対馬の闇Ⅳ

 無言でケーキをむさぼり食べるひろ子を見て、いったい何が起きたのだろうとじっと見つめていた。精魂込めて淹れたコーヒーを一口もすすらず、ひたすら口をモグモグさせていた。「ひろ子さん、おいしいですか?」もはや、ひろ子の耳に入る言葉はなかった。ひろ子は、ケーキでできた宇宙の中で、宇宙遊泳をしていた。食べ終わったひろ子は、我に返ったが、ケーキ麻薬の恍惚感に浸っていた。頭は、真っ白になっていた。瑞恵は、声をかけ続けた。「ひろ子さん、ひろ子さん」誰かが自分を呼んでいる声に気が付いた。「え、何か言った?」瑞恵は、コーヒーに目をやった。「コーヒー冷えますよ」ひろ子は、天を仰ぎ、神にお許しを乞うた。「愚かな迷える子羊をお許しください。また、神に背いてしまいました。地獄に落としてください」ひろ子は、コーヒーを手に取り、一口すすった。「もう、死んでもいい。すっごくおいしかった」

 

 瑞恵は、ダイエットで無理をして、拒食症になり、入院した人を知っていた。「ひろ子さん、あまり無理をしないほうがいいんじゃないですか?いいじゃないですか、ちょっと太ったぐらい。私は、もう、ダイエットやめました。食べすぎはよくないけど、我慢しすぎても体に悪いそうです。一緒に、太りましょうよ」太るという言葉を聞いて、真っ青になった。我慢しすぎは、体に良くないことは知っていたが、太りたくもなかった。「我慢しすぎは、よくないわね。でも、ダメな女。こんな女、地獄に落ちるわね」地獄と聞いて、ちょっと重病じゃないかと思えた。「ケーキを食べて、地獄に落ちるんだったら、この世の女性は、すべて、地獄行きじゃないですか。もっと、気楽にいきましょうよ」ひろ子のダイエットは、何回やっても失敗していた。でも、太る体質のひろ子にとって、甘いものは禁物だった。

 

 へこんでしまったひろ子は、小さな声で返事した。「やっぱし、ダメだったか。無理をして、体を壊してもよくないし。みずえさんの言葉に甘えて、気楽に行くとすっか」ワハハ~とひろ子は、笑い声をあげた。瑞恵もワハハ~と笑い声をあげた。「いいじゃないですか。一度の人生、能天気に行きましょうよ。ところで、ひろ子さんは、福岡じゃなかったんですか?いつから、対馬に?」ひろ子の場合、事情が複雑で説明に困った。とりあえず、適当に返事した。「何というか、知り合いの関係で、1年だけ、対馬に戻ることになったのよ。まあ、そんなとこ」1年だけと聞いて、がっかりしてしまった。「1年ですか。ということは、来春には、福岡ってことですね。本当は、私も、福岡が良かったんですが、そうもいかなくて。でも、ひろ子さんに会えて、元気が出てきました。兄の分まで、対馬で親孝行します」

 

 時刻は午後1時を過ぎていた。ひろ子は、立ち上がり挨拶した。「もう、こんな時間。ケーキ、ごちそうさまでした。帰らないと」瑞恵は、またもや、引き留めた。「お昼、まだでしょ。一緒に食べましょうよ。いつも、一人なんです。彼氏、いないし。いいでしょ。何か、急ぎの用でもあるんですか?」ひろ子は、即座に返事した。「別に、ないけど」瑞恵が、ポンと手を打って笑顔で返事した。「何、食べます。お寿司、取りましょうか?すぐ近くに、お寿司屋があるんです。よく、取るんです」ケーキの次は、お寿司じゃ、図々しいように思えたが、帰って一人で食べるのも味気ないと思い、この際、お言葉に甘えることにした。「そお、それじゃ、いただこうかしら」瑞恵は、即座に、出前の注文を取った。「30分くらいかかるそうです。そうだ、アルバム持ってきますね」瑞恵は、自分の部屋にかけていった。両手に分厚いアルバムをもって笑顔で戻ってくると、ひろ子の右横にポンと置いた。

 

 瑞恵は、アルバムをはさむように腰掛け、アルバムを開いた。そこには、マウンドに立っている出口巡査長のユニフォーム姿がった。瑞恵は、寂しそうに話し始めた。「これ、お兄ちゃん。かっこよかったな~。写真見てると、死んだのが嘘みたい。お兄ちゃんのつぶやきが聞こえてくるんです。”よし。抑えてやる。任せとけ”って。今でも、信じられない」ひろ子も写真を見ていると出口の死が嘘のように思えた。突然、オ~~、と叫んで、ドカ~~と開けたドアから、浅黒い出口の顔が現れるような思いがした。「そうね、エースだったな~。かっこよかった」ページを繰ると、ひろ子のユニフォーム姿が現れた。ひろ子は、叫んだ。「え、これって、私じゃない。なんで、こんなに」瑞恵も最初見た時、ひろ子のたくさんの写真にびっくりした。「お兄ちゃんたら、ひろ子さんのファンだったみたい。うわさに聞いたんだけど、ひろ子さんのペア、ビューティーペア、って言われていたんでしょ」

 

 ひろ子は、出口に盗撮の趣味があるとは夢にも思わなかった。男子は、見かけによらず、ドエッチだと思った。「ちょっと、これって、盗撮じゃない。いやね~。まったく」瑞恵は、クスクス笑い始めた。「男子って、こんなものよ。いいじゃないですか。男子に人気があって。お兄ちゃんは、ひろ子さんが好きだったのよ。こんなにたくさん、よく撮ったものね」瑞恵は、ハハハハハ~~と大声で笑った。ひろ子は、恥ずかしくなったが、部活の写真に改めて見入ってしまった。というのも、部活の写真は、部員の集合写真しか持っていなかったからだ。特に見入ったのは、県大会ベスト8の数枚の写真だった。その試合は、最終ゲームまでもつれて、ひろ子のスマッシュがアウトになり、ゲームセット。ベスト4進出はならなかった。さゆりと抱き合って泣いている姿の写真に見入っていると、あの県大会での大事件を思い出した。

 

 

 ひろ子は、泣き崩れている二人の写真を指差し、つぶやいた。「この試合の時、大事件が起きたの」大事件と聞いた瑞恵は、身を乗り出した。「え、大事件ですか?どんな?」大事件といっても噴き出すような事件だった。「聞きたい?まったく、バカげた事件よ。聞いたら、大笑いするから」そこまで言われたら聞かずにはいられなかった。「聞かせてくださいよ。もったいぶらなくても、いいじゃないですか?」ひろ子は、高校時代を思い出していた。「みずえさんは、中学生だったから、覚えてないかもね。出口君のズル休み」瑞恵は、思い出せなかった。「ズル休みなんか、してないと思うけど」ひろ子は、瑞恵の顔を見つめ話し始めた。「それが、大問題になったズル休みなのよ。話せば、ちょっと長くなるんだけど、いい思い出だから話すね」瑞恵は、目を輝かせてひろ子を見つめた。ひろ子は、脳裏のスクリーンにコートを駆け回る青春時代を映し出した。

 

 ひろ子は、一呼吸置くと話し始めた。「私のペアは、県大会に出たのよ。その会場は、佐世保市の総合グランドだったの。結果は、奇跡的にベスト8に入ってね。それは、うれしいことだったんだけど、この試合の応援に来ていた、とんでもない野球部の3人組がいたのよ。その中の一人が、出口よ。出口から後になって話を聞いたんだけど、そもそも、言い出しっぺは、長嶋っていう金持ちのヤンキーみたいなやつ。ビューティーペアの応援に行こうと言い出したんだって。出口は、旅費がかかるから、行かないと言ったらしいんだけど、お金の心配はしなくていい、俺のオヤジが出してくれるから、って言って、出口は誘いに乗ったらしいの。月曜の早朝、親には朝練があると言って家を出て、3人は、長嶋のオヤジのお抱え運転手に乗せてもらって、空港に行ったらしいの。そう、長嶋のオヤジは、市会議員の議長といってた」

 

 面白くなってきた話に何度もうなずき瑞恵は、聞き入っていた。「お兄ちゃんも、いい加減なやつね」ひろ子は、ニコッと笑顔を作って、話を続けた。「応援に来てくれたのはいいけど、ズル休みじゃない。それが、誰かにチクられて、ばれたのよ。それからが、大変よ。教頭は、カンカンになって、野球部は何をやってるんだ。3人は、停学処分にする、と武田監督に言い放ったのよ。監督も仮病を使ったのは、よくないと思ったらしいけど、応援に行ったことは、悪くはないと思ったらしいの。それで、監督は、停学処分はひどすぎると思い、嘘をついて、この場を切り抜けたの。なんと、監督自らが、応援に行くように指示した、って言ったらしいのよ。そうなれば、監督が責任を取らなければならないでしょ。監督は、自分が責任を取ります。監督をやめます、と言い放ったんだって。教頭は、嘘を言ってるとわかっていても、監督自ら、責任を取るといわれれば、教頭まで、責任問題になるじゃない。結局、停学処分は、取り消されたんだって」

 

 瑞恵は、目をパチクリさせて、うなずいていた。「ということは、お兄ちゃんが、警察官になれたのは、武田監督のおかげってことね。停学にでもなっていたら、警官になれなかったかも」ひろ子は、大きくうなずき、返事した。「そうなのよ。その時、監督は、生徒の将来のことを考えたと思うの。停学ってことになれば、その生徒は、不良というレッテルを張られるじゃない。それでは、就職に不利になると考えたのよ。さすが、武田監督ね」瑞恵は、何度もうなずき、感心したような表情で返事した。「武田監督って、顔は、アホみたいだけど、すごい人なんだね。教師のかがみってやつね。青春ドラマの教師みたいね」ひろ子は、ワハハ~と笑い声をあげた。「武田監督のおかげで、警官になれたようなものかもしれないけど、警官にならなければ、死ななくてもよかったかも。なんだか、出口って、運のないやつ」

 

 突然、呼び出し音がした。瑞恵は、飛び上がって、返事に向かった。しばらくして、インターホンが鳴ると瑞恵は玄関にかけていき、出前を受け取った。「ひろ子さん、やっと食べられますよ。さあ、どうぞ」盛り合わせの寿司をテーブルに置いた。お腹がすいていた二人は、あっという間に、3人前をたいらげた。ご馳走になって、さっさと帰るのは、気が引けたが、帰宅することにした。「今度は、私が、おごるから。もう帰らないと。長居しちゃって、ごめんね」瑞恵は、顔を左右に振った。「とんでもない、ひろ子さんとお話しできて、気持ちがすっきりしました。また、是非、遊びに来てください」ひろ子は、自宅のマンションに戻り、大野巡査からの電話を待った。

 

春日信彦
作家:春日信彦
対馬の闇Ⅳ
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