さんでありなますようにと願い、ゆう子は大きな尼寺の門をくぐった。大きな門をくぐると玄関らしき開き戸があった。インターホンを探したが、どこにもそれらしきものはなかった。大きな声で叫ぶことにした。「こんにちは。お約束していた、ゆう子と申します。いらっしゃいますか?」しばらくすると、中から声がした。「おはいりなさい」ゆう子は、ゆっくりドアを開いた。上がりかまちには、ちょっと小太りの尼さんが立っていた。「初めまして、ゆう子と申します。よろしくお願いします」ニコッと笑顔を作った尼さんは、上がるように指示した。「こちらへどうぞ」ゆう子は、スニーカーをきちんと揃えて上がり、ゆっくり頭を下げた。尼さんの後についてしばらく歩くと本堂についた。尼さんは、短いお経をあげるとゆう子に声をかけた。「今日は、どのようなご相談ですか?ここでは、何ですから、個室でお聞きいたしましょう」

 

 ゆう子は、尼さんの後ろから肩をすぼめて歩いた。そこは、茶室のようで囲炉裏があった。尼さんは、囲炉裏の横に座布団を差し出し、ゆう子に声をかけた。「どうぞ。おひとりで、いらっしゃいましたか?お車ですか?」ゆう子は、寒い中外で待ってる鳥羽を思い、即座に返事した。「いいえ、連れがいます。今、門の外で、待っていてくれてます。スクーターできました」ゆっくりうなずいた尼さんは、尋ねた。「お連れさんは、男性ですね。ここは、男子禁制だから、男性は入れません。連れがお待ちであれば、長居はできませんね。早速、お話をお聞きいたしましょう。どういう、ご相談ですか?」

 

 前もって相談内容をまとめていたつもりだったが、いざとなると口に出すのが恥ずかしくなった。肝心なことを相談せずに帰っていまえば、きっと後悔すると思い、思い切って話すことにした。大きく深呼吸したゆう子は、落ち着け、落ち着け、と心で反復して、尼さんを見つめた。「実は、二度と会うことができない彼氏を一生思い続けるべきか、それとも、過去を忘れて、新しい彼氏を作るべきか、悩んでいるのです。こんな、相談なんですが、私にとっては、一生を左右する問題なんです。よろしく、お願いします」尼さんは、ゆっくりうなずき話し始めた。「悩みというものは、そう、簡単に解決するものではありません。私の意見は、あくまでも参考にされるといいでしょう。ご相談は、元カレを忘れられずに、新しい第一歩が踏み出せないということですね」ゆう子は、簡単に言えばそうだと思い、うなずいた。

 

 尼さんは、ゆう子の表情を確認し、話を続けた。「忘れられない元カレに引きずられるということは、よくある悩みです。おそらく、ほとんどの女性にとって、一度は、経験ある悩みではないでしょうか?でも、ほとんどの女性は、新しい彼氏を見つけ、幸運をつかんでいます。それには、過去にこだわる気持ちを捨てなければなりません。どうやって、こだわる気持ちを捨てればいいでしょう。その人なりの方法はあるでしょうが、やはり、今、あなたを必要としてくれている男性を大切に思うことではないでしょうか。確かに、過去の彼氏が、心から消え去ることはないでしょう。でも、幸せになるということは、未来の生活から生まれるのです。未来の幸せを一緒に作ってくれる人は、あなたを大切にしてくれる男性以外、いないのです。きっと、あなたを必要とする男性が、身の周りにいるはずです。あなたが、気づいていないだけなのです」

 

 気づいていないといわれ、ハッとした。その時、鳥羽の笑顔が脳裏に浮かんだ。「今も、元カレを引きずっています。周りに素晴らしい男性がいるかも知れないのですが、それが見えません。ダメな女ということでしょうか?」尼さんは、低い声で諭すように話し始めた。「ダメな女というのはいません。誰しも、決断するということが、難しいだけなのです。だから、誰かの後押しが必要なのです。私が、あなたの後押しの役割を果たせれば、幸いです。過去には、幸せはないのです。幸せは、未来にあるのです。このことを心に留めて、新しい、自分を作っていかれてはどうでしょう。人は、変わっていくものです。過去の自分を否定するのではなく、新しい自分を創造するのです。その時、きっと、あなたを幸せにしてくれる男性が現れるはずです」

 

 確かに、過去のことをどんなに考えても、幸せになるとは思えなかった。勇樹のことをどんなに思っても、生き返るわけではない。悲しみが消え去るわけでもない。ゆう子は、うなだれていた。尼さんは、かなりの重傷と思い、傷つけないように、やさしい声で話を続けた。「ゆう子さん、過去は、決して消え去りません。でも、幸せとは、未来に、作り出すものなのです。元カレは、過去の宝物として、そっと、心にしまっておけば、いいのではないでしょうか。大切なことは、悩み続けることではなく、新しい自分をつくるための行動です。さあ、勇気を出して、未来に向けての行動を、起こしてみてはどうでしょう。私は、尼です。女としての欲も夢も捨てた尼です。決して、女の幸福とか夢を語る資格はありません。でも、尼としての幸せをつかんだからこそ、女として生きる意義を語れるのかもしれません」

 

 

 ゆう子は、目の前の尼に興味がわいた。なぜ、女の幸せを捨てて、尼の幸せを求めたのか?彼女も男性の悩みはあったはず。失恋からか?離婚からか?悩んだ挙句、尼の道を選んだのだろうか?なぜ、尼になったのか、質問したくなってしまった。失礼だとは思ったが、彼女の回答は、これからの人生において参考になるような気がした。ゆう子は、気まずそうな表情で尋ねた。「ちょっと、質問していいでしょうか?」尼さんは、笑顔で返事した。「いいですよ。遠慮なく質問してください」ちょっと躊躇したが、しっかり尼さんの瞳を見つめ、質問した。「尼さんに、なられたのは、なぜですか?ぶしつけな質問で、申し訳ありません。参考までに、お聞きしたいんです」

 

 尼さんは、笑顔でうなずいた。「いいえ、いい質問です。女であれば、誰しも、尼に興味があるはずです。女の幸せを捨ててまで、なぜ、尼になったのか?その理由を知りたいと思うのは、当然でしょう」ゆう子は、小さくうなずき静かに聞き入っていた。尼さんは、淡々と話を続けた。「尼になる前は、私も、女でした。恋愛し、結婚し、子供に恵まれ、育児もしました。でも、母親としてやって行くことができず、尼になりました」ゆう子は、意味がわからなかった。母親としてやっていけなくなるとは、離婚かと思ったが、離婚しても、子供を引き取れば、母親となれると思えた。「母親になれなかったとは、離婚されたんですか?」尼は、小さくうなずき、返事した。「育児ができなかったのです。だから、子供のため、夫のために、離婚しました」

 

 さらに、ますます、訳が分からなくなった。育児ができないとは、いったいどういうことか?大きな病気にでもなられたのかと思えたが、目の前にいる尼さんは、いたって健康そうに見えた。首をかしげたゆう子は、さらに、質問した。「育児ができなかったとは、ご病気を、なされたのですか?」尼は、小さく首を左右に振り、返事した。「私には、育児をする母性がなかったのです。育児をする愛情がなかったのです」ゆう子は、全く意味が分からず、目を丸くした。母性がない母親がいるのだろうかと不思議だった。まして、愛情がない母親がいるとは、到底考えられなかった。「それって、育児がワンオペで、大変だったということですか?」

 肩を落とした尼さんは、さみしそうな表情で話し始めた。「育児ができるのであれば、どんなに大変でも、やっていたでしょう。でも、育児そのものができなかったのです。ちょっと、信じられないかもしれませんね。当初、主人も私の言っていることを理解できませんでした。私は、子供を愛せない女だったのです」子供を愛せない女、いったいどういうことかさっぱりわからなかった。他人の子供であれば、そのようなことはあると思えたが、自分の子供を愛せないってことがあるのだろうかと思えた。「おっしゃってることが、よくわからないのですが。女は、子供が生まれると、母性本能が働くのではないですか?母は、そのようなことを言っていましたが」

 

 尼さんは、もっと、具体的に話すことにした。「一般的には、そうですね。私の場合は、違っていました。子供を愛せないとは、子供を虐待するということです。信じられないかもしれませんね。自分自身、子供を持って初めて、自分の本性がわかったのです」虐待と聞いて、悲惨なニュースのことを思い出した。親が、しつけと称して、虐待し、死に至らしめた極悪非道なニュース。でも、目の前にいる尼さんは、極悪非道な女性には、全く、見えなかった。

 

 尼さんは、怪訝な顔つきのゆう子を見つめ、ニコッと笑顔を作り、話を続けた。「理解できないのは、当然です。こういう母親は、めったに、いないでしょう。でも、例外の女性はいるということです。私自身、自分が信じられませんでした。自分の子供が愛せないだけでなく、知らず知らずに、子供を虐待していました。そのことにも、私は、気づけませんでした。ある日、子供が大声で泣きだした時、ふと、子供のころの私が泣いている姿が脳裏に浮かび上がってきました。私は、母親に愛された記憶が全くないのです。いつも、ボッチで、人気のない家にこもっていた記憶しかないのです。母は、いつも家にはいませんでした。おそらく、子供時代の悲しみが、母親としての愛を消し去ったのかもしれません。それは、単に、私の憶測なのですが」

春日信彦
作家:春日信彦
尼寺
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